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桟橋を戻る足取りは、来たときよりずっと重かった。潮風は変わらず吹いているのに、肌にあたる感触が少し冷たく感じる。
「さっきの……大事なやつだった?」
翔太が横目で私を見た。
「ううん、なんでもない」
笑ってみせたけれど、その笑顔はたぶんぎこちなかった。
本当は、あの封筒の中に全部詰め込んでいた。
好きだという言葉も、聞いてほしかった気持ちも。
港を離れる頃には、空は金色から藍色へと変わっていた。
夕日が沈みきった後の光は、どこか優しくて、でも寂しい。
歩くたびに、足元のアスファルトが一日の熱を少しずつ手放していくのを感じた。
家の近くまで来たとき、翔太が立ち止まった。
「じゃあな、夏海。……元気でな」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。
返事をしようと口を開いたけれど、何も言えないまま、翔太は背を向けた。
家に着くと、部屋の窓から海が小さく見えた。
さっきまでそこにいたはずなのに、もう別の世界の出来事みたいだ。
私は窓辺に座って、波の音に耳を澄ませた。
あの封筒は、今も海のどこかで揺れているだろうか。
もしそうなら、私の言葉はきっと波間に漂って、いつかどこかへ届くかもしれない。
でも、それはもう翔太じゃないかもしれない——そう思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。
夏の夜風が、カーテンをやさしく揺らす。
その匂いの中で、私は静かに目を閉じた。