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第7算話 崩れる最適解
負けた日の音は、次の日になっても消えなかった。
パチ、パチ、パチ。
軽い。
短い。
切れ目がない。
教室の机へ肘をついている時も、
ノートの端に数字を書いている時も、
先生の声が黒板をすべっていくあいだも、
その音だけが、頭のどこかで先に走っていた。
ローリエは消しゴムを置き、窓の外を見た。
校庭の隅で、風が砂を浅く巻いている。
それだけで、昨日の石段脇が戻ってくる。
足元を払われる感覚。
考えている間に、次が来る感じ。
読めていたのに、間に合わなかった自分。
読めていた。
そこが一番いやだった。
何をしてくるか分からない相手なら、まだ言い訳ができた。
けれど、イオウの手は見えていた。
軽い数字を続けることも、
待たないことも、
速さが火力ではなく時間を奪うためにあることも、
見えていた。
見えていたのに、決めるのが遅かった。
先生の声が遠くなって、隣の席の椅子が鳴る。
ローリエはノートへ戻った。
数字の横へ、また小さな矢印を書き足す。
左から右。
先に水色。
その次に茶色。
最後に軽い数字。
昨日、石段の脇で組めなかった形だ。
今なら見える。
今なら、きれいに並ぶ。
でも、今は誰も打ってこない。
ローリエはその矢印を見つめて、消した。
放課後、部活へ顔を出したものの、手が落ち着かなかった。
古い機械の画面へ落ちてくる形も、今日は少し遅く見える。
遅いのは機械ではなく、自分の方だと分かっている。
「どうした」
顧問が声をかけたが、ローリエは首を振った。
「ちょっと」
ちょっと、ではなかった。
でも、うまく言えなかった。
早めに部室を出て、坂を上がる。
靴音が一段ごとに揃わない。
いつもなら、坂の町は歩いているうちに頭の中を静かにしてくれる。
けれど今日は逆だった。
上るほど、余計な形が浮かぶ。
あの時、最初に受けを薄くしていたら。
いや、その前に軽く返していたら。
一打目をわざと捨てていたら。
右へひとつ寄せていたら。
どれも、今なら言える。
今なら、机の上でなら、何度でも作れる。
でも本番では、そのどれも届かなかった。
駄菓子屋の戸を開けると、いつものにおいがした。
甘い粉、紙箱、缶のふた。
それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。
おばあちゃんはレジの奥で、駄菓子の箱を組み直していた。
折り目へ指を添え、角をきっちり合わせる。
その動きが、今日は少しだけ羨ましかった。
迷わない手だ。
「いらっしゃい」
ローリエは返事の代わりに、かばんからそろばんを出した。
店の机へ置く。
木枠の角が小さく鳴る。
おばあちゃんはその音だけで、だいたい分かったらしかった。
「引きずっとるね」
ローリエは否定しなかった。
「練習だと組めるんです」
「うん」
「昨日の形も、帰ってから何回もやったらできた」
「うん」
「むしろ、もっといい形も見つかった」
おばあちゃんは箱をひとつ積み、次の箱へ手を伸ばす。
「でも、本番だと遅いんです」
その一言だけ、少しだけ強く出た。
おばあちゃんは箱を置いて、こっちを見た。
静かだった。
でも、聞き流してはいない目だった。
「どこが遅い」
ローリエはすぐに答えられなかった。
どこが。
手が。
いや、手だけじゃない。
目は見えていた。
指も、置く場所を知らないわけじゃなかった。
「決めるところ」
言ってから、胸のあたりが少しだけ痛んだ。
そこが一番認めたくないところだった。
「置く前に、もっといいのがある気がして」
「うん」
「ひとつ決めたあとでも、別の形の方が崩れない気がして」
「うん」
「それで」
ローリエは机の上のそろばんを見る。
「一瞬、止まる」
おばあちゃんは黙った。
その黙り方は、考えているというより、言わせきるための黙り方だった。
