未知なる世界から突然に現れた”迷い人”と呼ばれる事例について興味を持つようになったのは、ケヴィンがまだ8歳の少年だった頃。
学舎で教師をしている父親の書斎に遊び半分で忍び込んだ時に目にした、一枚のメモ書き。それはただの古いメモにしか見えなかったのに、大袈裟な額に入れられて壁に飾られていたのが不思議だった。
書かれているのは何かの一文だろうということは分かったが、見たこともない文字だった。
帰宅した父親に聞いてみると、「我が家のご先祖様の書かれた物だよ」という答えが返ってきた。彼にもメモに書かれている内容は分からないようだった。親戚中に確かめてみたが、誰もその文字を理解できる者はいなかった。
それでもそのメモ書きは代々、長くに渡って一族で大切に保存されていた。その原本は経年劣化の末に行方知らずとなってしまったらしく、父の書斎に飾られていたそれは、いわゆるレプリカだった。複写の魔法で忠実に再現された物で、同じ物が親戚各家で家宝として大事にされていた。
「それが解読できれば、迷い人の手掛かりを得られるのではと考えています」
研究の道へ進むことを決めた時に父に頼んでメモ書きの複写を取らせてもらい、それを常に持ち歩いていた。全く知らない言語だったけれど、眺めていれば何かの拍子に取っ掛かりを掴めるかもしれないと。
くたびれた鞄の中から使い込んだ手帳を取り出し、それに挟んだ一枚の紙を抜き出した。四つ折りにされたそれを葉月の前に差し出す。
「祖先と同じところから来られたということは、読めるかもしれませんね」
葉月は黙って受け取り、大切な物のようなので慎重に紙を開いた。隣に座るベルも心持ち首を伸ばして覗き込んでいた。
「これは……」
「読めそうですか?」
ソファーから前のめりになって、ケヴィンは少女の顔を伺った。メモを見た瞬間に眉を寄せて反応したということは、解読できそうなのか? と。
「読めます、けど……」
それほど長くはない一文。歴史の教科書で見るような絵巻物に描かれた、流れるように繋がった文字列だったら、日本語だとしても葉月には読めなかっただろう。けれど、メモ書きに書かれた文字はそこまで古い物では無さそうだった。漢字とカタカナだけで書かれていたので、百何年前とかそれくらいの物だろうか。
読めるけど、本当にそのまま読んで良いんだろうか? これは読めないと言った方が、良かったんじゃないだろうかと、葉月は正直言って躊躇った。
期待に満ちた表情の研究者の顔をまともに見ることができない。けれど、読めると言ってしまった手前、読まない訳にはいかないのだろう……。
「毎日毎日、パン、バカリ。タマニハ、米ガ食ベタイ。豆腐ノ味噌汁。納豆ガ恋シイ」
ただの詰まらない愚痴メモだった。故郷を思い浮かべて、書き綴った日記の一部なのかもしれない。他人事ながらも申し訳ない気持ちになり、そっとメモをケヴィンへと返した。
「米? 豆腐?」
「あ、えっと……米っていうのは私の生まれ育ったところの主食の穀物で、豆腐とか納豆は豆から作られた食材で」
なんてどうでもいい内容なんだと呆れてしまった葉月とは反対に、ケヴィンは食い入るようにメモを凝視していた。
「素晴らしい! ここには祖先の食文化が記されていたのか!」
「あ、まぁ、そうですね……食べ物のことしか書かれてないですね」
意気揚々と聞いたことを手帳にメモし始める研究者。葉月に読み上げてもらった文字を一つ一つ確認していく。彼にとっては祖先に関することはどんな情報でも貴重なようだった。ずっと謎だった物が解読できたのだ、学者としてこれほどの進歩はない。
「それで、先生は迷い人についてどういったことをご存じなのですか?」
ケヴィンの祖先の食の嗜好なんて興味ないと言いたげに、ベルが口を挟んだ。
期待させられた挙句に空振り状態だったメモの内容へ多少の苛立ちを覚えてしまい、落ち着ける為にとお茶を一口飲む。マーサが淹れて出してくれていたお茶は完全に冷えてしまっていたが、気分を鎮めるにはその冷たさが丁度良かった。
「そうですね、ある文献には迷い人は光に包まれた後に現れた、と書かれております」
「光、ですか」
ベルと葉月は顔を見合わせた。光の現象には身に覚えがある。何なら、その発動原にも……。
「その光は何だと考えておられますか?」
「そうですねぇ……」
迷い人の研究者は腕を組んで顎の無精ひげを撫でた。
「神の神光か、あるいは光魔法か、ですかね。どちらも証明は難しいですが」
光魔法と言われて、葉月は思わず天井を見上げた。証明できそうな子はまだ二階のベッドでくつろぎ中だろうか。それとも、また人見知りで閉じ籠っているのだろうか。
「光魔法には転移の力があると?」
「そもそも、光魔法は聖獣しか使えないと言われています。聖獣ならば人を転移させるくらいの魔力があってもおかしくはないでしょう」
あくまでも仮説に過ぎませんが、と付け足す。転移についてと同じくらい、聖獣についての資料や文献も少なかった。どちらも仮説に仮説をぶつけて議論していくような物だった。
「ですが、迷い人が実在するのだから、聖獣も存在すると私は考えています」
「そうですか……」
その不確かな存在の猫がこの館にはいると告げるにはまだ早い気がして、二人は言葉を飲み込んだ。安易に猫のことを話す訳にはいかない。
「私は、元の世界に戻れるんでしょうか?」
「どうでしょう。迷い人が戻ったという話は残っていませんし、それは何とも……」
気落ちする葉月の背中を、ベルは励ますように優しく撫でた。
「今後、先生の迷い人の研究が進む可能性は?」
「そうですねぇ、隣国にも我がサイトウ家と同じように迷い人の家名を残している一族があると判明したところなので、そちらに行けば何かあるかもと」
ちなみにその家名は”ヒロセ”というらしいのですが。と葉月の顔色を覗き込む。黙って頷き返す様子に、嬉しそうに笑みを浮かべていた。彼の研究者人生で今が一番、活力に溢れていた。
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