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「谷」
「はい?」
「お前の好きな女は、付き合いの長い友達関係を終わらせてまで、好きでもない男とセフレになれるような女か?」
溝口さんが片肘をテーブルに立て、顎を拳に載せて俺を見た。
「……え?」
「俺はお前の好きな女のことは知らないが、お前のことは少しは知ってるつもりだ。で、俺が思うに、お前がそこまで好きになる女が、お前の気持ちを蔑ろにして適当な男と遊ぶ女だとは思えない」
「……」
「セフレしていた何年間かに、彼女には恋人がいた時期もあったって言ってたろ?」
「はい」
「本当に居たのかね」
「え――?」
一瞬、呼吸を忘れた。
心臓の動きが大きく、ゆっくりになる。
「恋人がいる時は恋人、恋人がいない時はセフレなんて、お前の好きな女はそんなにスキモノか?」
「ちが――っ」
言いかけたが、言葉が詰まった。
あきらはそんな女じゃない。
だが、知らない人にしてみれば、そうだ。
妊娠しないことをいいことに、セックス三昧の女。
「お前だって、恋人がいる振りをしていたんだろう?」
そうだ。
あきらに恋人がいる間、自分にも恋人ができたからと負け惜しみを言ったこともあった。
「彼女がそうじゃないって、言いきれるか?」
「けど――」
「ま、本当のところは彼女にしかわかんねーけど」
溝口さんの言葉が、喉の奥に小骨が引っ掛かったような不快感をもたらし、小骨を抜こうとひたすらビールを飲んだ。
小骨は全然抜けなくて、寝落ちするまで飲み続けた。
だから、いつものアラームで目が覚めた時、自分がどこにいるのかわからなくて、焦った。布団から起きて、二日酔いに痛む頭を抱えて部屋を出て、台所に立つ堀藤さんを見た時には、更に焦った。
「おはようございます」
「――へっ!?」
「へ、じゃねーよ! お前、ここまで運ぶの大変だったんだからな」
溝口さんがスウェット姿でダイニングに座っている。
そこでようやく、自分がスーツを着ていないことに気が付いた。黒のスウェットはもちろん、俺のものではない。
「スーツはハンガーに掛けてあります」
堀藤さんは台所からコーヒーの香りを漂わせたカップをカウンターに置いた。それを、溝口さんが受け取って口をつけた。
「シャワー浴びて来い」
何がなんだかわからないままに、俺は溝口さんが指さした、風呂があるであろう方向に向かった。そして、やはり何がなんだかわからないままにシャワーを浴びて、リビングに戻る。ドアに手をかけた時、溝口さんと堀藤さんの話し声が聞こえて、思わず手を止めた。
「彩、今晩は?」
「会議の後、飲み会なんでしょ?」
「あー、うん」
「飲み過ぎないようにね」
ジュッ、とフライパンの上で何かが焼ける音。
「どうして週半ばに会議するのかしらね」
「まったくだな」
「明日は何時の飛行機?」
ピッ、と恐らくIHのスイッチの音。
「……有給、溜まってんだよな」
「仕事は溜まってないの?」
「あーや」
間延びした、少し甘さのある溝口さんの声。
二人きりの時は、こんな風に話しているのか。
上司の、上司ではない顔に、なぜか俺が照れる。
「考えとく」
「考えんな。お前は考え過ぎなんだよ。いいか? 有給とは無条件で取得できる当然の権利で――」
「――わかった! 有給取るから」
「よし!」
顔を見なくても、めちゃくちゃ嬉しそうな溝口さんの声。
溝口さんもワンコだったか……。
羨ましいな、と思った。
俺だって、あきらが頭を撫でてくれるなら、喜んで尻尾振って駆け付ける。
ドアを開けると、コーヒーの香りと、ベーコンが焼けた匂い、トーストの焼けた匂いもした。
