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結界の揺らぎで研究者の来館に気付いているはずだったが、その朝のベルは二階の自室に籠ったきりでなかなか姿を見せなかった。勿論、人見知りの激しい猫は言わずもがなで、葉月の見ていない内にどこかへ行ってしまっていた。
なので、初めてケヴィンと二人だけで向かい合うことになって、葉月は少し緊張していた。知らない訳でもないし、特に意識する相手でもないけれど、改めて一対一で話すとなると、必要以上に身構えてしまう。まるで、担任の教師との二者面談を受けてるみたいだと気付いて、ちょっとおかしくなってきた。
「どうしました?」
「いえ、先生はやっぱり先生っぽいなと思って」
非常勤で学舎の教師をしているとは聞いていたが、こうやって身なりを整えた姿ならいかにもな感じだった。以前の風貌では全くそんな風には思わなかったけれど。
「あはは。私が普段教えているのは、葉月殿よりももっと幼い子供ばかりですよ」
ベル抜きで本題に入って良いのかが分からず、二人はしばらく他愛のない会話を続けていた。
街の子供達が通うという学舎は葉月の世界でいうところの小学校のようだが、通うのに年齢による規定はなく、学べる子が学び、仕事を見つければ順次辞めていく為、学校というよりも個別指導塾に近そうだ。
学舎は基本的には無料で通わせることが出来るのだが、それでも余裕のない家庭も少なからずあるようで、この領内の識字率は8割といったところだそうだ。識字率と言えばと、葉月は手紙と一緒に送られてきた文書のことを思い出した。
「あれは古過ぎて、読めませんでした」
「なるほど。そんなに古い物だったんですね」
いそいそと鞄から手帳を取り出し、ケヴィンは早速メモを取り始める。よく見たら、以前とは手帳が新調されている。
専門家でないと解読できない時代のものだから、シュコールの迷い人は身分の高い人だったんじゃないかと思うと伝える。あの文字を書いた人の時代は現在とは比べ物にならないほど識字率は低かったはずだ。
「ほうほう。では、私の祖先の時代よりもさらに前ということですね」
「それは確実だと思います。先生のご先祖の文字は読めましたから」
ケヴィンの祖先のメモは簡単な漢字とカタカナで書かれていたので問題なく読めた。けれど手紙と一緒に送られて来たものは、一文字一文字の境目すらあやふやだ。
なるほど、と感心しながら、ケヴィンは手帳に挟んだ紙を取り出して眺めていた。それは手紙に同封されていたのと同じ複写のようだ。その様子を見ていて、葉月はふと気付いた。
「あ、先生。それ、向きが違います」
驚いて顔を上げるケヴィンから紙を受けとると、それを90度回転させてから返す。連なった文字列は横向きにするとまるで筆記体のようにも見えたが、残念ながら間違いだ。
「私の国では縦書きが基本なんです」
縦書きの場合は右から左に読むと言うことも付け加えると、研究者はさらに手帳へとメモを取っていた。
「素晴らしい。急いでヒロセ家に手紙を書かないといけませんね」
サイトウ家と同様に額に入れて飾られていた文書は、横向きだったらしい。何百年の時を経て、ようやく向きを正されることになった文書には一体何が書かれているのだろうか。
「他に何か良い情報は見つかりました?」
遅くなりました、と軽く詫びながらベルが階段を下りてホールへと現れた。ごきげんようとケヴィンへと挨拶すると、葉月の隣に腰を掛ける。
「ごめんなさい。急ぎの手紙があったものだから」
朝一で庭師に持ち込まれた手紙の返事を今まで書いていたらしい。彼女が自室で書くなんて珍しい、いつもはそういうことも作業部屋でなのにと葉月は不思議に思った。
そうですね、と言いながら手帳をパラパラと捲ってから、ケヴィンは少しバツが悪そうに頭を掻いた。
「シュコールで見つかったのは迷い人が書いた文書が二枚だけですね。あとは文献でも記載されている、光に包まれて現れたということが言い伝えられているくらいでしょうか」
「そう。あまり進展はなかったということ?」
「申し訳ない。ああ、でも、気になる点がありまして」
そう言いながら、一枚の紙を手帳から抜き出して二人の前に差し出す。何の変哲もない白い紙に、手紙に封をする時の茶色の蝋が張り付けられていた。
「以前にこちらで、聖獣の話が出たと思うのですが」
「これは?」
「ヒロセ一族が使っている家紋です」
その蝋に押された紋様を指し示しながら、ケヴィンは葉月の顔を伺った。
「肉球、ですね」
三角の上に楕円が四つならんだ愛らしい形は間違いなく見覚えがある。油断するとすぐにいろんなところに跡を付けられるし、つい先日だって屋根裏部屋への階段でも見たところだった。
ただ、この研究者が出してきた肉球が猫をモチーフしているとは限らない。肉球がある動物はいくらでもいるのだから。形だけでは種類を特定するのは難しい。
「先生は、これが聖獣の物だと?」
「あくまでも仮説に過ぎませんが、先祖は光に包まれて現れたと伝承されている家の紋がこれなら、その可能性はあるのではないでしょうか」
二人の反応を見たいとばかりに、ケヴィンは身を乗り出す勢いで語った。