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#ロマンスファンタジー
Jasmine
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桃下結衣
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自動扉を開けると、病棟へ続く廊下からひんやりとした空気が足元へ流れ込んできた。
人気のない渡り廊下。
扉が閉まる音だけが静かな闇に響き、自分の心臓の鼓動さえ聞こえてきそうなほど静まり返っている。
楓ちゃん……
どこへ行ったの?
冷たい空気を深く吸い込み、私は彼女の姿を探して薄暗い廊下を歩き始めた。
白衣を着替えに更衣室へ向かった?
それとも、オペ室ナースの待機室?
……ナースの待機室がどこにあるのかなんて、私は知らない。
不快な動悸は治まらない。
冷え切った空気が胸を締めつけ、息苦しさだけが募っていく。
もつれそうな足取りのまま渡り廊下を抜け、病棟の灯りを遠く見つめながら、小さく呟いた。
「私……
楓ちゃんを見つけて、どうするんだろう……」
弱々しい声は薄闇へ溶けるように消えていった。
――楓ちゃんは、何を考えているの?
私の夫と関係を持つなんて……。
直江先生は、彼女を遼の『玩具』だと言った。
本当にそうなのだろうか。
遼は遊びのつもりで……。
楓ちゃんは本気?
それとも、二人とも遊びだったの?
……待って。
直江先生の言葉が、すべて正しいとは限らない。
二人は恋愛を――
本気で愛し合っているのかもしれない。
もし、二人の気持ちが本気なら……。
最後に捨てられるのは……
私?
そう思った瞬間、頭の中が真っ白になった。
彷徨うようにロビーまで辿り着くと、私は壁へ手をつき、崩れ落ちそうになる身体を支えた。
ガラス張りの正面へ視線を向ける。
その向こうには、静寂に包まれた白銀の世界が広がっていた。
力の抜けた身体を壁へ預けたまま、ただ降り積もる雪を見つめる。
深いため息をついた拍子に、ふと視線が正面の階段へ流れた。
ガラスの壁に沿って長く続く、ロビーのメイン階段。
二十段ほど上った手すりの隙間に、微かに動く影を見つけ、私は目を凝らした。
階段脇の足元灯が、ぼんやりとその姿を照らし出す。
階段へ腰を下ろし、私と同じように雪景色を眺めている人影だった。
私はゆっくりと階段へ歩み寄り、その横顔を見上げる。
彼女は私の気配にも気づかず、身体を小さく丸めたまま、ガラスの向こうを見つめていた。
楓ちゃん……
その横顔を見つめ、静かに目を細めた、その時――
小さく身を縮めていた彼女の身体が、ぴくりと震えた。
人の気配を感じ取った楓ちゃんは、驚いたように立ち上がる。
薄暗い階段の下に立つ私が誰なのか分からないのか、一歩、また一歩と後ずさった。
「楓ちゃん……
こんなところで何してるの?」
「あ、亜紀先生……!」
彼女の声が裏返る。
「こんな真夜中に、ロビーの階段で雪見?」
怯えた表情を隠し切れない彼女を見上げながら、私は偽りの笑みを浮かべ、ゆっくりと階段の二段目へ足を掛けた。
一段、また一段と、ゆっくり自分へ近づいてくる私から逃げるように、彼女は手すりへ置いていた肘を離し、そっと身を引いた。
「えっ……あの……私は、ちょっと考え事を……」
頬を引きつらせながらも、楓ちゃんは懸命に笑みを作り、言葉を濁した。
「こんな寒いところで考え事を?
……白衣じゃ冷えるでしょう?」
紺色のカーディガンを羽織った細い身体。
白衣の襟元から覗く首筋。
さらに視線を上げると、スカートの裾から伸びる細い脚が見えた。
――遼が触れた肌。
遼の身体へ絡みついた、この手。
この脚。
夫の欲望を受け止めた、この身体……。
純白の衣で淫らな本性を隠したその姿へ、憎しみのこもった視線を向け、私は口を閉ざした。
「……あの、ここは雪が綺麗に見えるので……。
亜紀先生は、どうして病院に?
今夜は当直ではありませんよね?」
一度呼吸を整えた彼女は、何事もなかったように微笑んだ。
「へぇ……
オペ室のナースって、内科医のシフトまで把握してるんだ」
彼女の笑顔を見つめたまま、皮肉だけが口をついて出た。
「えっ……?」
一瞬だけ、彼女の笑顔が凍りつく。
「……」
「あ、夜勤ナースは外科も内科も関係なく、当直医は把握してますよ。
外科から内科へコンサルトすることもありますから」
彼女は再び笑顔を作り、穏やかな口調で答えた。
コンサルトする時に必要……?
そんな言い訳を、よく平然と言えるものね。
私のシフトだから、念入りに確認していたんでしょう?
遼のシフトと同じように……。
今まで純朴で可愛らしいと思っていた笑顔が、今はどうしようもなく癪に障る。
「へぇ、そうなの。
ナースも大変ね。ドクターの動きにまで気を配らなきゃいけないなんて」
込み上げる感情を押し殺しながら、私は抑揚のない声で言葉を返した。
私を見つめる彼女は、口元を引きつらせながら、次第に顔色を失っていく。
「あの……それで、亜紀先生はどうしてここに?」
かろうじて笑顔を保ってはいるものの、その瞳には隠し切れない恐怖が滲んでいた。
「病棟に気になる患者さんがいて、様子を見に来たの。今、帰ろうと思っていたところ」
「あ、そうなんですか。こんな雪の日にお疲れさまです。
亜紀先生は相変わらず患者さん思いですね。
その患者さんの容態は大丈夫でしたか?」
彼女は柔らかな口調で労いの言葉をかけ、小さく目尻を下げて微笑んだ。
私へ向けられる、その作り物の笑顔。
楓ちゃん……
あなたは、いつから遼と……。
いつから私を裏切っていたの?
この笑顔も、全部嘘だったの?
何も知らずに親しみを向ける私を、心の中で笑っていたの?
夫に女として見向きもされない惨めな私を目の前にして、今も優越感に浸っているの?
胸の奥で憎しみが渦を巻き、込み上げてくる。
言葉にはできないほどの痛みだった。
「……うん、大丈夫。もう安定したから」
心臓を握り潰されるような苦しさを押し殺し、私は静かに答えた。
「そうですか、良かったです。
あっ、私そろそろ戻ります。今夜は待機なんです。いつ緊急オペで呼ばれるか分からないので、今のうちに仮眠しておかないと」
彼女は逃げるように話を切り上げ、上の階段へ身体を向けた。
私はその動きを遮るように一歩前へ出ると、彼女より二段上へ足を掛け、手すりへ静かにもたれかかった。
「あの……亜紀先生?」
行く手を塞がれた彼女の顔が、目に見えて強張った。
コメント
1件
まだ連載中なんですね、この103話、緊迫感がすごかったです。亜紀先生が楓ちゃんを探して彷徨う夜の病院、冷え切った空気と動悸がそのまま胸に伝わってきました。階段で見つけた楓ちゃんへの「作り物の笑顔」と、心の中で渦巻く嫉妬と疑念――抑え込むほどに滲み出る感情の描写に引き込まれました。あの、一つひとつの仕草に裏切りの記憶が重なる感じ、とてもリアルで苦しかったです。次の展開が気になります。