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放課後の光は沈みかけ、校舎の影が長く伸びていた。日下部はグラウンド脇のフェンスにもたれ、スマートフォンを手にしたまま、何度もためらっていた。
連絡先の一覧に並ぶ「怜央菜」という名前。その文字の上に、指がかかっては離れる。
結局、ため息とともに通話ボタンを押した。
数秒のコールの後、明るい声が応じた。
「もしもし、日下部? 珍しいね。どうしたの」
その声音だけで、昔の記憶がよみがえる。
小学校の頃、いつも冷静で、でも誰より気が回る少女だった。
それがいま、遥の“姉”でありながら、どこか計算された柔らかさをまとっている。
「……怜央菜、ちょっと相談があって」
「相談?」
「遥のこと。最近、なんか変なんだ」
短い沈黙。
怜央菜の口元に、ほんのわずかに笑みが浮かぶ気配がした。
「変って、どういうふうに?」
「顔色も悪いし、昨日なんて襟の下に痕があった。……もしかして、家で何かあんのか?」
怜央菜はしばらく黙っていた。
だが、その沈黙は驚きではなく、言葉を選ぶためのものに感じられた。
「……そっか。やっぱり見つかっちゃったか」
「え?」
「別に、隠してたわけじゃないけどね。あの子、ちょっとバランス崩してるの。昔から繊細だったでしょ?」
「繊細って……そんな言い方で済むようなもんじゃない」
日下部の声に熱がこもる。
怜央菜は笑うでも怒るでもなく、穏やかに言葉を重ねた。
「でも、あの子が自分で選んでることよ。誰かを責めても、あの子は変わらない」
「選んでる? あんなふうに傷だらけで?」
「うん。あの子、自分で痛みを選んでるの」
声は甘く、しかし冷たく響いた。
「ねぇ日下部。あなた、優しいから何とかしてあげたいんでしょ。でもね、下手に助けようとすると、あの子はもっと壊れる」
「……それでも」
「“それでも”って言うのが、あなたの悪いところ」
怜央菜の声が少し低くなった。
「私ね、あの子のこと、誰より分かってるの。あなたが手を出したら、余計にこじれるだけ。……放っておいてあげて」
「放っておけるわけないだろ」
日下部は声を荒げかけたが、怜央菜の静かな一言がそれを遮った。
「――本気で助けたいなら、離れることね」
その瞬間、彼は言葉を失った。
電話の向こうの彼女は、まるで全てを見透かすような静けさをたたえている。
「あなたが傍にいると、あの子、安心する代わりに依存しちゃう。だから余計に壊れる。……わたしがちゃんと見てるから」
「見てるって……お前、何を――」
「ねぇ、日下部」
怜央菜の声がふっと優しくなった。
「あなたも辛いでしょ? 遥を支えようとして、何も届かなくて。……あの子の“痛み”って、どんな言葉より深いのよ。あなたが触れても、焼けどするだけ」
通話の向こうで、風の音がした。
どこかで車が通り過ぎる音。
その中で、怜央菜はぽつりと付け足した。
「でも、もし本当にあの子を好きなら、ちゃんと離れてあげて。……あなたがいなくても、私が“なんとかする”から」
ぷつ、と通話が切れた。
日下部はしばらくその場に立ち尽くした。
携帯を握る手が、じっとりと汗ばんでいる。
怜央菜の言葉が、胸の奥に刺さったまま抜けない。
“離れることが救いになる”――そんな理屈を、彼女が本気で信じているようには思えなかった。
だが、どこかで確かに感じた。
怜央菜は、ただ“姉”として見守っているわけではない。
その静けさの奥に、冷たい支配の気配があった。
夕陽が沈み、影が長く伸びる。
日下部の背後では、グラウンドの端を歩く遥の姿が見えた。
その背中は、まるで誰かの糸で操られるように、まっすぐ、同じ方向にしか進めないでいた。