朝の光が、白すぎて痛かった。校舎の窓から射し込む陽の反射が、廊下の床を淡く照らす。
その光の中を、遥が歩いていた。
いつものように無表情に見えたが、何かが違った。
日下部は教室の入口から、その姿を見ていた。
一歩、また一歩。
歩くたびに、肩が微かに揺れる。
息の仕方がどこかおかしい。
それは、昨日までの“疲れ”とは違う、どこか深い場所から滲み出るような違和感だった。
「……おい、遥」
声をかけると、遥は一瞬だけ足を止めた。
だが振り向かない。
そのまま教室の中に入っていく。
日下部は無意識に後を追った。
教室では、数人の生徒がまだ眠そうに机に突っ伏していた。
そのざわめきの中、遥は自分の席に腰を下ろし、カバンを机の下に押し込んだ。
動作はゆっくりで、どこかぎこちない。
「なあ」
声をかけると、遥はようやく顔を上げた。
目の下にうっすらと隈があり、唇の端には乾いた傷。
制服の襟元が少し乱れていて、そこにのぞく皮膚の色が妙に青白い。
「……寝てねぇのか?」
日下部の問いに、遥は短く「うん」とだけ答えた。
その声が小さくて、かすれている。
しばらくの沈黙。
日下部は机に手をつき、身をかがめた。
「……また、家で何かあったのか」
問いの形を取ってはいたが、ほとんど確信に近かった。
遥は答えない。
視線を逸らし、窓の外を見つめる。
そこには青空と、どこまでも乾いた風の音だけがあった。
「見んなよ」
やっと漏れた声は、震えていた。
「そんな顔で、見んなって……」
その一言に、日下部の胸が締めつけられる。
怒鳴ることも慰めることもできず、ただ机の角を強く握りしめた。
何もしてやれない無力感が、喉の奥で金属の味を残す。
ふと、遥が立ち上がる。
その瞬間、肩をすくめたように体がびくりと反応した。
背中を通る筋肉がこわばっている。
日下部はその動きを見逃さなかった。
「遥」
思わず呼び止める。
「……どこ行くんだよ」
「保健室」
短い返事。
それだけ言って、遥は教室を出ていった。
背中はまっすぐに見えたが、その歩幅は不安定だった。
日下部は席に戻れず、しばらくその場に立ち尽くした。
何も言えない。何も触れられない。
だが――目に映るその背中には、確かに“痛みの形”があった。
窓の外で、風が強く吹いた。
木の枝がこすれる音がして、空気の匂いが変わる。
日下部はゆっくりと目を閉じた。
頭の奥で、あの夜の映像が勝手に再生される。
庭での遥の震える声、怯えた目、言いかけてやめた言葉。
(……また、あの家か)
胸の奥が重く沈む。
見えない暴力ほど、恐ろしいものはない。
その痕は、声にも、表情にも、仕草にも残る。
だが誰も気づかない。
いや――気づこうとしない。
チャイムが鳴り、朝のざわめきが戻る。
生徒たちの笑い声が、世界を何事もなかったように満たしていく。
その中で、日下部だけが立ち尽くしたままだった。
彼の視線は、まだ廊下の奥――
消えていった遥の背中を追い続けていた。
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