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#戦乙女
234
重力が死んでいた。
いや、正確には死んでいない。
死んでいたのは、私の上下感覚だった。
リツは壁も天井も走れる。
問題は、走れることではない。
速すぎることだ。
私はリツを履いたまま、ワロス城の奥から伸びるねじれた通路を走っていた。
走っていた、というより、走らされていた。
床を蹴ったと思った次の瞬間には、壁を走っている。
壁を走っていると思った次の瞬間には、天井を走っている。
そのたびに、私の体だけが常識から置いていかれた。
床が床じゃない。壁が壁じゃない。
天井が床になったり壁になる。
「リツ!! ちょっと!! 止まって!!」
『……止まりたい……でも止まれない……私の人生みたい……』
「そんな哲学いらねぇぇぇッ!!」
リツの靴底が天井を蹴るたび、私の体がぶら下がる。
腕も膝も、内臓も、全部が一拍遅れてついてくる。
「うわぁ!? なになになに!? 重力が裏切ってる!!」
その瞬間。
私の脳内に、いつものムダ様の声が流れ込んだ。
『重力ってのはな、“拳の方向”だ』
……。
…………。
「……ははーん?」
分かった。完全に分かった。
私は焦りの顔から、悟りのドヤ顔へ変化した。
『……え、なに?』
リツが足元で震える。
「つまり、拳が重力ってこと」
『……は?』
「拳の向きが、落ちる方向。
拳の向きが、進む方向。
拳の向きが、人生。
私理解した。人生は筋肉。」
『……違う……絶対違う……』
「違わない」
その時、私は思い出した。
コンビニで買ったチキンを、イートインの席で落とした時のことを。
それは希望だった。
まだ熱かった。
なのに、床が受け取った。
一口も食べていなかった。
「いや!……あぁ!?」
私の声に振り向いた周囲は、優しく見て見ぬふりをした。
(返せよ……私のチキン……!)
絶望と怒りと恥が、拳に集まる。
【スキル:《怪力》発動】
【スキル:《鉱物化》右腕限定】
右腕が、みしりと重くなった。
皮膚が硬くなり、腕が石みたいに冷えていく。
『……サクちゃん……?』
「止まれないなら……殴ればいいッ!!」
私は足元の石面に、鉱物化した拳を叩き込んだ。
ズドムッ!!
拳が石面にめり込む。
全身に衝撃が走り、勢いが無理やり殺された。
リツの靴底が、ぎゅっと石面を噛む。
ズザザザッ!!
私は前のめりに滑りながら、なんとか止まった。
「ほら止まった!! ムダ様、正しい!!」
『……それは重力じゃなくて……拳を杭にしただけ……』
「拳が止まる場所を決めた!!」
『……もう何も分からない……』
「全部、拳が解決する」
『……サクちゃん……信じる力がバグってる……』
リツの言葉は聞こえた。
聞こえたうえで、無視した。
「この世界、筋肉で説明つくわ」
私は鼻息荒く叫んだ。
足元で、リツが力なく靴底を震わせた。
『……疲れた……ところで……靴って……どこまで走れば……存在、あるのかな……』
「めんどくさい!!」
リツがまた哲学モードに入りかけた、その時だった。
ふわり、と。
微かな風が通った。
瘴気とは違う。
石と血と古い魔力の匂いでもない。
甘くて、懐かしい。
「……金木犀?」
瘴気の濃い奈落で、その匂いだけが場違いだった。
『……え……この気配は……』
リツの声が、かすかに揺れた。
足元の靴が、さっきまでとは違う震え方をした。
千年、ずっと暗闇の中にいた靴が、今だけ息を止めた。
さらに、その奥から声が聞こえた。
「ユズリハ殿、こちらですぞ!」
『辰夫、待って!!
ほら……あれ、サクちゃんじゃない!?』
「!!」
聞き覚えのある声に、私は息を呑んだ。
『……リンドヴルム……と、ユズ姉……?』
リツの靴底が、小さく震える。
通路の先に、二つの影が見えた。
ひとつは、やたら姿勢のいい竜王。
もうひとつは、巨大な籠手。
辰夫と、ユズリハだった。
「辰夫!! ユズリハ!!」
「サクラ殿!?」
『サクちゃん……!
……え、リツ……リツッ!!』
ユズリハの声が跳ねた。
辰夫は一瞬きょとんとして、それから足元を見た。
「え? リツ殿……? どこに?」
リツが震えていた。
それは恐怖でも痛みでもない。
もっとやわらかい震えだった。
『……ユズ……姉……?』
『リツ……!!』
ユズリハの声が割れた。
『生きてた!! 生きてたのねぇぇぇ!!』
ガチャコン!!
