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廊下の喧騒が次第に薄れ、窓から差し込む光も傾き始める。教室には遙と日下部、ふたりだけが残されていた。
日下部は席に座ったまま、鞄に手をかけたが、閉じるのが惜しいように止めた。
対する遙は、黒板の方を見て、なぜか立ったまま動かない。
「……まだ、帰んねぇの?」
静かに日下部が言うと、遙は首だけで振り向いた。
「……帰っていいけど」
言葉は突き放しているようで、目はどこか怯えていた。
逃げられることを怖れているのか、それとも、
自分から踏み込むことを、まだ決められないのか。
「おまえ、今日──昼、蓮司に呼ばれてたろ」
唐突に放たれた言葉に、日下部の手が止まった。
鞄のチャックを握る指先がわずかに震えていた。
「……見てたのか」
「うん。……べつに、助けてくれとか思ってねぇけど」
遙は、黒板の方に視線を戻したままだった。
だがその背中からは、微かな緊張と、言い終えた後の呼吸の速さが伝わる。
「助ける気、なかったけど」
日下部が応じると、遙の肩がピクリと動いた。
「──でも、ムカついた。あいつ」
わずかな沈黙。
遙は、はじめて自分の足で振り返り、日下部の席へとゆっくり歩く。
机を挟んで、ふたりの距離は三十センチほど。
日下部の目を、まっすぐ見た。
「じゃあ、どうすんの?」
低い声。怯えの代わりに、試すような棘を含んだ問いかけ。
日下部は少しだけ笑った。けれどそれは馬鹿にした笑みではなく、
まるで、痛みを共有する者同士が交わす、ほんのわずかな呼吸の一致だった。
「……何もできない。でも、見てる」
「見て、どうすんの」
「見て、忘れない。……それしか、できないだろ」
遙の瞳から、強張りが少しずつ抜けていく。
それは安心とは違った。
だが、誰かが「見てくれている」ことに対する、知らぬ間の飢えがにじんでいた。
「──おまえさ」
遙が言いかけた。だが言葉の輪郭が曖昧なまま、途中で止めた。
「……なんでもない」
ふたりの間に、沈黙が落ちた。
けれど、それはかつてのような、息の詰まる種類のものではなかった。
夕日が差し込み、日下部の机の端に、遙の影が重なる。
その影が重なったところだけ、机の色が、ほんの少し温かく見えた。