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おまる
#読み切り
眠狂四郎
『春、君を忘れた僕へ』
春になると、僕は君を忘れる。
それがいつからなのかは分からない。
気づいた時にはもう、そういうものになっていた。
桜が咲く頃になると、
僕の中から“君”という存在だけが、きれいに抜け落ちる。
名前も、声も、笑い方も。
まるで最初から、出会っていなかったみたいに。
「今年も、初めましてだね」
そう言って笑った君は、
まるでそれが当たり前みたいに、穏やかな顔をしていた。
場所は決まっている。
駅前の小さな公園。
桜の木の下にある、古いベンチ。
僕は毎年、理由もなくそこに来る。
そして君は、必ずそこにいる。
「……誰?」
最初の年、僕はそう聞いた。
すると君は少しだけ寂しそうに笑って、でもすぐに優しく言った。
「それでもいいよ」
「また、ここから始めよう」
君の名前は、美咲だった。
教えてもらったはずなのに、
次の春にはもう忘れてしまう名前。
「覚えてなくていいよ」
そう言うくせに、君は毎年ちゃんと自己紹介する。
「美咲。よろしくね」
その言葉を聞くたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
理由は分からないけど。
僕たちは、毎年同じことを繰り返す。
一緒にコンビニでアイスを買って、
ベンチに座って、他愛もない話をする。
君はよく笑う。
小さなことで笑って、
つまらない話でもちゃんと聞いてくれる。
「ねえ、好きな食べ物は?」
「えっと……カレー」
「へえ、去年もそう言ってたよ」
「去年?」
「ううん、なんでもない」
君はそう言って、少しだけ目を細めた。
「なんで僕に会いに来るの?」
ある日、僕は聞いた。
君は少しだけ考えてから答える。
「約束したから」
「約束?」
「うん。春になったら、ここで会おうって」
「誰と?」
「……君と」
君はまっすぐ僕を見た。
その視線に、なぜか息が詰まりそうになる。
時間は限られている。
それは、なんとなく分かっていた。
桜が満開になって、
花びらが散り始める頃になると、
君の姿は少しずつ薄くなっていく。
「今年も、もうすぐだね」
君はそう言って笑う。
「何が?」
「……秘密」
ある日、君は僕に小さなノートを渡した。
「これ、持ってて」
「なにこれ?」
「開けるのは、私がいなくなってから」
「え?」
「約束ね」
そう言って、君は僕の手を軽く握った。
その手は、少しだけ冷たかった。
桜が散る日。
風が強くて、花びらが空を埋め尽くしていた。
僕はいつものベンチに座っていた。
でも、君は来なかった。
何時間待っても。
夕方になっても。
夜になっても。
でも僕は君の事を思い出せなくて
ずっと誰かを待たなくちゃいけないような……
そのとき、ふと思い出した。
ノート。
君からもらった、小さなノート。
震える手で、ページを開く。
そこには、びっしりと文字が書かれていた。
『これは、春のたびに私を忘れてしまう君へ』
その一行で、心臓が大きく跳ねた。
『驚いてるかな。でもね、これは全部本当のことだよ』
『君は毎年、春になると私を忘れる』
『でも、それでも私はここに来る』
『だって、君が約束してくれたから』
ページをめくる。
『あの日、事故にあったのは私だけじゃなかった』
『君は助かった。でも、その代わりに、記憶が壊れた』
『“一番大事な記憶”だけを、春になると失うようになった』
呼吸が止まりそうになる。
『その“一番大事な記憶”が、私だった』
手が震える。
ページがぼやける。
『だから私は、毎年君に会いに来る』
『何度忘れられても、何度でも出会い直す』
『それでも、君といる時間はちゃんと“本物”だから』
最後のページ。
『今年で、最後にするね』
『もう、君を苦しめたくないから』
『だからお願い』
『今年だけは、忘れないで』
その瞬間。
何かが、胸の奥で弾けた。
思い出す。
君と過ごした日々。
笑ったこと。
喧嘩したこと。
約束したこと。
全部。
全部。
「……美咲」
名前が、自然と口からこぼれた。
風が吹く。
花びらが舞う。
そして。
「やっと、思い出してくれたね」
声がした。
顔を上げる。
そこに、君がいた。
少し透けているけど、
ちゃんと笑っている。
「遅いよ」
「ごめん」
声が震える。
涙が止まらない。
「今年で最後なんでしょ」
「うん」
君は頷く。
「じゃあ、最後くらいちゃんと言わせてよ」
僕は言う。
「好きだ」
君は少し驚いて、
それから、いつもの笑顔で言った。
「うん、知ってる」
桜が、一斉に舞う。
君の姿が、少しずつ薄れていく。
「ありがとう」
「またね」
その言葉と一緒に。
君は、春の中に溶けていった。
それから。
何度目かの春が来た。
僕は、あの公園に立っている。
桜は、今年も綺麗に咲いている。
でも。
もう、君はいない。
ベンチに座る。
ポケットの中には、あのノート。
何度も読み返した、あの言葉。
「……覚えてるよ」
誰もいない空に向かって呟く。
風が吹く。
桜が舞う。
どこからか、君の笑い声が聞こえた気がした。
春は、忘れる季節じゃない。
思い出す季節だ。
僕は、もう忘れない。
君のことも。
この気持ちも。
ずっと。