「あ、あ……あははは! ざまあみろ! 私から、恭君を奪ったからよ! これは、罰よ!」
耳障りなヒステリックな声を聞きながら、俺は自分の腹に刺さった包丁を引き抜く。それと同時に、腹からはドバドバと血が流れ出す。
「は、春ちゃん! ま、待って、そんな、死なない……」
「んなことで、死ぬかよ。神津、そんな顔するな」
顔を見たことも無いぐらい青くして、神津は俺の元に駆け寄った。俺は何とか両足で立ちつつ、指された腹を押さえる。思った以上に深く刺さったなと、何処か他人事のように感じていた。
それでも、痛いだの苦しいだの顔に出せば神津が今以上に心配するだろうと、俺は平気なフリをした。
警察時代から公安にいどうになるまでも、事件を解決するに当たって、良く怪我をしていたなとぼんやりと思い出していた。刺されたこと、たまに拳銃なんてどこから入手したんだという犯罪者に撃たれたこともあった。医療が進化していることもあって、傷が残らずに済んだが、その痛みは今も鮮明に思い出せる。身体に刻まれた恐怖は、ふとしたときに顔を出し、一生残る傷だから。
(つか、笑えねえ……この間も、足刺されたばっかじゃねえか)
誘拐事件の時も、思いっきり太ももをブッ刺されて、それでも後遺症も残らず生きている。自分は悪運が強い方なんだと思う。
俺は、狂ったように笑い続ける女性を睨み付けた。
「なあ、これって殺人未遂だよな? お前、もう捕まるぜ?」
「うるさい! 私の恭君を奪おうとしたアンタ悪いのよ! それにアンタが飛び出してきたんじゃない! 私は悪くない!」
そう叫ぶ女性を見て、俺はため息をついた。
少しでも話し合いが出来ると思った俺が馬鹿だった。初めから警察に突きだしていれば……
そう思って、スマホを取り出そうとすると、神津が俺を支えながら女性に尋常じゃないほどの殺気を向けているのが分かった。身体が硬直するぐらい、恐ろしい殺気。
「黙れよ」
「……ひっ、ど、どうして恭君」
「どうして?は?分からないの?僕の春ちゃん傷つけておいて、もしもっと深く刺さっていたら、傷が残ったら、死んでいたら……僕は一生君を許さないよ。逝くなら一人で逝けよ。僕達を巻き込むな」
と、神津は女性に言い放つ。
女性の方はと言えば、神津の殺気に腰を抜かし座り込んでいた。ようやく、自分が何をしたのか理解したか、と俺はほっとする。これで、もうストーカーなど馬鹿げた行為はしないだろうと、神津を見る。もしまだあの殺気だったままだったらと思ったが、俺を見る目は優しく、不安げだった。
そういう顔をさせたくて、飛び出したんじゃないんだけどな……とは、やはりこの場に及んでも言えなかった。
「春ちゃん、今救急車呼ぶからね」
「んな大げさな、歩いて行けば良いだろう」
「ここから結構距離あるじゃんタクシー使っても、帰宅ラッシュだし……もし、傷が残ったら!」
「お前を守った傷が残るのはダメなのかよ」
そう、いつも神津がいうみたいに意地悪に言ってやれば、神津は自分の痛みのように眉間にグッと皺を寄せ、泣きそうな顔を必死に固めて俺に言う。
「嫌だ。春ちゃん抱くとき、思い出しちゃうから」
「はっ……言い方。俺は別に良いけどな、お前を守ったって言う傷なら、残っても」
神津は俺の言葉に目を見開き、俺の腹に視線を落とし、神妙な顔で俺傷口をじっと見つめる。
傷口からは未だ血があふれ出ていて、確かにとても見れたもんじゃないし、見せられるものではない。それを見て、神津はさらにギュッと唇を噛み締めた。
「でも、取り敢えず、病院行こう。見てられない」
「おう、そうだな。お前が言うから、痛くなってきた」
と、神津に肩を支えられ、俺たちは女性に背を向けた。本当なら今すぐに警察に突き出したいところだが俺もこんなんだし、これ以上迷惑行為はしないだろうと考え、神津も釘を刺したし放置することにした。
だが、もう一度忠告と、神津は足を止め振返る。
「悪いけど、君の顔は覚えたし、春ちゃんを病院に連れて行ったら君のこと警察に突き出すつもりだから。逃げても、捕まえて、必ずその罪を償ってもらう」
「けい、さつ……?」
神津の言葉を聞いて、女性はハッと顔色を変え、先ほどよりも現実的に自分のしたことの重大性に気づいたようだ。
俺は神津がまたあの殺気を出すのではないかとハラハラしたが、どうやら大丈夫らしい。神津はそのまま女性に背を向け、歩き出す。俺も、神津に支えられながらゆっくりと歩いた。だが、それはつかの間だった。
「嫌だ、何で警察……嫌だ、私悪いことしてないじゃない。恭君の為に、恭君が! あああああッ!」
(は?まだ、そんなこと言ってんのかよ)
そう思い、後ろを向けば発狂しながら俺たちに女性はタックルをしてきた。幾ら女性と言えど本気のタックルを喰らい、負傷している俺はその場に倒れ、神津も橋の手すりに手をつき、バランスが取れていない。それに追い打ちを掛けるように女性は神津にしがみつき、揉み合いになる。神津は俺を気にしてか、本気で抵抗できていないようで、そのまま女性に橋の上から突き落とされた。
「は……恭?」
落ちていく神津がスローモーションに見えた。それから、一気に時間が戻ってきたように大きな水しぶきが上がる。
女性もそこまでするつもりはなかったと、顔を青くして口元を手で覆っていた。
(クソッ……まずい恭は――――ッ!)
