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第9話:小さな怒り
救助劇のあと、群衆はざわつきを増していた。
カイ=ヴェルノは灰色の瞳を伏せ、助けた女性に頭を下げると歩き出す。
その肩から下げた鞄には、小さなねこのぬいぐるみが揺れていた。
華奢な体に不釣り合いなほど素朴な飾り。だがそれは、ヴェルノが市場で一目惚れして買った、大切なものだった。
「……何だ、それは?」
人混みを割って現れたヒカル=セリオンが、にやりと笑った。
水色の髪を光らせ、筋肉質の体を誇示するように立つ。鮮やかなマントが広がり、群衆の目を一気に奪う。
「子どものものじゃないか。お前が持つなんておかしい」
彼は乱暴にヴェルノの鞄からぬいぐるみを引き抜いた。
そして群衆に見せつけるように高く掲げる。
「やはりヴィランの血は怪しい。子どもの物を盗んだんだろう!」
群衆のざわめきが強まる。
ヴェルノの灰色の瞳は大きく揺れた。
怒りが胸に込み上げたが、唇は固く結ばれ、言葉は出ない。
母の声が頭をかすめる――「優しさを失ったとき、本当の悪になるのよ」。
それを思い出した瞬間、拳を強く握った。
そして怒りを抑える。
そのとき、群衆の後方から低い声が響いた。
「……やめろ。俺は見ていた」
灰混じりの髪をした中年の男、グレン=タチバナが人混みを割って進み出た。
日に焼けた肌、作業着風のコート、がっしりとした腕。
彼は群衆を見回し、はっきりと言った。
「ぬいぐるみはヴェルノが金を払って買ったものだ。子どもの物なんかじゃない。俺は見ていた」
一瞬、静寂が落ちる。
やがて数人が口を開いた。
「そうだ、確かに見た」「払っていた」
群衆の空気が揺れ始める。
セリオンの水色の瞳が苛立ちに細まり、笑顔がわずかに歪む。
「庶民の目が信用できるのか?俺はヒーローだぞ!」
だが、すでに人々の視線はヴェルノに向いていた。
小さなねこのぬいぐるみを奪われても、黙って怒りを押し殺すその灰色の瞳に、偽りのないものが宿っていた。
群衆の心は揺れ始め、セリオンの声はもはや絶対ではなかった。