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🌙 Scene 34:あの頃の景色へ
景兎先輩の言葉を読み返していると、
胸の奥に灯った温度が
ゆっくりと広がっていく。
“落ち着きます。”
その一言が、
思いがけない場所に触れたように
胸の奥で静かに揺れた。
スマホを握る手が、
さっきよりも自然で、
少しだけ軽い。
その軽さに触れた瞬間、
ふと、
“あの頃”の景色が
静かに浮かび上がった。
―同じ職場だった頃。
景兎先輩は、
今のように柔らかい文を書いたり、
気持ちを言葉にする人ではなかった。
あの頃の景兎先輩は、
部署の片隅で
淡々と資料をまとめていた。
品質管理の数字を整理したり、
報告書の誤字を静かに直したり、
誰かの相談に乗るでもなく、
目立つでもなく、
ただ静かに仕事をこなす人だった。
でも、
その静けさの中に
不思議な“気配”があった。
昼休み、
席に戻ると、
景兎先輩はいつも同じ姿勢で
パソコンの画面を見つめていた。
無表情に見えるのに、
どこか柔らかい。
声をかけると、
少しだけ目を上げて
「お疲れさまです」
と静かに返す。
その一言が、
なぜか印象に残った。
必要以上に話さないのに、
冷たくはない。
距離があるのに、
拒まれている感じもしない。
ただ、
“そこにいる”という存在感だけが
静かに残る人だった。
私が困っているとき、
景兎先輩は気づいているのかいないのか、
絶妙なタイミングで
必要な資料をそっと渡してくれた。
「これ、使うと思って」
それだけ言って、
また自分の席に戻る。
あの頃は、
それが特別だとは思わなかった。
でも今、
画面に並ぶ景兎先輩の言葉を見ていると、
あの静けさの奥に
どんな気持ちが隠れていたのか、
少しだけ考えてしまう。
“前みたいに話せるの、
少しだけ期待していました。”
あの頃の彼が
そんなふうに思っていたなんて、
想像したこともなかった。
胸の奥の灯りが、
ゆっくりと揺れた。