俺はそんな女性の横を通り抜け、自然と身体が動いていた。痛みとか、もうそんなの感じないぐらいに。
――――俺は神津をおって、橋から飛び降りた。
◇◇◇◇
「――――子供が川に落ちたぞ!」
子供の頃、川に落ちたことがあった。
こぽこぽと酸素が抜けていく感覚、上に上がろうという思いに反して、沈んでいく身体。怖くてたまらなかった。
それでも、川に落ちたのは、飛び込んだのは、神津が川に落ちたからだった。
助けなきゃと、学校で溺れている人がいても助けを呼ぶだけにしましょうと、助けにいったら自分も流されてしまうとしつこいほど注意されていたのに、俺はそれを無視して飛び込んだ。助けられると思っていた。でも、川の流れには逆らえなかった。
少し増水していたこともあり、助からないかも知れないと思った。ああ、死んだなって一番記憶に残っている死と生の狭間の感覚。
あの後、どうやって助かったかは覚えていない。親父にもお袋にも怒られた。ほんと、今まで見たこと無いぐらい顔を赤くして、青くして。それからボロボロと泣きながら俺たちを抱きしめてくれた。
あの頃はそこまで大して運動能力が神津が高いわけでも、俺が高いわけでもなかった。だが、神津は致命的な金槌体質で、泳げなかったのだ。だからこそ、俺は自分の危険を顧みずに飛び込んでしまった。
今思えば馬鹿なことをしたと思う。
でも、その時の俺は本当に神津を助けなきゃと思っていて……そして、奇跡的に俺も神津も助かった。
神津はそれ以降、水にトラウマを持っているようで未だ泳げないらしい。今年の夏も海には誘わなかった。綺麗な海がちょっと電車を乗り継いだ先にあるというのに。見るのも嫌がっていた。
「……はっ……ッ」
あの時全く同じ感覚だった。
俺は、必死に水をかいて、水面に顔を出し、呼吸を整えた内、辺りを見渡す。
そうして、姿を見つけた神津に向かって泳ぎ出す。先ほど刺されたところから血があふれ出し、水に流され薄められていく。自分の体内から抜けていく感覚に戸惑い、恐れを抱きながらも、俺は神津の腕を掴むことが出来た。
意に反して沈んでいく身体。
夏の終わりにしては寒くて、夕日で真っ赤に染まった川はとても冷たかった。
――――
――――――――
「は、は……っ、げほっ、ごほ……ぅ」
岸になんとか神津を引き上げることが出来、俺は地面をはいながら神津の息を確認した。幸い息はあり、少し様子を見れば、水を吐き出しつつ、その若竹色の瞳を俺にゆっくりと向けた。
「はる……ちゃん?」
「良かった、恭……無事で」
そう俺が言えば、俺の姿を捉えた神津は何で? とでも言わんばかりに顔を歪めて、雫なのか涙なのかを流しながら俺に抱きついてきた。
べしょりと濡れた服が肌に擦れて気持ち悪い。
「春ちゃん、春ちゃん……」
「おう、おう。生きてるから、大丈夫だぞ」
痛いぐらいに抱き付く神津もまた、水でぐっしょりと濡れた服のまま俺に抱きついてきた。
いつもなら恥ずかしさもあって振り払うのだが、今はそんな余裕はない。俺も神津を安心させるように背中をぽんぽんと叩く。
「……俺、思い出したわ」
「うん?」
「ほら、お前が言ってた、あの時の事って……あれだろ? 川に落ちたときのこと」
「……そう」
神津は、思い出したくないのか今と全く同じ経験を思い出して怖いのか顔を逸らした。
神津は俺が自分を助けたと言ったが、結局のところ俺は神津を助けれてはないし、助けたのは大人達だ。でも、小さい頃の俺は神津を助けるヒーローだって、自分の事を思っていたのかも知れない。それが、神津には本物のヒーローに見えたのかも知れない。
「また、助けられちゃったね……」
「そりゃ助けるだろ。だって、お前は、お前は俺の……」
「明智先生――! 恭さん――!」
俺がそう神津に言いかけたとき小林の声が聞えた。ふと顔を上げれば、橋の上に小林とその後ろに小林にそっくりな女性が立っていた。前に小林が姉がいるといっていたので、きっと姉だろうと予想し、俺はどういうことなのかと、神津を見た。
「さすが、とわ君。出来る弟子を持つと本当にいいね」
と、神津はクスリと笑った。
どういう意味か分からずにいると、遠くから救急車のサイレン音が聞えてきた。
それで、俺は納得した。
「ほんと、お前ってやつ……」
神津に感謝の言葉を送ろうとしたとき、俺の身体は力なく横に倒れた。じくんと腹が痛み、そういえばさっき刺されたんだったなと、ぼんやり思い出しながら、最後に見たのは神津の焦った顔だった。
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