「ごめんね、遅くなった」
「ううん? 先に飲んでたから」と言って、私は手元のビールグラスを持ち上げた。
槇ちゃんは私の正面の椅子を引きながら、後ろにいた店員にビールを注文した。
「仕事、忙しい? いつもこんな時間?」
只今の時刻は午後八時。約束の時間の三十分後。
「うん。帰っても一人でやることないし、忙しくして稼いでた方がいいから。あ、食事は? 注文した?」
「サラダだけ。私、蟹のクリームパスタ食べたい。ピザも」
槇ちゃんは目の前のメニューをパラッとめくる。
「いいね。クワトロフォルマッジでいい? バケットも」
「うん」
「ガーリックステーキも美味しそう」
「頼んじゃえ」
「柚葉も来られたら良かったんだけど」と言いながら、槇ちゃんがメニューを閉じて、空いている隣の椅子に置く。
私は自分の分を取り分けた残りのグリーンサラダを、槇ちゃんの正面に押しやった。
「旦那さんが出張だから家を空けられないって。仕方ないね」
「家庭持ちは大変だ」
槇ちゃんのビールがきて、乾杯をした。
そして、二人分のお代わりを注文する。
「柚葉も来たがってたから、今度は週末にしよ」
「だね」
柚葉を通して、槇ちゃんから連絡があったのは三日前の月曜日。
私は匡との週末に自己嫌悪し、引きこもっていた。
ホテルから逃げるようにして帰った後、匡とは連絡を取っていない。
当然だ。
連絡先を知らない。
私の番号は16年前に別れた後で変えたし、今の番号は教えていない。
『次なんて、ない』と言ったのは自分なのに、本当にそうなってがっかりしている自分が嫌だ。
クラス会にも長らく参加していない私は、誰の連絡先も知らなくて。槇ちゃんは私と連絡が取れそうで連絡先を知っている柚葉から私の番号を聞いた。
私たち三人は中学二、三年が同じクラスだったし、小学校も一緒だから仲が良かった。
「ね、千恵って柳澤と同じ大学だったんだって?」
テーブルに肘をつき、身を乗り出して槇ちゃんが聞いた。
隠しているわけではないが、ほんの一瞬だけ躊躇する。
「……うん」
「付き合ってた?」
「……一緒に暮らしてた」
「マジかぁ。それは気まずかったね」
「…………うん」
二杯目のビールとガーリックステーキが運ばれてきた。
今度は槇ちゃんがステーキを半分皿に取り、残りを渡しに寄こした。
大皿のまま食べていると、まるで私が一人で平らげているようだ。
「で? 元サヤ?」
「……なんで?」
「柳澤はそのつもりで千恵を連れ出したんでしょ?」
近藤から聞いたのだと思った。
匡は、近藤から飲み会の話を聞いて参加したと言っていた。
ならば、参加したい理由を話していてもおかしくない。
その逆もまた然り。
匡は近藤が槇ちゃんを狙っていると知っていた。
「槇ちゃんは? 近藤と付き合うの?」
「まだ、そんな気にはなれないかな」
やはり、近藤に告白されたらしい。
槇ちゃんの口調からして、振ったのだろうか。
「離婚したの、いつ?」
「一年半前。スッキリしたくて美容室に行ったら、近藤がいた」
「近藤、中学の時も槇ちゃんのこと好きだったって」
少し気まずそうに私から視線を逸らした槇ちゃんが、ステーキを頬張る。
「……聞いた」
「振っちゃったの?」
「保留……ってことになった」
「保留?」
「口説く時間をくれって」
「やだ、カッコいいじゃん」
私は自分の手を頬に当て、大袈裟に言う。
「茶化さないでよ。私もそう思っちゃったんだから」
「青春時代に好きだった女の髪に触れながら、近藤は何を考えてたんだろうねぇ」
他人事ながら、甘酸っぱい恋心に頬が緩む。
「ヤりたかったって」
「はぁ?」
「私の髪触りながら、めっちゃ妄想してたって! 言う? 普通。私のトキメキを返せって感じじゃない? 余韻も何もあったもんじゃない!」
「トキメいたんだ」
ピザとパスタが運ばれてきて、私はカルーア、槇ちゃんはジントニックを注文する。
ピザにはちみつをたっぷりかけて、それぞれ頬張る。
「んーーーっ! 美味し」
はちみつの甘さとチーズのしょっぱさが絶妙で、たまらない。
離婚前は、外食する時は子供たちの食べたいものに合わせていたから、こうしてお酒を飲むことはもちろん、蟹クリームパスタもクワトロフォルマッジもガーリックステーキも滅多に食べなかった。
ママ友とのランチで、たまにホテルブッフェに付き合わされたが、気を遣うことに疲れ、味なんて憶えていない。
もう、ママ友のご機嫌を窺いながら、ママ友たちと同じものを頼む必要もないんだ。
独りになってからずっと、こうして独りの良さを見つけては自分に言い聞かせている。
そうしていないと、子供たちのことを恋しく思ってしまうから。
トキメキ……か。
トキメいたって認めてる時点で、近藤脈ありなんじゃない?
案外、遠くないうちに槇ちゃんは堕ちそうだ。
ん……?
槇ちゃん、今――。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!