「一歩間違ったら、コンプラ委員会事案だな」
ずるずると麺をすすって、谷が言った。
「けど、まさかお前がルームシェアとか。かなりの入れ込みようだな」
「さすがに、最初っからそのつもりだったわけじゃないけどな」
俺はカレーライスを頬張る。
「あんまり相手にされないもんだから、ムキになった自覚はある」
「だろうな。他人を自分の領域に入れたがらないお前が、いきなり同居だもんな」
「危なっかしいんだよ、ホント。堅そうな見た目と雰囲気なのに、どっか抜けてて」
「そういうギャップって、ハマるよな」
チャーシューを噛みながら、うんうんと頷く谷を見て、以前、結婚前の谷が言っていたことを思い出した。
谷の奥さんも、きつめの外見と雰囲気だが、実は甘えたで寂しがり。なのに、それを認めようとしないから、ドロッドロに甘やかしてやりたくなると。
谷は長年の想いを拗らせ捲っていたから、ある種の意地や執着じゃないかと思ったが、結婚した上に、結婚してからも溺愛しまくっているところを見ると、一生執着し続けるのだろう。
「まぁ、どうせならチャンスを逃すなよ。犯罪にならない程度で」
「犯罪って――」
「――なに、物騒な話してんだよ」
溝口部長が、水のコップを片手に立っていた。
「あ、お疲れ様です」
「ここ、いいか?」
「え? あ、どうぞ」
「珍しいですね、部長が社食とか」
溝口部長が谷の隣に座る。
「外勤の予定があったから弁当持ってこなかったんだよ。そういうお前は?」
「あきら、風邪気味で。今朝は起こさなかったんです」
「夏バテか?」
「多分。こっち帰ってから仕事探してるんですけど、なかなか決まらなくって。じっとしてられなくて、ブラブラしてたみたいだから」
「谷の奥さん? 仕事探してるんだ?」
「ああ。俺はどっちでもいいんだけど、専業主婦は合わないらしい。釧路にいる時も働いてたから」
「ふーん」
「天ぷらそば、お持ちしました」
声の方に顔を向けると、柳田さんがそばの丼を載せたトレイを持っていた。
そばを部長の前に置き、一緒にトレイに載っていた小さめのおにぎりが二つ載った皿も置いた。
俺と谷のは別の人が持って来たから、社食に来てから彼女の働く様子をチラチラ見ているだけだった。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
柳田さんが俺の食べかけのカレーをじっと見る。
「聞いた通り、美味しいカレーだね」
「良かったです」
「うん。ありがとう」
「では、ごゆっくりどうぞ」
今朝の会話を思い出す。
俺が起きた時には、彼女はもう起きて朝ご飯の支度をしていた。
前の夜に希望を聞かれて、和食をリクエストしてあったから、ご飯に豆腐と油揚げの味噌汁、卵焼き、焼き鮭、白菜の漬物を用意してくれた。
一緒に食べながら、社食でおススメのメニューを聞いたら、カレーライスが上がった。
他の料理でも使われているらしいのだが、たくさんの野菜のゆで汁を使っているから、コクがあり、味に深みがあるのだそう。
彼女の言った通り、あまりこってりし過ぎないカレーは、とても食べやすかった。
「なんだ? 今のちょっと甘ったるい空気は」
部長がサクッと音をたてて、海老天を噛んだ。
「あ、気づきました?」と、谷もラーメンをすする。
「もう、付き合ってんのか?」
「まだです」
「へぇ、手ごわそうだな」
「そうだ! 是枝、部長にアドバイス貰ったら? 彼女に負けず劣らずの鉄壁ガードの彩さんを堕とした人だよ? しかも、千堂課長から略奪して」
そういう噂を、聞いたことがある。
溝口部長が釧路に行く前、奥さんが千堂課長と付き合っていたと。
その頃の俺は札幌にはいなかったから、本当に噂でしか知らないし、どうせ千堂課長を好きな女性たちのやっかみ程度だと思っていた。
「略奪とは違うけどな」
「そうなんですか?」
「千堂も好きだっただけで、付き合ってはいなかったから」
「溝口部長と千堂課長が惚れるって、奥さんてどんな人ですか?」
