事件はその日の夜に起こった。
「じゃじゃーん!」
帰ってくるなり紫音があ袋を開けたのは、高価そうなガラスケースに入った黒いバラだった。
「なにそれ、すご……」
思わずのぞき込む。
黒いバラってだけでも不吉で気持ちが悪いのに、花弁一枚一枚が生き生きと光っていて、ピンと咲き誇ったそれは、蘇生した死者のような薄気味悪ささえ覚えた。
「ブリザードフラワーだって」
紫音が頓珍漢な解答を返す。
「プリザーブドでしょ。凍らせてどうする」
思わず突っ込むと、紫音は可愛くもないのに頬を膨らませて見せた。
「んで?これどうしたの」
聞くと、
「お隣さんがくれたんだ!」
紫音はころっと機嫌を直して微笑んだ。
お隣さんって……城咲が?
凌空は表情に出さないように驚いた。
ただ家が隣だというだけで、気さくに物をくれるような人間には見えなかった。
少なくとも凌空には、とても親切には見えなかったが。
「それって高価なものなの?」
晴子が低い声で聞いた。
手には包丁が握られていて、その指が小刻みにだが震えている。
(ちょ、怖えって……!)
凌空は笑い出しそうになるのを必死でこらえた。
なにやら面白くなりそうだ。
「ちょい待ち!ええとね……」
凌空はポケットからスマートフォンを取り出した。
(げ……)
声に出さないように目を見開く。
着信17件。全部佐倉からだ。
見なかったことにして、検索ウィジェットを開く。
通販サイトでプリザーブトフラワー、薔薇、一輪で検索する。
「こんくらいかな!11,000円!」
紫音の手の中にあるものと近いバラをピックアップして晴子に見せた。
彼女はオープンキッチンから凌空のスマートフォンをのぞき込んだ。
「…………」
晴子は黙って包丁を置いた。
そして対面型のキッチンを回り込んでくると、紫音の手からぶんどるようにしてガラスケースを見下ろした。
「―――なんで、くれたの?」
ますます声が低くなっていく。
「城咲さんって私の学校のそばのホームセンターの花屋さんで働いてるんだけど、それを知らずに画材を買いに行って、そこで偶然出会って、これ、ただのサンプルだから上げるって」
母の不穏な空気を嗅ぎつけたのであろう紫音が必死でまくしたてる。
ホームセンターの花屋。どおりで。
凌空は一人納得した。
あのラフな格好。
抜けたようなものの話し方。
気まぐれな花のプレゼント。
花屋の店員だからというなら頷ける。
「…………」
ふと思いついて、凌空は母親を盗み見た。
今日、市川家で花を持ち帰ったのは紫音だけではない。
晴子もまたピンク色の花束と、観葉植物を抱えて帰ってきたのだ。
凌空はカマをかけてみることにした。
「サンプルっつってもさ、こんな高価なものをくれるなんて、お隣さんって姉貴に気があるんじゃないの?」
「そ、そんなわけないじゃん!」
紫音が慌てて首を横に振る。
当たり前だ。あんなルックスのいい男がこんな地味なブスに靡くわけがない。
気になるのは紫音ではない。晴子の反応だ。
凌空は黒バラを睨んでいる彼女を横目で見上げた。
「だって婚約者もいるのに!私なんて10歳くらい年下なのに!」
焦った紫音が、ひきつった笑顔で言い続ける。
ーーギギギギ。
どこかから異音が響いてきた。
「………!」
見下ろしたその先には、晴子がジェルネイルを施した爪を立てながら、握っているクリスタルがあった。
(……はは。ビンゴ)
凌空はほくそ笑んだ。
案の定、紫音にプリザーブドフラワーを上げたのは城咲。
そして、晴子に花束を渡したのもまた、城咲。
かたやクリスタルに入れられた見事なプリザーブドフラワー。
かたや小ぶりの花束。
どちらが高価かは一目瞭然。
(……ざまあねえな。クソババア)
凌空は立ち上がった。
「冗談だよ。本気にしてだっさ。着替えてこよっと」
これだけダメージを与えられたら十分だ。
晴子は紫音に負けた。
ルックスという兜を被り、ナイスバディという鎧を着ていたのにも関わらず、若さという名の剣だけで。
これで少しは高飛車な驕りもマシにな―――
「返してきなさい」
「………」
低い声に凌空は振り返った。
晴子が紫音を睨んでいた。
「そんな高価なものをもらったら、こっちだって何かお礼しなきゃいけなくなるでしょ。よく知りもしない男性から物をずうずうしく貰ってきたりなんかして、恥を知りなさい!あなたもう20歳でしょ?」」
晴子は母親としてもっともらしい言葉を並べながら、とても母親とは思えない目つきで娘を睨み落とした。
「ずうずうしく貰ったわけじゃないもん!1回は遠慮したけど試作品だからいいって城咲さんが!」
珍しく紫音が言い返す。
「……城咲さん、城咲さんって、あなたは城咲さんの何なのよ!」
そっくりそのままお返ししてやりたいセリフを吐きながら、晴子がダイニングテーブルを両手で叩く。
「……お隣さんだよ!」
紫音が真顔で言い放った言葉に、凌空は思わず両手で口を押えた。
(なんだこいつら。めっちゃ面白いんですけど!)
どうやら市川家のお隣さんは、この見せかけだけの家族の、上っ面を剥がしにきたらしい。
「私は絶対返しに行かない!そんなに嫌ならママが自分で返しに行ってよね!」
今度は紫音がキッチンカウンターに両手をつく。
顔は似ていなくてもやはり親子だ。仕草もそぶりも、憎たらしい言い方までそっくりだ。
「なんだ、騒々しい」
リビングに太い声が響き渡った。
皆が振りかえるとそこには、鞄を持った健彦が眉間に皺を寄せて立っていた。
◇◇◇◇
「せっかくご厚意でいただいたものを突き返すなんて失礼だろ!」
久しぶりにーーいや、もしかしたら凌空が生まれて初めて聞いた父の怒号が、リビングに響き渡った。
「これから長く付き合っていくご近所さんとの間に、こんなことで亀裂が入ってどうするんだ!」
(へえ。やるじゃん……)
凌空はご近所づきあいなどさっぱりしていなかったくせに、母を一刀両断にした父を見上げた。
そのとき、
プルルルルルル。
プルルルルルル。
音を切っていたはずのスマートフォンが鳴りだした。
(チッ。せっかくいいとこなのに)
母が言い返すところが見たかった。
父がそれに被せて怒鳴るところも見たかった。
でもしょうがない。
「おっと。電話電話―」
凌空はスマートフォンを片手に自室に入っていった。
【佐倉光】
「…………」
凌空はその光る画面をタップした。
「はい」
佐倉とはもう関わってはいけないと、どこかで警鐘が鳴っていた。
しかしこの興奮を誰かに伝えたかった。
父が母を屈服させた興奮を。
「もしもし。佐倉さん?」
凌空は笑いながら応じた。
「今、めちゃくちゃ面白いことが起こってさ……」
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