テラーノベル
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封筒は、薄かった。
電気料金のお知らせ。 使用量。 請求額。 契約番号。 篠田重吉様。 三〇七号室。
そこには、篠田さんの生活が数字になっていた。
先月より少ない使用量。 つまり、部屋で過ごす時間が減ったのか。 それとも、電気をつける時間が減ったのか。 あるいは、眠る時間が長くなったのか。 テレビを見なくなったのか。 風呂に入る回数が減ったのか。 夜中に起きていないのか。
数字は語らない。
だが、語らないからこそ、私が聞かなければならなかった。
私は封筒を開けなかった。
開けていない。
糊の端が少し浮いていたから、中の紙が見えただけだ。 光に透かせば文字が読めただけだ。 封筒を破っていないのだから、開けたことにはならない。 開けたことにならなければ、盗んだことにもならない。 盗んだのではない。 写しただけだ。 保存しただけだ。
保存は救済だ。
私は手帳に書いた。
篠田重吉。 電気使用量、前月比減。 生活の光が減っている可能性。 要観察。
要観察。
その言葉は、私を落ち着かせた。
観察されているものは、まだ消えない。 誰かに見られている限り、人は完全には彼にならない。
翌日、私は封筒を戻しに行った。
三〇七号室の郵便受けに差し込むだけでよかった。 そうするつもりだった。 本当にそうするつもりだった。
けれど、部屋の中から咳が聞こえた。
一回。 二回。 長い沈黙。 もう一回。
私は呼び鈴を押した。
押したあとで、封筒を手に持ったままだと気づいた。
扉が開いた。
「おや、水瀬さん」
篠田さんは、私の手元を見た。
「あれ。うちの郵便かい?」
私は答えるのが遅れた。
遅れた分だけ、篠田さんの目が細くなった。
「落ちていました」
嘘ではない。
私の中では落ちていた。 郵便受けに挟まれたまま、誰にも読まれず、生活の外へ落ちかけていた。 私が拾った。 だから落ちていた。
「そうかい」
篠田さんは封筒を受け取った。
その指が震えていた。 昨日より少し強い。 いや、昨日は見ていない。 見ていないものと比べるな。 比べられないものを比べるな。 それは捏造だ。 捏造は殺人より悪い。 殺人は一度だが、捏造は残り続ける。
「上がるかい」
篠田さんは言った。
声は笑っていなかった。
私は靴を脱いだ。
部屋に入ると、テレビは消えていた。 仏壇の前の湯呑みもなかった。 カレンダーだけが、昨日と同じ場所にあった。
違う。 日付が一つ進んでいる。
それだけで、私は少し息が苦しくなった。 昨日の篠田さんは、もういない。 今日の篠田さんがいる。 明日になれば、今日の篠田さんもいなくなる。
人は毎日死んでいる。
だから私は毎日来なければならない。
「水瀬さん」
篠田さんが座布団に腰を下ろした。
「はい」
「あんた、昨日も来たのか」
私は黙った。
「来たんだね」
「確認を」
「何の」
篠田さんの声は、少し硬かった。
私は手帳に触れた。 そこに書けば、整う。 書けば、私は間違えない。 けれど篠田さんの前で書くと、篠田さんがまた遠くなる気がした。
「篠田さんが、消えていないか」
言ってから、しまったと思った。
篠田さんは長く私を見た。
その目には、昨日までなかったものがあった。
恐怖。
私はそれを見て、安心した。
恐怖があるなら、まだ篠田さんは篠田さんだ。 彼は怖がらない。 写真は怖がらない。 死亡届は怖がらない。 怖がるのは、私だけだ。 篠田さんの中の私だけだ。
「水瀬さん」
篠田さんは、ゆっくり言った。
「もう、来なくていいよ」
部屋が暗くなった。
蛍光灯はついていた。 窓の外もまだ明るかった。 けれど、暗くなった。
来なくていい。
それは、私に見届けるなという意味だった。 忘れろという意味だった。 彼にしろという意味だった。
私は膝の上で手を握った。
「それはできません」
「困るんだよ」
「困っても、消えるよりはいいです」
「消えないよ。俺はここにいる」
篠田さんはそう言った。
私は顔を上げた。
俺。
俺はここにいる。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に白い火が点いた。
言えた。
篠田さんは、まだ一人称で言えた。
私は笑っていたかもしれない。
「もう一度」
「え?」
「もう一度、言ってください」
「何を」
「俺はここにいる、と」
篠田さんは立ち上がろうとした。
私は反射的に、その袖を掴んだ。
強くはない。
強く掴んだつもりはない。
けれど篠田さんは、私の手を見た。 私も見た。
私の指が、篠田さんの袖に食い込んでいた。
その形が、知らない人間の手のようだった。
「離してくれ」
篠田さんは言った。
私はすぐに離した。
本当に、すぐに離した。
篠田さんは、奥の部屋へ下がった。
「今日は帰ってくれ」
私は立ち上がった。
帰るしかなかった。
玄関で靴を履く時、私は手帳を開いた。
篠田重吉。 「俺はここにいる」と発言。 一人称、保持。 拒絶反応あり。 本人の許可、取得困難。
私はそこで一度、筆を止めた。
そして、最後に一行を書き足した。
本人の許可を待っていると、間に合わない。
その文字は、今までで一番きれいに書けた。
コメント
1件
うわあ、重くて美しい回だった……。「保存は救済だ」という理屈、わかるようでいて底が透けて見える怖さがあるよね。篠田さんの「俺はここにいる」が一瞬の希望になって、その直後に袖を掴む描写で逆に距離が際立つ構成が本当に巧い。そして「本人の許可を待っていると、間に合わない」――この一行の切実さに息を呑んだよ。水瀬さんの観察と記録への執着が、救いなのか監禁なのか、まだ判断できないもどかしさがたまらない。続きが気になる。