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放課後。教室の隅には、また誰かが仕掛けた水がこぼれていた。机の上には教科書がばらまかれ、破られたノートの切れ端に油性ペンでこう書かれていた。
「次はどっちが脱ぐ?」
遥はそれを無言で拾い上げた。破かれたページの断面をゆっくりと指先でなぞる。表情は変わらない。何度も繰り返された手口。慣れたわけではない。ただ、反応するほどの余白すら残されていない。
日下部はその場にいなかった。用があると無理に引き離され、職員室へと呼ばれていた。連絡帳の字が汚いとか、宿題の出し方が甘いとか。どうでもいい理由で。
「お前もグルなんだろ?」
廊下ですれ違った男子に吐き捨てられた。知らない顔。声色も、名前も覚えのない相手。けれど、蓮司の指先がどこまで広がっているのか、思い知るには十分だった。
翌朝。2人の机は廊下に出されていた。
担任は気づかないふりをして、「今日は面談があるから、机の移動があっただけ」とだけ言った。周囲は誰も笑わなかった。むしろ、沈黙そのものが最も強い嘲笑として教室に広がっていた。
「遥、教室入れないなら、保健室行けば?」
女子のひとりが皮肉ともつかない声で言った。顔は笑っていない。ただ冷たい目。誰に命じられたでもなく、空気の温度が遥を追い出していた。
日下部が戻ってくると、遥は廊下に座っていた。濡れた雑巾の跡に制服の裾を染めて。靴も片方しかない。
「……またやられたのか?」
日下部がしゃがんで訊くと、遥は目を伏せて、かすかに肩をすくめただけだった。
「別に。よくある」
その「よくある」が、どれほど異常で、どれほど深く、誰にも届かない場所まで沈んでいくことなのか――日下部には、もうわかっていた。
でも、どうしても言葉が出ない。不器用な言葉は、遙の沈黙を壊してしまいそうで。だから、彼はただ隣にしゃがみこんだ。肩を並べて、無言で、そこにいた。
だが、それすらも、もう許されないらしい。
「じゃあ、そっちも外で授業受ければ?」
教師が通りかかったとき、教室に戻ろうとした日下部に対して言った。完全な無表情。事務的な声。
それは、明確な命令ではなかった。けれど、それがどれほど重たい意味を持つのかは、遥も日下部も痛いほど理解していた。
「そうするわ」
遥が先に言った。ぼそりと。諦めの色すら浮かばない、乾いた声で。
日下部は、ただそれに黙ってついていった。
2人の背中に、何十もの視線が突き刺さっていた。誰も声を出さない。誰も笑わない。
ただ、そこにあったのは「許可された排除」という、制度的ないじめの完成だった。