「一瞬なんです」
ローリエは続ける。
「ほんとに、一瞬だけ」
「うん」
「でも、その一瞬で来る」
おばあちゃんは、そこでようやく頷いた。
「来るね」
短い返事だった。
けれど、それだけで昨日の負けが、少しだけ自分だけの失敗じゃなくなった気がした。
来るものは来る。
その速さは、たぶん本当にある。
それでも、間に合わなかったのは自分だ。
おばあちゃんはレジ横の木箱を引き寄せた。
珠の入った箱だ。
今日は説明するためではなく、もう少し露骨に試すための顔をしていた。
「やろうか」
ローリエは頷いた。
机の上へ、紙袋をひとつ立てる。
次に、細い板きれを横へ置く。
その少し向こうへ、小さな空き箱。
「倒すだけなら簡単じゃ」
おばあちゃんが言う。
「でも、今やるのはそこじゃない」
ローリエは息を整えた。
おばあちゃんは箱から珠をいくつか取り出し、机の端へ置く。
水色、茶色、緑、軽い数字に向いた小さな玉。
「最初に見えた形を組みな」
「最適解じゃなくて?」
「見えた形じゃ」
ローリエは少し戸惑った。
最適解ではなく。
見えた形。
「雑になります」
「なるかもね」
おばあちゃんは平気な顔で言う。
「でも、立つかもしれん」
ローリエは机の上の袋と板を見る。
頭の中では、もういくつかの形が走っている。
左で受けて、右へ軽く返す。
いや、先に広げてから押す。
いや、それだと遅れる。
じゃあ、板を先にずらして、そのあと袋を——
「ほら」
おばあちゃんのひと声が入る。
「もう始まっとる」
ローリエは自分で少しだけ苦く笑った。
始まっている。
見えた形を組めと言われたのに、その時点で別の形の方へ頭が走っている。
ローリエは、いちばん最初に見えた配置を、わざと拾い上げた。
水色を左へ。
茶色をその右へ。
最後は軽い数字で押す。
上から。
止める。
下から。
止める。
右へ軽い数字。
弾く。
袋が揺れ、板が少しだけ鳴る。
完全ではない。
でも、立った。
おばあちゃんが言う。
「今の、六十点」
ローリエはそろばんを見たまま、少しだけ眉を寄せる。
「低いですね」
「でも、出た」
言われて、ローリエは黙った。
たしかに出た。
崩れなかった。
六十点でも、机の上ではちゃんと形になった。
「次」
おばあちゃんが、今度は板の位置を少しだけ変える。
「見えた形を三つ続ける」
「三つ」
「ぜんぶ正解にせんでいい」
ローリエは息を吐き、また珠を選んだ。
一つ目。
浅い受け。
二つ目。
軽い押し。
三つ目。
右へ寄せて、抜ける形。
頭の中では、もっときれいな流れがまだちらついている。
でも、それを追いかける前に、今見えている三つを置く。
弾く。
一つ目で板が少し立つ。
二つ目で袋がずれる。
三つ目で空き箱が机の端へ寄る。
完全ではない。
きれいでもない。
でも、止まらなかった。
ローリエは、ほんの少しだけ目を見開いた。
「今の」
「遅くなかったね」
おばあちゃんの声は静かだった。
「きれいじゃなかったです」
「うん」
「もっとよくできた」
「うん」
「でも」
ローリエは机の上を見る。
「繋がった」
おばあちゃんは、そこで頷いた。
「それがいる時がある」
店の外で、坂を駆け上がる足音が聞こえた。
短い笑い声が近づき、戸が開く。
短い髪の子と、結び目のゆるい髪の子だった。
ふたりとも頬が少し赤い。
坂を走ってきたらしい。
「こんにちは!」
「こんにちは」
おばあちゃんが返す。
ローリエは机の上のそろばんを見られているのに気づいて、少しだけ背筋を伸ばした。
短い髪の子が、すぐ机に顔を寄せる。
「やってる」
「見ていい?」
結び目のゆるい髪の子も、少し後ろからのぞく。
「いいよ」
おばあちゃんが言うと、ふたりは机の端へちょこんと並んだ。
その目がまっすぐすぎて、ローリエは少しだけ指の置き場に困る。
短い髪の子が言う。
「この前より速くなった?」
ローリエは答えに詰まった。
