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___さて、休憩するか。
もう6時間近く、ぶっ通しで次回の会議の資料を作っている。さすがに休まないとまたうるさい連中ががやがやと騒ぎ立てるかもしれない。
遠くから微かに紅茶の匂いがする。ハッとして時計を見ると短針は3を指している。そういえば作業に取りかかった時は外から幼子の声がしていたっけ。
「さて、貴方もこれ食べてゆっくりしてください。」
白い手袋に包まれた手に差し出されたのは、焼きたてのクッキー。焼きたての甘い香りが鼻にスッと入ってくる。昼飯も食わなかったせいで腹が情けない音を立てている。そんな自分が目の前に差し出された美味しそうな焼き菓子に飛びつかないはずがない。
「ふふ、やはり空腹でしたか。ちゃんと昼飯は食べてくださいね?」
元敵に言われ、少し腹が立つ。いや、腹が立つのは空腹のせいかもしれない。
食べ終わったのを見計らってか、刺客が俺の元へ送り込まれた。
「よぉ、それ、美味かったか?」
やけに目立つトリコロールカラー、身体によく響く低音、冷たい手、とりわけデカい図体。俺の元敵であり元親友、現敵陣営のロシアだ。正直、こいつを嫌っているかと言われればそうとも言い切れないし、だからといって好いているかと言われればそうでもないのが現状だ。昔っからの付き合いがあるからこそ縁を切ろうにも、嫌いになりきろうにもなれない。そんな現状がどこかもどかしく、どこか悔しい。
「美味かった。じゃあ俺は作業に戻るからベラルーシか中国の所にでも行ってろ。」そう吐き捨て、先程の作業の続きに戻る。まだまだ終わりが見えない。今日中に終わらせなければいけないわけでもないが、何となく今日中に終わらせたいのだ。
「チッ、冷たいな…俺が折角癒しを提供してやってるって言うのに」
「癒しどころか目障りだ、はっきり言うなら邪魔。今すぐここから離れろ。気が散る。」
「この俺が機嫌が良いのも珍しいぞ?話すなら今の内だ。」
「別にお前と話したいとは思わない」
「あれか?俺じゃなくて日本とかイタリアなら良いのか?」
「いや、そういうわけじゃないが…まあお前よりはマシかもな」
「じゃあハンガリーとかタイとか、あとはフィンランドとかはどうだ?それかブルガリアとか?」
4人の名前を聞いて冷や汗が背中を伝う。頭の中を血塗れの記憶が、刻み込まれた屈辱の記憶が一気に巡り廻る。
「……黙れ、出ていけ」
強く言ったはずなのにあいつは少し上機嫌そうに口角を上げた。
「__、__んな、まあ___から__してくれよ」
何か去り際に呟いていた気がしたが、一部しか聞こえなかった。余計腹が立った。
いつの間にか外は紺に染まり、騒がしかったこの部屋も静まっていた。時計を見ると日付が変わっていた。でも会議の資料が仕上げられたから良かった。
パソコンを閉じ、鞄にしまう。ついでに数滴残っているコーヒーを飲み干し、缶も潰して鞄に詰め込む。こんなこと、前までの俺ならしなかったのに。
エレベーターで1階まで降り、扉を押し、外に出た。ちょっぴり肌寒いが、これくらいなら上着を着ずに過ごせる、絶対。
いつものやけに短い信号、もはや不良共の溜まり場と化した深夜のコンビニ、いつものかなり錆びてしまっている歩道橋。かわり映えのしない光景にはもうとっくに見飽きた。だからといって事件が起きてほしくはない。それくらいなら、見飽きた光景を見ながらつまらない中帰路につくほうがよっぽどマシと言える。
__なんだ?腕に雫があたる。と、同時にバチバチと激しい音が鳴り響いた。なんだ、雨か。生憎、今日は傘もレインコートも持ってきていない。鞄を傘代わりに使おうにも、革製だから使えない。もう濡れて帰るしかない。
よく考えたらびしょ濡れになって惨めな姿が俺なんかにはお似合いだ。
あいつだって、まだあの事、憎んでいるだろう。心に消えない傷を俺は刻んだ。だから昼間、あんなことを言って笑ったのだろう。
前からずっと考えていたけれど行動に移せなかった。でもやっと今、チャンスが巡ってきたんだ。
歩道橋から小さな町を見下ろす。車の光が雨で濡れたアスファルトによく映っている。ビルの光もよく輝いている。頭のおかしい連中がこんな深夜に馬鹿騒ぎしていてうるさいが、もうなんだかどうでも良くなったような気がした。
目の前の空白と地獄の隔たりを乗り越え、少しだけ飛び出た地獄の片隅に立つ。足が震える。手もなぜか地獄への切符を握りしめて離さない。一歩踏み出せばこの地獄なんかから抜け出せるというのに、一歩踏み出せばもうあいつらの視界にも映らずに済むというのに。
早いこと離さなければ皆に迷惑をかけるだろう。それだけは避けたい。でも、離せなくて、踏み出せなくて、
頭がごちゃごちゃになって
ぐわんぐわん、と激しく脈打って
未知の体験を恐れて
例え旅立てどきっと着く先も地獄だけど
……お似合いだけど。
でもなんか離せなくて
でもいきたくなくて
嫌だ、消えるの嫌だよ
皆から踏まれるの嫌だよ
皆の傷を深くしたくないよ
「さようなら」 単純な言葉もいえないの?
「ごめんね」 伝えなきゃ
でも…良いんだ。
きっとこれ以上見たくないし聞きたくないでしょうから。
あ〜あ…どうしてまた映っちゃったんだろう。
顔を赤くしたあいつが胸ぐらを掴み、俺の目を睨みつける。
「お前を殺すのは俺なんだよ!!」
嗚呼、また傷を抉ってしまった。