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日下部は、遥の泣き顔を見慣れていなかった。
むしろ、遥が泣いていることに気づくのが遅れた。
声を上げず、ただ目尻が濡れているだけだったから。
痛みに鈍くなった人間の涙は、あまりにも静かだ。
隣にいても、同じ空気を吸っていても、手が届かない。そんな孤独を、遥はその背中で語っていた。
「泣いてねえよ」
遥はそう言った。息が震えているくせに、声は平坦だった。
嘘だとわかっているのに、それ以上なにも言えない自分に、日下部は苛立った。
何をすれば、こいつを救えるんだ。
どうすれば、あの笑わない笑顔を止められるんだ。
触れないのが正解だったのか?
抱きしめなかったのが間違いだったのか?
言葉を選びすぎて、沈黙で傷つけているんじゃないのか?
日下部の“優しさ”は、常に自問と自己否定の中にあった。
遥の傷は深くて、どこまでが冗談で、どこからが本音か、日下部には未だによくわからない。
笑いながら死にたいと言って、次の瞬間には食堂で普通にメシを食っている。
その不安定さに、何度も揺さぶられた。
そして今日、遥は泣いていた。
「俺は……優しさって、無力だなって思ってる」
日下部のその言葉に、遥は少しだけ目を見開いた。
「なんで?」
「ただ隣にいるだけじゃ、何も変えられない。……何も届かないって、思うときがある」
遥は黙って聞いていた。
それは日下部の弱さであり、正直だった。
「守りたい」と思うたびに、自分が何もできない存在であることを思い知る。
救うつもりで言った言葉が、遥の傷を抉っているのかもしれない。
触れないように気を遣えば、それが遥にとっては「拒絶」に映るのかもしれない。
「お前に触れたいと思ってるよ。……でも、お前が“それしかない”って思ってるなら、俺は違うって言いたい」
「なんで?」
「……好きだから」
その言葉に、遥はゆっくりと目を伏せた。
“好き”は、遥にとって、残酷な言葉だった。
好きで殴られた。
好きで黙らされた。
好きで弄ばれた。
その“好き”は、遥にとって痛みの別名だった。
なのに日下部は、それを救いのように差し出す。まるで信じて当然のように。
だからこそ、遥は混乱する。
「お前、さ……たぶん俺のこと、全部わかってないよ」
「わかってない。でも、わかろうとしてる」
即答だった。
遥は黙ったまま、少しだけ日下部の肩にもたれた。
その重みは、ほとんど無いに等しかった。
でも日下部は、今までで一番遥が“寄ってきた”ことを感じていた。
優しさでは、傷は塞がらないかもしれない。
けれど――
その痛みの中に踏み込む覚悟だけは、日下部にはあった。
遥が壊れてしまわないように。
自分自身も壊れないように。
ただ、少しずつ寄り添っていく。
それしかできないことを、日下部は痛いほど知っていた。
でも、それを“無力”と呼ばれることは、もう恐れなかった。