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#恋愛
ばたっちゅ
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夜明け前の森は、静かだった。
木々の隙間から零れる月明かりだけが、 細い獣道を淡く照らしている。
エレナは足を止めた。
「……もう、大丈夫かな。」
ルシアンは耳を澄ませた。
風の音。
梟の鳴き声。
葉の擦れる音。
しばらくして、小さく頷く。
「少なくとも、今は。」
その言葉を聞いて、 エレナはようやく息を吐いた。
緊張が解けた途端、 足から力が抜ける。
「っ……。」
身体が傾いた。
咄嗟にルシアンが支える。
「大丈夫か。」
「ご、ごめん。」
「謝るな。」
ルシアンは少し困ったように笑った。
「普通の人間なら、とっくに倒れてる。」
エレナも苦笑した。
「普通じゃないみたいに言わないで。」
「普通じゃない。」
「ひどい。」
「追撃隊に追われながら森を走る人間なんて、見たことない。」
思わず笑ってしまった。
ほんの少しだけ。
その笑い声が、 静かな森へ溶けていく。
するとルシアンが不思議そうな顔をした。
「なんだ。」
「ううん。」
エレナは肩を竦める。
「こんな状況なのに、笑えるんだなって。」
ルシアンは少し考えた。
「……俺も。」
「え?」
「逃げてるのに。」
夜空を見上げる。
「少しだけ、楽しい。」
エレナは目を丸くした。
「変な人。」
「お互い様だ。」
二人はまた笑った。
夜が深まるにつれて、 森は冷えてきた。
ルシアンは立ち止まり、 古びた狩人小屋を見つけた。
屋根は半分崩れている。
壁も傷んでいた。
それでも雨風は凌げそうだった。
「今日は、ここだ。」
エレナは中を覗く。
埃だらけ。
古い暖炉。
壊れた椅子。
誰もいない。
「住めそう?」
「贅沢を言うな。」
「ごめんなさい。」
ルシアンは苦笑しながら、 床の木片を集め始めた。
火を起こす。
ぱちぱちと音が鳴る。
暖かな光が、 小屋を優しく照らした。
エレナはその炎を見つめていた。
静かだった。
鐘もない。
怒号もない。
剣の音もない。
まるで、 さっきまで追われていたことが嘘みたいだった。
「……ねえ。」
「なんだ。」
「追撃隊って。」
ルシアンの手が止まる。
「ずっと追ってくるの?」
「来る。」
即答だった。
「一日でも。」
「一年でも。」
「十年でも。」
火が揺れる。
「掟を破った者は、必ず捕まえる。」
エレナは炎を見つめた。
「じゃあ。」
少し考えて。
「ずっと逃げるの?」
ルシアンは答えなかった。
その沈黙が、 答えだった。
エレナは膝を抱えた。
「……ごめん。」
「だから謝るな。」
「でも。」
「私のせいで。」
ルシアンは首を振った。
「違う。」
「違うよ。」
エレナは俯く。
「私と会わなかったら。」
「追われなかった。」
ルシアンは炎を見つめたまま言う。
「会わなくても。」
「いずれ俺は、一族を捨ててた。」
「どうして?」
長い沈黙。
やがて。
「……息が詰まる。」
小さな声だった。
「決まりごとばかりだ。」
「何を食べる。」
「誰と話す。」
「どこへ行く。」
「全部決まってる。」
炎が揺れる。
「ずっと。」
「誰かの決めた夜を、生きてた。」
エレナは黙って聞いていた。
「でも。」
ルシアンが笑う。
「おまえと会った。」
「港で。」
「名前を聞いて。」
「笑われて。」
「変な人って言われて。」
エレナが吹き出す。
「言った。」
「言ったな。」
二人はまた笑った。
「その時。」
ルシアンは静かに言う。
「初めて思った。」
「逃げたいって。」
小屋は静まり返った。
炎だけが揺れる。
エレナは胸が熱くなるのを感じた。
「……私も。」
ルシアンが顔を上げる。
「港を出たこと、なかった。」
「毎日同じだった。」
「朝が来て。」
「働いて。」
「眠って。」
「また朝になる。」
窓の外を見る。
「でも。」
「あなたと走って。」
「怖かったけど。」
少し笑う。
「初めて、自分で何かを選んだ気がした。」
ルシアンは何も言わなかった。
ただ。
静かに頷いた。
その時だった。
ルシアンの表情が変わる。
「……静かに。」
エレナが息を呑む。
外。
何かいる。
足音。
ひとつ。
ふたつ。
いや。
もっと。
「追撃隊?」
エレナが小さく聞く。
ルシアンは首を振った。
「違う。」
その表情が、 逆に彼女を不安にさせた。
「……人間だ。」
外から声がした。
「探せ。」
「この辺りのはずだ。」
松明の灯が揺れる。
村人たちだった。
猟師。
兵士。
港町の男たち。
「いたら知らせろ!」
「ヴァンパイアだ!」
「賞金首だ!」
エレナの顔が青ざめた。
「みんな……。」
知っている顔だった。
市場の店主。
魚屋。
祭りで踊っていた青年。
昨日まで、 普通に挨拶をしていた人たち。
その人たちが。
剣を持っている。
槍を持っている。
ルシアンを探している。
「……どうして。」
震える声で呟く。
ルシアンは苦く笑った。
「追撃隊だけじゃない。」
「掟を破った者には、賞金が懸けられる。」
「人間も狩りに来る。」
エレナは言葉を失った。
外から声が聞こえる。
「人間の娘も一緒らしい!」
「裏切り者だ!」
「捕まえろ!」
エレナの手が震えた。
その震えに気づいたルシアンが、 そっと手を重ねる。
「見るな。」
「……でも。」
「見るな。」
その声は優しかった。
「昨日までのおまえを、思い出せなくなる。」
エレナは目を閉じた。
外では。
自分の名前を呼ぶ声がする。
帰ってこい。
エレナ。
帰ってこい。
その声を聞いて。
胸が痛くなった。
けれど。
隣の手は、 温度こそ冷たいのに、 不思議なくらい安心した。
ルシアンが立ち上がる。
「行こう。」
「どこへ?」
「もっと遠く。」
「誰も知らない場所へ。」
外では、 松明の灯が近づいてくる。
エレナは一度だけ、 故郷の方角を見た。
家族。
友人。
あの港町。
全部。
遠ざかっていく。
そして。
ルシアンの手を、 強く握った。
「……うん。」
「一緒に。」
小屋の裏口を抜ける。
夜の森へ。
松明の光から逃れるように。
追われる者として。
罪人として。
それでも。
互いの手だけは離さずに。
夜明け前の森を、 二つの影が駆けていく。
その背を見送るように、 遠くで狼が吠えた。
そして。
誰にも知られぬまま。
人間とヴァンパイア。
禁忌を犯した二人は、 本当の意味で”逃亡者”になった。
――