籠手と靴が抱き合った。
いや、抱き合ったように見えた。
実際の構造は分からない。
だって片方は籠手で、片方は靴だ。
感動の再会をやっていい形状ではない。
「靴ッ!? リツ殿も防具に!?」
「籠手と靴の抱擁!! 目の前で不思議なことが起きてる!!」
『リツ……リツ……!』
『……ユズ姉……私……靴なのに……まだ……存在してて……いいの……?』
『いいわよ!!』
ユズリハは即答した。
『サクちゃんを蹴って、走らせて、支えて……最高の靴よ!!』
『……恥ずかしい……照れる……消えたい……』
リツが小声で呟く。
『消えるな!! 妹!!』
ユズリハが叫ぶ。
辰夫は涙目で、その場に立ち尽くしていた。
「千年越しの……姉妹の再会……美しい……籠手と靴ですが」
「千年……」
私も少し泣きそうだった。
ユズリハとリツ。
千年前に引き裂かれた姉妹が、ここでまた会えた。
「ユズリハ……リツ……よかった。本当に」
『サクちゃん……』
『……ユズ姉……』
千年越しの感情が、そこでようやくひと区切りついた。
その直後。
辰夫が、ふと固まった。
「……リツ殿……? 本当に……リツ殿なのですか……?」
リツが、ゆっくり辰夫の方を向いた。
靴なのに。
表情が浮かんで見える気がした。
『……リンドヴルム……』
「今は辰夫って名前だよ、リツ」
私が言うと、辰夫が下を向いた。
「誇りを取り戻したい……」
辰夫の声が震えていた。
「私が付けた名前に不満でも?」
「ありません!!」
辰夫は秒で正座した。
「千年前……ユズリハ殿とリツ殿は、我が“主たち”でした」
辰夫は胸に手を当てた。
「ユズリハの時もそう言ってたね」
リツが小さく頷いた。
『……あなた、敵にとどめを刺す前に、“まだ話し合いの余地があるはずですぞ”って言い始めるから……
……私が後ろから蹴って動かしてた……』
「それは、平和的解決をですね……」
辰夫の背筋が伸びた。
私とユズリハは黙った。
「……こいつ、千年前から変わってねぇ……」
「リツ殿は、いつも我に対して誠実であってくれて……いつも……蹴られていたような……?」
辰夫は目の前の靴を見つめ、真剣に眉を寄せた。
「混乱してる!?」
辰夫はそこで、ようやく現実を直視したように顔を歪めた。
「ユズリハ殿は籠手。
そしてリツ殿は、靴に……どうして……そんな……」
『……気付いたら……こうなってた……』
リツの声が、ひどく小さかった。
『それから……サクちゃんが拾ってくれた……だから……今も立ってられる……』
「……リツ」
『……ユズ姉……靴になって……ごめん……』
辰夫が一歩、前に出た。
「靴だろうと、籠手だろうと、関係ありません!!」
辰夫の声はまっすぐだった。
「ふん。まあ、分かってるじゃん」
私は腕を組んで頷いた。
『そういうとこだけ竜王なのよね……』
ユズリハが呟く。
『……ありがとう……』
リツの靴底が震えた。
小さな声だった。
けれど、ちゃんと届いた。
その時、私はふと思い出した。
金木犀の匂いに混じっていた記憶。
鳴く岩として回収された時の、あの絶望。
「……で、辰夫?」
「ひっ」
辰夫の背筋が、さっきよりさらに伸びた。
「私がワロスに“鳴く岩”としてお持ち帰りされた時」
「はい……」
「なんで!! 助け!!!! なかった!!!!」
「申し訳ございませんでしたぁぁぁ!!」
辰夫は正座した。
『サクちゃん違うの』
ユズリハが、そっと口を挟んだ。
『辰夫はね、見つけてもらえなかったの』
「んん?」
『真っ正面に立って叫んだの。
でも、その辺の虫と同じ扱いされたの』
「えっ」
『私たちも、その辺の虫には無関心でしょ?
仕方ないのよ。ノーマルレアだから』
……ぴちょん。……天井からゆっくりと水滴が落ちた。
私は辰夫を見た。
──辰夫は、地面を見ていた。
「ひどすぎワロタ」
『……薄い……』
リツがぼそっと言った。
「はぁ……はぁ……はぁ……!!」
辰夫が過呼吸になりかけている。
『……辰夫? 一緒に自爆する?』
「……良いですな……是非ともお願いしたいです……」
「誘うな!!
……リツ!! そんなに言うなら一回、自爆してみろ!!」
『……どうやるの……』
「こいつ……」
私は大きく息を吸った。
「でも、よく生きてた。二人とも」
辰夫が顔を上げる。
「サクラ殿こそ……」
『リツ、サクちゃん……四人そろったね』
『四人……空気が重い……辛い……辰夫……邪魔……』
「我が邪魔ッ!?」
「リツ、再会直後に切れ味戻すの早い」
その瞬間、風が吹いた。
瘴気じゃない。
金木犀でもない。
もっと乾いていて、もっと広い。
地上の風だった。
「……出口、近い」
『ワロスの気配は、まだ遠い。今がチャンスよ』
「参りましょう」
「そうね」
私は拳を握った。
敵はまだ追ってくる。
ワロス様の気配も、遠くで重くうねっている。
でも、四人そろった。
籠手。
靴。
竜王。
そして私。
まともな装備編成ではない。
でも、まともじゃないから、ここまで来られた。
「行くよ」
私は前を見た。
敵が来たら殴ればいい。
それでいい。
光がある限り、行くしかない。
絶対に、帰る。
(つづく)
◇◇◇
──【グレート・ムダ様語録:重力とは拳である】──
『重力ってのはな、“拳の方向”だ』
解説:
お前らは下に落ちると思ってるだろ?
違う。
拳を叩き込んだ場所が、重力になるんだ。
だから迷ったら殴れ。
止まりたいなら殴れ。
曲がりたいなら殴れ。
矛盾してるのは重力の方だ。
俺の拳は一貫してる。
コメント
1件
読了しました!「重力は拳の方向」ってムダ様の名言をここで回収してくるとは…。無茶苦茶な理論なのにサクちゃんが真顔で人生=筋肉ってドヤ顔するのがツボでした(笑)。そしてリツとユズリハの姉妹再会、籠手と靴の抱擁という形状に笑いながらも、千年越しの感情がちゃんと温かくて泣きそうになりました。辰夫の「ノーマルレア」扱いとか「一緒に自爆する?」の流れも含めて、このチームの空気が最高です。設定の強引さと感動を両立させる手腕、いつもながら見事ですね!