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平静を装おうと努めるが、背中の温もりや楓の髪から漂う甘い香りが俺の理性を揺さぶり続ける。
いつもの元気なしっかり者で
時にツンとした態度さえ見せる楓からは想像もつかない
あまりにも無防備なその姿に口の緩みを抑えることに必死だった。
「楓くん、起きて」
アパートが見えてきたところで、俺は平静を装いながら、努めて優しい声で言った。
同時に、トントン、と楓の肩を軽く叩く。
少し揺さぶるようにすると
背中の楓がむにゃむにゃと身じろぎ、やがてゆっくりと顔を上げた。
「あ、あれ……じ、仁さん?」
まだ夢と現実の狭間をさまよっているような、とろんとした目で俺を見上げ
そして状況を把握したのか、驚いた表情を浮かべ
る。
その顔に、ようやく少しだけ赤みが差してきたのを見て、安堵と同時に
やはりこの状況は誰にも見せたくないという独占欲のようなものが湧き上がる。
「もう家着いたよ」
そう言って、ゆっくりと背中から楓を下ろした。
足元がおぼつかない楓の体を支え、地面に立たせ
る。
楓は、まるで子供のように目をゴシゴシと擦りながら、よろよろと姿勢を正した。
「鍵、ある?」
俺が尋ねると、楓はふらつきながらも自分のポケットをゴソゴソと探し始めた。
いくつかポケットをまさぐった後、小さく
「あ、ありました」と呟き、鍵穴に差し込む。
しかし、楓はまだ半覚醒といった様子でドアの前に立ち、少しばかりの間、立ち尽くしていた。
「入んないの?」と聞くと、こちらに向き直り
「えっと、その、ありがとうございます…送って、くれて」
しどろもどろになりながらも、律儀にお礼を言う
いつもの楓ならもっと流暢に感謝を述べるのだろうが、酔いのせいか言葉が出てこないようだった。
そのぎこちなさもまた、普段とのギャップで俺の胸を締め付ける。
そしてそのまま玄関の中に入ろうとした、その時
ガンッ!
鈍い音が響き、楓はフギャッと変な声を漏らした。
それもそのはず、扉を開けないで入ろうとしたのだから
キャップを外さないでペットボトルの水を飲もうとするバカさと一緒で
それがあまりにも可愛すぎた。
「だ、大丈夫…か?」
心配して声をかけると、楓は頭をさすりながら、少しだけ涙目になっている。
その姿はあまりにも無防備で
そして、どうしようもなく愛おしかった。
いつもはピンと張り詰めた緊張感をまとっている楓がここまで心を許して、酔いに身を任せている。
この姿を、誰にも見せたくない。
俺だけのものにしておきたい、と心から思った。
「だ、大丈夫です…じゃあ仁さん……おやすみなしゃい」
頭をぶつけた痛みに耐えながら、楓はなんとか扉を開け玄関の奥へと体を入れた。
そして、扉を閉めようとする寸前
わずかに開いた隙間から、ひょっこりと顔を覗かせる。
まだぼんやりとした表情で、小さな手をひらひらと振って「ばいばい」と合図を送ってきた。
「…おやすみ」
俺は努めてクールに、普段通りの声で返した。
何食わぬ顔で楓を見送り、パタン、と扉が完全に閉まる音を聞く。
次の瞬間、俺はまるで糸が切れたかのようにその場で膝から崩れ落ちた。
そのまま両手で頭を抱え、しゃがみ込む。
(はああぁ……っ、可愛すぎんだろ……)
誰にも聞かれないことをいいことに、俺はそのまま悶絶した。
普段の冷静さなど、どこにも残っていなかった。
背中を預け、甘い匂いを呟き
頭をぶつけ、そして最後の「おやすみなしゃい」と手を振る仕草。
その一つ一つが、俺の心を捕らえて離さない。
俺はそのままの姿勢で大きく深呼吸し、気持ちを落ち着けようと努めた。
それでも心臓は早鐘を打ち続け
まるで全力疾走した直後のように息が上がっていた。
◆◇◆◇
楓が部屋に入った後、俺は玄関でしばらく呆然としていた。
酔い潰れて、無防備にすり寄る楓
まるで自分のものになったかのような錯覚に陥りそうになった。
そんな夢のようなひとときが、頭から離れなかった。
俺は再び大きく深呼吸し、部屋に上がる。
いつも通りの殺風景な部屋の中を見てホッとすると同時に
さっきまでそこにあった温もりが消えてしまったことを自覚して寂しくもなる。
そんな俺の葛藤をかき消すかのようにキッチンに向かい
食器棚から取り出した透明なガラスコップに水道水を注ぎ、喉に流し込んだ。
「……はあ」
冷たい水が体内を駆け巡り、大きく息を吐く。
同時に昂ぶった感情も鎮められた気がして、ようやく冷静になれた気がした。
テーブルの上に空のグラスを置くと
俺はソファに倒ねこむようにして、寝転がった。
そして目を閉じながら思い出すのは
楓が俺のことを知りたいと言ってくれたことだった。
『……忙しいの分かるけど、仁さんと呑む機会減ってから、なんか寂しいです…っ』
『おれ、もっと…じんしゃんと仲良くなりたいん、です…けお……っ』
そんな楓の言葉が何度も脳裏でこだまし、網膜に焼き付いていた。
胸の奥で温かいものがじんわりと広がっていくのを感じる。
それは、俺がに対して抱いている、決して届かないはずの感情が
少しだけ報われたような、そんなささやかな喜びだった。
「寂しい」「もっと仲良くなりたい」───…
酔った勢いとはいえ、楓の口から聞かされたそれらの言葉はまるで麻薬のように俺の心を侵食していく。
これまで必死に抑え込んできた「期待」という名の蓋が、少しずつ開いていくのを感じた。
しかし、同時に頭の片隅で鐘が鳴り響く。
これは、俺が望むような「恋」の感情ではない。
あくまで「友達」としての好意。
そう、今までも言い聞かせてきたはずだ。
なのに、どうしてこんなにも心がざわつくのか。
ソファに寝転がったまま、天井を見上げる。
部屋は静まり返り、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。
楓の潤んだ瞳、頬を赤らめて必死に訴えかける姿
そして最後、呂律の回らない口でお礼を言っておやすみと、手を振る仕草……
全てが鮮明に思い出され、熱い吐息がこぼれた。
俺は一体、どうすればいいんだ。
このどうしようもない感情を、どう処理すればいいのか。
楓の言葉は、俺の心に小さな希望の灯をともした。
それは、もしかしたら、という微かな可能性。
楓が俺を「α」として見ていないと知って、距離を置こうと決めたはずなのに。
もっと仲良くなりたいなんて言われたら
楓も、もしかしたら俺のこと…なんて期待してしまう自分がいた。
結局俺は楓の無邪気な好意を
自分にとって都合の良いように解釈しようとしているだけで
|あの子《楓》に甘えているだけなのかもしれない。
眠りにつく前、楓の顔が脳裏に浮かぶ。
無防備で、愛らしくて
そして少しだけ寂しそうなその表情は、俺の心を締め付けるには充分すぎた。
もし、もしもこの感情が
俺が望む意味の「寂しさ」だったとしたら──
そんな甘い妄想に浸りそうになる自分を叱咤する。
ダメだ。
これ以上、あの子を困らせるわけにはいかない。
俺の勝手な期待で、楓との関係を壊すことだけは避けなければ。
俺の心の中はまた、先の見えない闇に覆われているかのように
楓の言葉は、俺の心に複雑な波紋を広げていた。