「……分からない」
「なにそれ」
「分からないんだよ」
本当にそうだった。
速くなっている瞬間もある。
でも、まだ本番の速さには届かない。
結び目のゆるい髪の子が、そろばんの右側を見る。
「こっちが最後?」
ローリエは少しだけうれしくなって、頷いた。
「そう」
「じゃあ、最初はこっち?」
「うん」
短い髪の子が、左端へ指を近づける。
「ここで決めてるの?」
ローリエは少しだけ考えてから答えた。
「ここで、何を先に通すかを決める感じ」
「通す」
「うん」
うまく説明できたか分からない。
けれど、子どもたちはそれで充分らしかった。
短い髪の子は、ふうん、と言って珠の並びを覗き込む。
結び目のゆるい髪の子が、ぽつりと言った。
「でも、ゆっくりだと取られるよね」
その一言で、机の上の空気が少しだけ止まった。
ローリエは言い返せなかった。
そうだ。
まさに、それで負けた。
おばあちゃんが助けるでもなく、ただ続ける。
「ゆっくりでも、間に合う時はある」
「でも、間に合わない時もある」
短い髪の子がすぐに言う。
おばあちゃんは頷いた。
「あるね」
それだけだった。
ローリエは机の上へ視線を落とす。
子どもの言い方はまっすぐだ。
まっすぐだから、言い逃れしにくい。
ゆっくりでも間に合う時はある。
でも、間に合わない時もある。
自分はたぶん、その後ろに隠れていた。
もっと正しく組めば、と。
もっときれいなら、と。
そのうち間に合うはずだと、どこかで思っていた。
でも、間に合わない時は、間に合わない。
おばあちゃんが板を立て直す。
「ローリエ」
「はい」
「次、途中で切り上げてみ」
ローリエは顔を上げた。
「途中で」
「全部つなげんでいい」
「でも」
「いいから」
その言葉に、ローリエは少しだけ戸惑った。
途中で切る。
つまり、もっと先まで伸びるはずの流れを、そこでやめる。
それは未完成にも思えた。
けれど、今のおばあちゃんは、わざとそこを突いている。
ローリエは珠を選ぶ。
左へ水色。
次に茶色。
その次へ軽い数字。
本当なら、さらにもう一つ右へ足したかった。
最後の押しを強めるための一打。
でも、今日はそこを置かない。
ここで切る。
弾く。
最初の流れで板が傾く。
二つ目で袋が浅く揺れる。
三つ目の軽い押しで、板だけが倒れた。
袋は倒れない。
空き箱も動かない。
未完成だ。
でも、ひとつは取れた。
「今の」
おばあちゃんが言う。
「負けじゃない時もある」
ローリエはその倒れた板を見つめた。
全部を取りにいかなかった。
けれど、何も取れなかったわけじゃない。
「切り上げるって」
ローリエが呟く。
「捨てることじゃなくて」
「残すことでもある」
おばあちゃんが言う。
短い髪の子が、へえ、と小さく言った。
結び目のゆるい髪の子は、板の倒れた向こうを見ている。
ローリエは、さっきの並びを頭の中でもう一度なぞった。
本当なら置くはずだった最後の一打。
それを置かなかった。
置けばもっときれいだったかもしれない。
でも、そのために一瞬遅れるなら、板すら取れないかもしれない。
その違いが、今、やっと少しだけ見える。
「最適解って」
ローリエは、そろばんを見たまま言った。
「全部取る形じゃない時もあるんですね」
おばあちゃんは笑わない。
でも否定もしない。
「相手が待っとるなら、全部でいい」
「待ってなかったら」
「途中で切る」
短い髪の子が、すぐに口を挟む。
「逃げるみたい」
おばあちゃんは、その言い方も受け止めた。
「そう見える時もあるね」
「でも、次があるなら?」
結び目のゆるい髪の子が、そっと言う。
おばあちゃんがその子を見る。
少しだけ目尻がやわらいだ。
「それなら、残しとる」
ローリエはその言葉を胸の中で何度も置き直した。
途中で切る。
未完成のまま出す。
六十点でも立てる。
板だけでも取る。
今まで、自分はそれを負けに近いものだと思っていた。
でも違うのかもしれない。
