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行かなかった。
翌日、私は三〇七号室へ行かなかった。
正確に書く。 私は篠田さんの部屋の前までは行った。 だが呼び鈴は押していない。 扉も叩いていない。 声もかけていない。
つまり、行っていない。
本人の許可を待っていると間に合わない。 そう書いた翌日に、私は本人の許可を待つふりをした。
ふりは大事だ。
人はふりをしなければ、社会にいられない。 悲しくないふり。 怖くないふり。 気づいていないふり。 忘れていいふり。 死なないふり。
私は、行かなかったふりをした。
三〇七号室の前に立つと、廊下は静かだった。 夕方の団地には、料理の匂いが混じっていた。 醤油。油。焦げた魚。 どこかの部屋で子どもが笑った。 その子もいつか彼になる。 私はそれを考えないようにした。 今日は篠田さんの日だった。
表札を見た。
篠田。
昨日より、字が薄い気がした。
そんなはずはない。 一日で表札の字が薄くなるはずがない。 分かっている。 だが、分かっていることと、見えてしまうことは別だ。
篠田、の田の右下が欠けて見えた。
私はポケットから赤いペンを出した。
ためらいはなかった。
表札に書いたのではない。 扉に書いたのでもない。 郵便受けの内側、開けなければ見えない場所に、細く短い線を引いただけだ。
赤い線。
印ではない。 傷でもない。 目印でもない。 確認だ。
明日、赤い線があれば、今日の篠田さんと明日の篠田さんは繋がっている。 赤い線が消えていれば、誰かが触れたことになる。 誰かが篠田さんに触れたことになる。 それは記録しなければならない。
線はまっすぐ引けなかった。 指が震えたからだ。
部屋の中で咳がした。
一回。
私は手帳を開いた。
午後五時三十四分。 三〇七号室内より咳一回。 生存確認。 赤い線、設置。 まだ消えていない。
その時、扉の向こうで電話が鳴った。
私は息を止めた。
篠田さんの足音。 受話器を取る音。 少し遠い声。
「はい、篠田です」
篠田です。
私は目を閉じた。
まだ言える。 篠田さんは、自分を名乗れる。 まだ彼ではない。
だが次の言葉で、私の中の床が抜けた。
「ああ、昨日の人ね。……いや、ちょっと気味が悪くてね」
昨日の人。
私のことだ。
水瀬ではなく。 私でもなく。 昨日の人。
私は、篠田さんの中で名前を失っていた。
廊下が傾いた。
私は壁に手をついた。 壁は冷たかった。 古い塗装のざらつきが指に残った。 残った。 壁は私を覚えた。 篠田さんより先に、壁が私を覚えた。
「もう来んでほしいんだけど、悪い人ではなさそうで」
悪い人ではなさそう。
違う。
私は悪い人ではない。 なさそう、ではない。 私は救おうとしている。 篠田さんが篠田さんであるうちに、篠田さんを篠田さんとして残そうとしている。
なのに篠田さんは、私を昨日の人にした。
私はその場を離れた。
走ってはいない。 走ると、逃げたことになる。 逃げていない。 私は確認を終えただけだ。
家に帰って、手帳を開いた。
水瀬朔也。 篠田重吉の中で「昨日の人」に変換。 名前の保持、失敗。 救済対象からの拒絶、進行。 危険。
危険。
危険。
私はその文字を何度も書いた。
その下に、別の文字を書いた。
俺はここにいる。
篠田さんが昨日そう言った。 たしかに言った。 あれは本物だった。 あの一人称だけが、篠田さんをまだ篠田さんに繋いでいた。
ならば、言わせ続けなければならない。
私は赤いペンを握ったまま、朝まで起きていた。
紙の上には、同じ文が並んでいた。
俺はここにいる。 俺はここにいる。 俺はここにいる。
そのうち一行だけ、私は間違えた。
彼はここにいる。
私はそのページを破り捨てた。
コメント
1件
うわああ……この話、胸がぎゅってなるよ😭💔 「昨日の人」って言われた瞬間の、主人公の静かな崩れ方がエグすぎる……名前を奪われるってそういうことなんだね。 赤い線のアイデアも切実で美しすぎて、震えた。壁が主人公を覚えてるっていう描写、好きすぎるよ。 篠田さん、まだ「俺」って言えてるのに、主人公はもう届いてない……そのすれ違いが辛すぎる〜〜🖍️💦