夜のリビングには、静かなはずの家とは思えない重さが漂っていた。蛍光灯の光が白く滲み、ソファの影が長く床に落ちる。
怜央菜はその真ん中に腰を下ろし、脚を組んだまま、黙りこくる遥を見上げていた。
「……ねぇ、どうしてあんな顔してたの?」
柔らかい声だった。
けれど、その奥に潜む温度のない冷たさが、空気を一瞬で硬くする。
「学校で、あいつ(日下部)といたでしょ。まるで“何もなかった”みたいな顔で」
遥はうつむいた。
手の甲には薄い擦り傷がいくつも走っている。
それを隠すように膝の上で握りしめると、怜央菜がゆっくり立ち上がった。
「ねぇ、あんた、自分のせいであいつがどれだけ悩んでるか知ってる?」
「……俺、そんなつもりじゃ」
「“つもりじゃない”で済むなら、世の中みんな楽よ」
怜央菜の声が少しだけ低くなった。
言葉に力をこめたわけでもないのに、胸の奥を掴まれたように息が詰まる。
「優しい人ほど壊れるの。あいつ、あんたのために泣いてたわよ」
「え……」
「“助けたい”って。馬鹿みたいでしょ? あんたのせいで傷ついてるのに、まだ“守りたい”なんて」
その言葉に、背後で椅子を蹴る音が響いた。
晃司だ。
苛立ちを隠そうともせず、テーブルを拳で叩く。
「うるせぇんだよ、お前。人に迷惑かけて泣かせて、それでも平気な顔か」
「ちが……俺、そんな」
次の瞬間、鈍い音がした。
肩口に強い衝撃が走り、視界が一瞬にして白く弾ける。
倒れ込む遥を、颯馬が無造作に引き起こした。
「兄貴、やりすぎだって」
口ではそう言いながら、その手にはまるで興味本位のような力がこもる。
「……けど、こいつ、ほんと見てると腹立つんだよな。息してるだけでムカつく」
遥の身体が揺れ、床に手をつく。
掌に冷たい硬さと、痛み。
頬を伝う血が、ゆっくりと顎の先から垂れる。
怜央菜は止めようともしない。
むしろ、目を細めて見つめながら、淡々と口を開いた。
「ねぇ、わかる? 誰もあんたを必要としてないの。
あいつ(日下部)だって、きっと疲れてるわ。あんたの顔を見るたびに、罪悪感ばっかり思い出してる」
遥の胸の奥が、ひどく痛んだ。
怜央菜の声は甘いのに、その一言一言が棘のように刺さる。
「だから、もうやめなさい。あいつの前に立つの」
言葉の終わりに、颯馬が短く笑った。
晃司が再び動き、遥の腕を乱暴に掴む。
「怜央菜が言ってんだろ。聞こえねぇのか」
力任せに押され、床に叩きつけられた瞬間、視界の端で怜央菜の姿がぼやけた。
彼女は微笑んでいた。
優しい姉の顔で。
その笑みだけが、何よりも恐ろしかった。
「……いい子ね。そうやって静かにしてなさい」
彼女の声が遠くなる。
耳の奥で鼓動が鈍く響き、痛みも恐怖も、まるで外側から見下ろされているように感じた。
天井の光が滲む。
誰の声も届かない。
ただ、心のどこかで――
「日下部」という名前が、かすかな呼吸と一緒にこぼれた。
怜央菜はその音に気づいたように目を細めた。
だが何も言わず、背を向ける。
そのまま、静かにリビングを去っていった。
残された空間には、痛みと沈黙だけが満ちていた。