腹が鳴る。
促されるまま、俺は用意された飯を食った。
昨夜、俺と千堂課長は居酒屋で酔い潰れ、千堂課長は飼い主の元へと強制送還され、俺は溝口さんのマンションに運ばれた。それを聞いた堀藤さんは、出勤時間の二時間前にわざわざ来て、俺たちのために朝食を用意してくれた。
「ご迷惑をおかけしました」と、俺は深々と頭を下げた。
俺が脱ぎ散らかしたスーツは丁寧にハンガーに掛けられ、消臭剤まで吹きかけてもらっていた。ワイシャツは溝口さんの買い置きを譲り受けた。
「長く好きだった女とイイ感じになったのに、友達に戻ろうって言われたんだと」
出社前、わずかに時間に余裕があって、コーヒーを飲んでいた。
堀藤さんは何も聞かなかったけれど、俺が酔い潰れた理由を気にしていないはずはなくて、どう言ったらいいか迷っていたら、溝口さんがぶっきら棒に言った。
俺の、長年の想いと苦悩を、なんとも分かりやすく簡潔に。
それを聞いたら、何だか悩みまくって醜態を晒した自分が、滑稽に思えた。
堀藤さんはリアクションに困ったように、俺に愛想笑いを見せた。
「それは――」
「けど、女も谷のことを好きっぽいんだと」
「そうなんだ」
「どう思う?」と、溝口さんが堀藤さんに聞く。
「俺のことを好きなのに、上司と部下に戻ろうとか言った前科者としては?」
「智也!」
堀藤さんが溝口さんを名前で呼んで、俺がいることを思い出して少し恥ずかしそうに俯いたから、俺は聞こえなかった振りをしてコーヒーを飲み干した。
「溝口さんて根に持つタイプなんですね」
「悪いか」
「もうっ!」と口を尖らせて、堀藤さんもコーヒーをすする。
「で? 彩はどう思う?」
溝口さんがしれっと聞く。
堀藤さんは、仕方がないと言わんばかりに息を吐き、俺を見た。
何を言われるのかと、俺は身構えたが、彼女の唇は開いたと思ったら閉じた。そして、堀藤さんは立ち上がった。
「そろそろ、出よう」
さっさとカップを三つ、台所のシンクに片付け、スタスタと玄関に向かう。俺と溝口さんも後に続いた。
堀藤さんが最初に玄関を出て、次に俺。溝口さんが最後に鍵をかける。
エレベーターを待っていると、堀藤さんが背後の溝口さんに目をやりながら言った。じっくり聞かなきゃ聞き取れない程度の声量で。
「智也、『とりあえず、一緒にいたい』って言ったんですよ」
「え?」
「『先のことはわからないけど、とりあえず恋人に』って。酷いですよね」と言って、嬉しそうに微笑む。
「けど、なんか、嬉しかったんです。本音を言ってもらえて。格好つけた綺麗な言葉より、信じられたから」
本音……。
「格好悪くてもみっともなくても、本音をさらけ出してもらえたら、良くも悪くも気持ちは揺れますよ」
「良くも悪くも?」
「谷主任は、別れた女性と友達になれる人ですか?」
「……いや……」
数えるほどしかいない元カノとは、別れた日から一度も連絡を取っていない。
「だったら、顔も見たくないほど嫌われる覚悟で押してみては? それでもダメで嫌われたら、諦めもつくかもしれませんよ?」
「リスキーな賭けですね」
「友達として、彼女の結婚式に出たいならお勧めしませんけど」
「そんなこと――っ」
「彼女にとって、綺麗な思い出になりたいなら、お勧めしませんけど」
「……」
チンッ、と甲高い知らせと共に、エレベーターの扉が開いた。気づけば、溝口さんが背後に立っている。
堀藤さんが乗って、俺が乗る。溝口さんが乗って、俺と堀藤さんの間に立った。
俺はジャケットのポケットからスマホを取り出し、メッセージを入力して、エレベーターが一階に到着すると同時に送信した。
『この前はごめん。友達に戻ろう』