日下部がいない三日目。遥は、黒板の端に書かれた掃除当番の名前を見て、小さく息をのんだ。
──自分の名前が二度、書かれていた。
「ねえ、そこの席も、お願いしていい?」
教室の空気が少し薄く感じられたのは、午後の光のせいではなかった。
女子の一人が、当然のように言った。
遥の手元にあるぞんざいな雑巾に、じっと目をやったまま。
「誰もやってないと、ちょっとかわいそうだし。ね?」
「日下部の席でしょ? まあ、いちばん親しかったし──いいよね?」
それは指示ではなかった。
命令でも、嘲笑でもない。
ただ、“正しいこと”を述べているような声音だった。
むしろ“彼のためを思って”というふうに聞こえる。
遥は、静かに頷いた。
抗うという選択肢は、最初から考えなかった。
「他の誰か」がその席を掃除する方が、不自然に思えた。
自分の存在が、そもそも不自然なのだから。
ぞうきんを絞る音が、やけに大きく響いた。
日下部の机を拭く。
何度も。何度も。
──ひとつも汚れていないはずなのに、雑巾が黒くなる気がした。
「さ、見て見て。けなげじゃない?」
「忠犬って感じ。ね、“あの人”のために尽くす……って」
「それ、怖くない? ……なんか、“見返り”を期待してそうで。恩を着せる系って、いちばん厄介だよね」
「で、裏切られたら逆恨みとかしそう。あー、なんか想像つくわ〜」
女子たちの声は笑い混じりだったが、笑ってはいなかった。
その瞳に浮かぶのは──嫌悪ではなく、“正義感”だった。
「日下部を守る」という“清らかな気持ち”に背を預けたまま、彼女たちは迷いなく、遥を否定する。
そして、それを聞いていた蓮司が、ぽつりと呟く。
「……ま、あいつも悪くはないんだけどね」
誰にも聞こえるようで、聞こえない声。
けれど、その余韻は教室の空気に残った。
(“悪くない”けど、“悪い”──)
そんな含みのある言葉は、すぐに形を変えて他の誰かの口に乗る。
「同情って、罪だと思う」
「え、急にどうしたの?」
「いや、ほんとに。だって、同情って“上から”でしょ? 見下してるのと同じだよ」
「わかる〜。あれって結局、自分の“優しさ”に酔ってるだけだし」
「それでこっちが期待されても、困るんだよね。こっちは救世主じゃないんだから」
女子たちの言葉が、空気のように遥を締めつける。
遥は、俯いたまま黙っていた。
声は出さない。顔も上げない。
ただ──心の中にだけ、確かな痛みがあった。
(同情なんか、されたことないのに)
(優しさなんて、最初から……信じてなかったのに)
(それでも……“あいつ”が笑ってくれたのが、うれしかっただけなのに)
それすら、罪にされるなら。
どこまでが、自分の「間違い」だったんだろう。
──と、そのとき。
「……おつかれさま」
背後から、柔らかな声がした。
振り向けば、蓮司が立っていた。
夕方の光の中で、彼だけが輪郭を曖昧にしているように見えた。
「ひとりで、えらいね。ちゃんと、掃除しててさ」
優しい声音。
表情も、やわらかい。
あの蓮司が“味方の顔”をして、そこにいる。
「……ありがとう」
それだけ、遥は絞るように言った。
蓮司はふっと笑う。
そして、まるで何気ない会話の続きをするように、こう言った。
「ねえ、ほんとに……“期待してなかった”?」
遥の動きが止まった。
「誰にも。……日下部にも、さ」
笑みの奥で、蓮司の目だけが笑っていなかった。
その声は、刃物より静かに皮膚を裂く。
「俺にはそう見えなかったけどな。……昇降口のときも、昨日も。今日も」
「ちゃんと、見返りほしがってたよ。あの目はさ」
「“助けてくれるはず”って。……そういう顔だった」
蓮司の声は、優しいままだった。
遥の中で、何かが静かにひび割れていく。
「ま、それも悪くはないと思うけど。……人間だしね?」
「でも──」
蓮司が一歩、近づいた。
「それで“裏切られた”って、勝手に思って潰れてくのは……ちょっと、迷惑かもね」
それだけ言って、彼は背を向けた。
──残ったのは、何もない日下部の机と、遥の手に染み込んだ冷たい水の感触。
遥は、自分の中から何かが剥がれ落ちた音を、確かに聞いた気がした。