テラーノベル
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海外で働き始めて三か月が過ぎた。
慧は仕事中、変わらず厳しい。
「高瀬先生、その説明では検査の限界を誤解されます」
「分かりやすさを優先したんです」
「分かりやすいことと、情報を減らすことは別です」
「では、修正案を出してください」
「作ります」
言い合った日の夜には、対案が届く。
私を否定するためではなく、より良い説明へ進めるための議論だった。
私生活でも、少しずつ一緒に過ごす時間が増えた。
同僚を交えた食事の帰り、二人で歩く。
雪の日は、慧の車へ同乗する。
夜勤明けに作りすぎたと言って、保存容器を渡される。
「一人で用意できます」
「知っています。でも、僕が渡したいんです」
何かしてくれても、あとから貸しにはしない。
断っても、不機嫌にならない。
だから私は、慧の機嫌を取るためではなく、本当に受け取りたい時だけ好意を受け取れた。
その積み重ねの中で、自分の気持ちをゆっくり確かめられた。
遼介から逃げるためではない。
異国で一人になるのが怖いからでもない。
仕事へ向き合う慧を尊敬している。
私の強さを嫌がらず、弱った時だけ都合よく必要とすることもしない。
嬉しい時も腹が立つ時も、この人の隣で話していたい。
ようやく、それが私の答えなのだと分かった。
ある日の夕方、センターを出ると、低い夕日が駐車場を赤く染めていた。
「榊原さん。日本での告白は、まだ有効ですか」
慧の足が止まる。
「断られた件ですか」
「忘れたんですか?」
「忘れられるわけがないでしょう」
「三か月、一度も話題にしませんでした」
「返事を迫らないと言いました」
「約束を守りすぎです」
「断られた男が、何度も迫る方がいいですか」
「よくありません」
思わず笑った。
まっすぐこちらを見る。
「なぜ、今聞いたんですか」
「離婚後の寂しさなのか、遼介への当てつけなのか、自分でも分からなかったからです」
「今は?」
「離婚してから半年以上経ちました。海外研修へ応募したことも、ここへ来たことも、自分で決めた。その生活の中で、あなたと一緒にいたいと思ったんです」
慧の喉が僅かに動く。
「僕を選ぶ、という意味ですか」
「はい」
白波 灯
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鬼霧宗作
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「仕事上の関係を変える危険もあります」
「職場では、今までどおり意見を言います」
「僕も容赦しません」
「知っています」
いつも冷静な顔が、ゆっくり崩れた。
こんなふうに喜ぶ人だったのだ。
初めて見る無防備な表情に、私まで頬が熱くなった。
「では、僕からもう一度言わせてください」
姿勢を正し、私の名前を呼ぶ。
「高瀬千紘さん。医師として尊敬しています。一人の女性として愛しています。僕と付き合ってください」
「はい」
答えたあとも、すぐには触れなかった。
「抱きしめても?」
「今さら確認するんですね」
「流産の夜とは違います。今度は、支えるためだけではないので」
「お願いします」
腕の中へ入る。
あの夜は、立てなくなった私を支えてもらった。
今は違う。自分の足で立ち、自分からこの腕の中を選んだ。
同じ抱擁なのに、胸へ届く温度はまるで違った。
慧の手が頬へ触れる。
「キス、しても?」
「全部聞くんですか」
「嫌なことはしたくない」
「では、今は聞かなくていいです」
私から距離を詰めた。
唇が重なる。
短い口づけのあと、額を私の額へ寄せた。
「……すいません、人生で一番嬉しいかもしれません」
「大げさじゃないです?」
「そんなことはないです」
「そんなことあるとおもいますよ。今後、きっと更新していくんで」
耳が熱くなる。
交際を始めても、私の人生が慧のものになるわけではない。
彼も、私のために全てを捨てるわけではない。
互いに専門と生活を持ち、その上で隣を選ぶ。
交際からしばらく経った夜、将来について話した。
「子どもは欲しいですか」
私の顔を見て尋ねた。
「まだ分かりません。産婦人科医なのに、自分の妊娠を考えると怖い」
「職業は関係ありません。分からないままで構いません」
「慧さんは?」
「欲しい気持ちはあります。でも、あなたに産んでもらうことを前提に、僕の人生を決めるつもりはない」
「答えが出なかったら?」
「二人で別の人生を考えます。意見が合わなければ、その時に話し合う」
慧は子どもが欲しい気持ちを隠さなかった。
それでも、私の身体を自分の予定へ組み込もうとはしない。
言葉だけなら、以前の私も信じられなかったかもしれない。
でも慧は、私が選ぶまで待ち、断れば引き、仕事でも生活でも私の意思を尊重してきた。
だから今は、その言葉を信じたいと思えた。
診察室では、今日も新しい命の心拍が聞こえる。
命の始まりには、幸福だけでなく、迷いも葛藤も罪もある。
全ての妊娠を無条件に喜べるわけではない。
それでも、目の前の患者へ必要な医療を届ける。
医師でいるために、女としての気持ちを消さなくていい。
一人の女性として生きるために、仕事を小さくする必要もない。
どちらも私なのだと、今はやっと言える。
仕事を終えると、慧がロビーで待っていた。
「今日は何が食べたいですか」
「私が作ります」
「一人でできることは知っています」
「でも?」
「今日は僕に任せてください」
差し出された手を取る。
誰かに選んでもらうために、差し出された手を取るのではない。
私が選んだ人生を、私が選んだ人と歩いていく。
仕事も、暮らす場所も、隣にいる人も、自分で選び直せる。
高瀬千紘としての未来は、ここから続いていく。
コメント
1件
読み終わりました……。この回、本当に良かったです。千紘さんが「遼介から逃げるためでも、寂しさからでもない」と自分の気持ちを確かめた上で慧さんの手を選ぶところに、この物語の軸がしっかり通ってるのを感じました。プロポーズの返事を迫らずに待ち続けた慧さんと、その誠実さに応えた形ではなく「自分から選んだ」と言える千紘さんの関係性が美しい。同じ抱擁でも意味が変わるラスト、じんわり沁みました。