正しさの全部を通せない時に、そこで折ること自体がひとつの判断になる。
きれいではない。
でも、きれいであることと、届くことは別だ。
短い髪の子が、机の端へ頬杖をつく。
「お兄ちゃん、考えるの長いよね」
ローリエは思わず苦笑した。
「知ってる」
「でも、考えるのうまいよ」
そのあとにそう続けられて、ローリエは少しだけ言葉を失った。
短い髪の子は、何でもないみたいにビー玉を指で転がしている。
結び目のゆるい髪の子も、うん、と頷いた。
「遅いけど」
「そこは言うんだ」
「だって遅いもん」
三人とも少しだけ笑った。
おばあちゃんも、ほんの少しだけ口元をゆるめる。
笑っても、事実は消えない。
でも、笑ったからこそ、もう誤魔化せなくなった。
遅い。
考えるのが長い。
そのあいだに、速い相手は来る。
言い逃れできない。
ローリエは珠を見た。
水色、茶色、軽い数字。
どれも、ただの材料ではない。
置き方次第で意味が立ち、立ったものは流れになる。
でも、流れがきれいなだけでは足りない。
途中で切る。
残す。
次へつなぐ。
それも式のうちだ。
おばあちゃんが木箱のふたを閉める。
「今日は、ここまで」
「もうちょっと」
ローリエが言いかけると、おばあちゃんは即座に返した。
「その、もうちょっと、で遅れるんじゃ」
ローリエは口を閉じた。
痛いところばかり刺してくる。
でも、その刺し方がずるくないから、反発しにくい。
子どもたちはラムネを買って帰るらしく、レジの前へ並んだ。
短い髪の子が水色の包みを選び、結び目のゆるい髪の子はモカ色の飴を見つめている。
ローリエはそろばんをかばんへしまう。
木枠の角が、今日は少しだけ軽く感じた。
うまくいったからではない。
重さの中身が、前より分かるようになってきたからだ。
会計のあいだ、レジの上でおばあちゃんの珠が鳴る。
生活の音。
でも、その中にも順番がある。
途中で切るところも、先に通すところも、全部ある。
短い髪の子が帰り際に振り向いた。
「次は速くしてね」
結び目のゆるい髪の子も、小さく手を振る。
「でも、きれいなのも見たい」
それを聞いて、ローリエは少しだけ笑った。
「むずかしいこと言うなあ」
ふたりはそのまま坂を下りていった。
笑い声が、用水路の方へ流れていく。
店の中が静かになる。
おばあちゃんはレジの小銭を整えながら、ぽつりと言った。
「理屈は裏切らん」
ローリエは頷く。
「でも、理屈だけじゃ届かん」
今度は、おばあちゃんの方が頷いた。
「そう」
それだけだった。
それだけなのに、今日の練習の真ん中が、そこへきれいに落ちた気がした。
ローリエは紙袋を受け取り、戸の方へ向かう。
外はもう少しで夕方へ寄りきるところだった。
坂の影が長くなり、屋根の端が茶色っぽく沈む。
戸を開ける前に、ローリエは一度だけ振り返った。
店の中。
レジ。
木箱。
おばあちゃんの小さな背中。
その全部が、静かなのに止まっていない。
必要なところで切り上げ、必要な分だけ残して、次へつないでいる。
外へ出る。
風が頬へ当たる。
坂を下りながら、ローリエは頭の中でまた式を組み始めた。
でも今日は、最後まで伸ばさない形も一緒に浮かんでいた。
六十点で立つ形。
途中で切る形。
次を残す形。
きれいに全部取れなくても、負けない時がある。
そのことが、悔しいのに少しだけ救いでもあった。
イオウの音は、まだ消えない。
パチ、パチ、パチ。
でもそのあいだへ、今日は別の音が入る。
止める音。
切り上げる音。
残す音。
まだ形にはなっていない。
でも、言い逃れのしようがないものとして、胸の中へ置かれた。
自分は遅い。
その欠点は、たぶん本当だ。
けれど、遅いまま全部を伸ばすのか、
遅いからこそ途中を切るのか、
そこはまだ、自分で選べる。
坂の下から、子どもたちの笑い声がまた一度だけ届いた。
ローリエは紙袋を持ち直し、少しだけ歩幅を速めた。
柘榴とAI
