テラーノベル
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8
えれめんたる
ナズナ──
高校時代、高嶺の花だった彼女の連絡先が、今俺のスマホに入っている。
信じられない。
さっきまでの冴えない日常が、まるで嘘のように色づき始めていた。
「……次は何をすればいい?」
俺は独り言ちて、画面を食い入るように見つめた。
『ルートQ』の地図が更新される。
目的地は、会社近くの古い雑居ビル。
『12時15分。最短経路を外れ、裏路地の階段を登りなさい。そこにあなたの「次の幸運」が待っています』
会社へ行くには遠回りだ。
普通なら、遅刻を恐れて大通りを急ぐ場面。
だが、今の俺に迷いはなかった。
コーヒー一本で美咲を引き寄せたこのアプリの「精度」を、俺は骨の髄まで信じきっていた。
指示通り、薄暗い裏路地へ足を踏み入れる。
湿ったコンクリートの匂いと、カラスの鳴き声。
およそ「幸福」とは無縁に思える場所だ。
錆びついた非常階段を一段ずつ踏みしめる。
カン、カン、という乾いた音が、妙に心臓の鼓動と同期した。
踊り場に着いた瞬間、スマホが短く震えた。
『止まれ。30秒待機』
カウントダウンが始まる。30、29、28……。
静寂の中、下の大通りを走る車の音だけが遠くに聞こえる。
……0。
『今、階段を駆け下りなさい』
弾かれたように階段を駆け下りる。
勢いよく路地を飛び出したその時、目の前を走っていたタクシーが急ブレーキをかけた。
「危ねえな!」
運転手が怒鳴る。
だが、俺の目はそのタクシーの後部座席に釘付けになった。
「……部長?」
窓の向こうにいたのは、営業部の鬼河原部長だった。
彼は真っ青な顔で、手に持ったアタッシュケースを抱きしめている。
「佐藤か……!助かった、ちょうどお前を探していたんだ」
聞けば、部長は大事なプレゼン資料を会社に忘れ
タクシーで引き返そうとしたが渋滞に巻き込まれ、パニックになっていたらしい。
俺は「偶然」持っていたUSBメモリを取り出した。
「これ……予備として同期しておいたデータです。お使いください」
そんな準備をした記憶はない。
だが、俺の手は勝手に動いていた。
部長の顔にみるみる活気が戻る。
「恩にきるぞ佐藤!このプロジェクトが成功したら、次期主任の座はお前のものだ」
タクシーが走り去る。
俺は立ち尽くしたまま、震える手でスマホを見た。
『ルート維持。目標:社会的地位の向上。達成率15%』
画面の端に、小さなポップアップが出現した。
【次の指示:幸福を確実にするため、障害物の「間引き」を開始します】
「間引き……?」
不穏な言葉が脳裏をかすめる。
だが、即座に届いた美咲からの『今夜、空いてる?』というメッセージが、その不安をかき消した。
俺はもう、自分の足で歩いている感覚がなかった。
エスカレーターに乗っているかのように、ただアプリが示す「正解」の上を滑り落ちていく。
その行き先が、断崖絶壁だとも知らずに。
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