元はうちの職員だったと言っても、俺は顔も見たことがない。
「普通だよ。特別美人でも、スタイルがいいわけでも、頭がいいわけでもない。な? 谷」
「それ、俺はどう答えたらいいんですか?」と、谷が苦笑いした。
事実だとしても、上司の奥さんについてだ。安易に頷けない。
「俺が思うには、癒し系」
溝口部長の奥さんというだけで、勝手に美人のキレ者を想像していたから、意外だった。
「あと、包容力が半端ない。うちの奥さん、部長の奥さんのこと、めっちゃ尊敬してる」
「谷の奥さんと部長の奥さん、知り合いなんだ?」
「ああ。俺とのメッセージは要点のみ簡潔になのに、彩さんにはめっちゃ長文送ってるし」
「うちも。この前は一時間以上電話してたよな」
「仕事探しに難航してるのも、俺じゃなくて彩さんに相談してるし」
はぁ、と谷と部長が同時にため息をつく。
たまに、嫁が家事や育児を手伝えとうるさいとか、休みの日も休めないとか愚痴っている既婚男性を見るが、嫁に構って欲しくていじけている男は他に見たことがない。
この二人を見ていると結婚が幸せなことなのだと思える。
まぁ、他の奴らの話を聞くと、やっぱり結婚は苦行かと思うけど。
「そういえば、谷の奥さんてどんな仕事を探してるんだ?」
「ん? ああ、飲食関係かな。結婚前は区役所で働いていたんだけど、釧路にいる時に弁当屋で働いて。それが性に合ってるらしい」
「へぇ」
それは、毎日の弁当が美味いはずだ。
カレーライスの最後の一口をすくい、口に入れる。
美味い。
「夫婦でやってる弁当屋で、会社員とか大学生が客のほとんどだから、カレンダー通りの休みが貰えてて良かったんだよ」
「……へぇ」
溝口部長は知っているらしく、黙々とそばをすする。
「けど、家の近場で弁当屋ってなくてさ。カフェよりは定食屋がいいって探してるんだけど、今時、定食屋ってのもなかなかなくてさ」
弁当屋か定食屋。
カレンダー通りの休み。
……ん!?
「いっそのこと、自分で店を開けばいんじゃね?」
「簡単に言わないでくださいよ。さすがにそこまでは――」
「――いい職場、あるかも!」
「はっ!?」
「雇用条件を確認して知らせるから、奥さんに聞いてみてくんない?」
「どこだよ」
「ここだよ、ここ! うちの社食」と、俺はテーブルを指で叩く。
「柳田さんを経営戦略企画部に引っ張って、代わりに清掃に回した基山が辞めたろ? で、総務から柳田さんを返してくれって言われてんだけど、嫌だっつったら、じゃあ代わりの人員を補填しろって言われてさ。けど、求人出すとなると色々面倒だろ? だから、社内でどうにかできないかと思って人事に掛け合ってたんだよ。そしたら、社食で一人、清掃業務に移りたいって人がいて。けど、そうなると社食が足りなくなる」
「それであきら、か」
「そ! 食堂で、旦那と同じ休日を取れる」
我ながら、いい案だ。
これで、柳田さんは正式に清掃業務から抜けて経営戦略企画部に移れる。
基山が辞めて、総務から柳田さんを返すように言われているのを、俺は何とか阻止している。正確には、引き伸ばしている。
だが、人手不足は事実で、柳田さんが手伝いに入ることもある。
さすがに、働き過ぎだ。
だが、谷の奥さんが社食に入ってくれたら、その必要もなくなる。
社食業務を続ける以上は総務部と経営戦略企画部の掛け持ちには変わりないが、今よりは腰を据えられるだろう。
「それ、いいな」
「だろ?」
いいこと尽くめだ。
「お前、そんなにあの子が欲しいのか?」
黙って聞いていた部長が言った。
「そんなに優秀なら、営業でも欲しいな」
「は? 渡しませんよ」
「部長、是枝が家に囲ってまで堕としにかかってるんですよ」
「は? なんか弱みでも握ってんの?」
「ちが――」
「――申し訳ございませんが、次の予約のお時間です」
音もなく横に立った柳田さんに、ギョッとする。
聞かれたか!?
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