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第2話 悪者
朝の廊下は、まだ誰のものでもない顔をしていた。
窓から入る光は薄く、床の端だけをなでている。
遠くでバケツが鳴り、階段では上履きが乾いた音を返す。
その中を歩きながら、ミチルはつま先だけを見ていた。
灰色のこすれ。
昨日と同じ。
一昨日とも同じ。
それなのに、教室の前まで来ると、それが少しだけ悪いものに見える。
扉の向こうで笑い声がした。
サエの声が先で、そのあとにユウタの鼻にかかった笑いが混ざる。
そこへナナカの声が入ると、笑いは少し形を変える。
広がるというより、まとまる。
ミチルは息を吸って、扉を開けた。
何人かが見た。
見たあと、見ていないふりをした。
机の列はいつも通りだった。
黒板の端に昨日の消し忘れの線が残っていて、窓際の席だけが少し明るい。
なのに、自分の席のまわりだけ、何かが一枚かぶさっている気がした。
かばんを置く。
椅子を引く。
座る。
木のきしむ音が思ったより大きく出た。
「おはよ」
サエが言った。
やわらかい声だった。
いつもの声でもあった。
けれど、ミチルが返す前にサエは口元を押さえた。
笑ったわけではない。
ただ、その手が入るだけで、声が自分のものではなくなる。
「……おはよ」
返した声は少し低かった。
サエは何も言わない。
代わりに、ナナカが振り向いた。
頬杖をついたまま、まっすぐミチルを見た。
朝の灯りが前髪に細くかかる。
「ちゃんと来たんだ」
軽い言い方だった。
「来るけど」
「そっか」
ナナカはそれだけ言って、前を向いた。
それだけなのに、ミチルの机の上に小さな針が一本置かれたみたいだった。
抜こうとしても、どこに刺さっているかわからない。
一時間目の前、プリントが配られた。
後ろからまわってくる列で、ユウタの指先が紙を持つ。
その紙がミチルの机の前に来たとき、ほんの一瞬だけ止まった。
わざとではないかもしれない。
そう言える程度の止まり方だった。
「はい」
ユウタが言う。
その言い方の中に、渡してやる、みたいな細いものが混ざっていた。
ミチルは紙を受け取った。
指が触れそうになって、ユウタがほんの少しだけ引いた。
それを見てしまった。
見たあと、見なければよかったと思った。
見たせいで意味ができる。
意味ができると、次から全部がつながる。
授業は普通に始まった。
担任が黒板に字を書く。
チョークの粉が薄く舞う。
ノートを開く音が重なる。
普通だった。
けれど、普通は数が足りないとすぐに崩れる。
二時間目の休み、ミチルが席を立ったときだった。
机の脚が、通路側へ少しだけずれた。
自分でも気づかない程度のずれだった。
ユウタがそこを通り、つま先を机の脚に当てた。
「いて」
声だけなら軽かった。
でも教室の何人かがそちらを見た。
ミチルは反射で机を引いた。
「ごめん」
言った瞬間、ナナカがこちらを見た。
待っていたみたいに。
「また?」
また。
その一言で、昨日までが机の上に並ぶ。
いす。
床。
汁。
ティッシュ。
視線。
怖い。
「べつに今のは」
ミチルが言いかける。
「今のは?」
ナナカは首をかしげた。
「今のは何」
「ちょっと当たっただけでしょ」
「ちょっと?」
ユウタが笑った。
鼻で、短く。
「痛かったけど」
大げさな言い方ではなかった。
それがいちばんいやだった。
ほんとうっぽく聞こえるから。
「わざとじゃないし」
「わざとじゃなかったらいいんだ」
ナナカの声はまだやわらかい。
責めるより、確かめるみたいな声だった。
教室の後ろで、誰かの椅子が鳴った。
サエが振り向き、すぐ戻る。
タクミはプリントに目を落としている。
見ていないふりの角度だった。
「違う、そういう意味じゃ」
ミチルが言うと、ナナカは少しだけ目を細めた。
「でも痛かったんでしょ?」
ユウタを見る。
ユウタは肩をすくめた。
軽く、けれど否定しない動きだった。
それで十分だった。
「だったら、ごめんで終わりじゃなくない?」
ナナカが言った。
ミチルの胸の奥で、言葉が一歩遅れる。
ごめんで終わりじゃないなら、何で終わるのか。
何を出せばいいのか。
その形がわからない。
「大げさじゃん」
言ってしまったのは、たぶん焦ったからだった。
ユウタの顔から笑いが消えた。
消えたといっても、怒ったわけではない。
ただ、少しだけ引いた。
その引き方が、周りの目を呼ぶ。
「ほら」
ナナカが言う。
「そういうとこ」
またそれだった。
何度も聞いたはずなのに、そのたびに少し違う意味になる。
便利な刃物みたいに。
サエが、小さく息を漏らした。
笑いなのか驚きなのかわからない音。
「痛いって言ってるのにね」
その一言は、サエのものだった。
たぶん初めて、自分から入った。
ミチルはサエを見た。
サエは視線をそらさなかった。
少し怖がっているのに、引かない目だった。
そのときミチルは、教室の中で何かが一歩進んだのを感じた。
まだ小さい。
でも戻らない一歩。
「ごめんって言ったじゃん」
「言えばいいってもんじゃなくない?」
ナナカの言葉がすぐ重なる。
「踏まれた側の気持ちとかあるし」
踏まれた。
その言い方に、ミチルの背中が固くなる。
たしかに机の脚に当たっただけだ。
でも言葉の上では、もう足になっていた。
もう行為になっていた。
もう少しで性質になる。
「踏んでないし」
「当てた」
「それは」
「で、痛かった」
ナナカが三つに分ける。
短く。
逃がさず。
渡しやすい形で。
ユウタが、足首を一度だけ軽くさすった。
ほんとうに痛いのか、そうでもないのか、それはもう関係なかった。
その仕草があれば足りる。
「別にいいけどさ」
ユウタが言う。
やさしいふりの声だった。
「そうやって毎回、こっちが気にしすぎみたいになるの嫌なんだよね」
ミチルの喉がひりつく。
毎回。
そんなに何かしただろうか。
思い返す。
思い返すほど、曖昧な小さなことばかり出る。
そして、その曖昧さがいちばん弱い。
「毎回って何」
「え、わかんないの」
サエが言った。
その言い方に、自分でも少し驚いたような顔をした。
けれど、もう止めなかった。
「わかんないなら、やばくない?」
教室のどこかで、小さく笑いがこぼれる。
担任が入ってきたのは、その直後だった。
みんなすぐに席へ戻る。
教科書を出す。
教室は何事もなかった顔をする。
けれど、ミチルの耳には、さっきの音が残っていた。
やばくない。
痛かった。
毎回。
そういうとこ。
短い言葉ばかりだった。
短いから、消えない。
三時間目は国語だった。
音読の順番がまわる。
行の切れ目。
句読点。
教科書をめくる音。
ミチルの番が来た。
立ち上がる。
文字を見る。
声を出した最初の一行で、舌がほんの少しもつれた。
たったそれだけだった。
でも、後ろからユウタの小さな笑いが聞こえた。
だれかがそれにつられる。
担任は気づかない。
気づいても、読みにくかったのかな、くらいで流れる。
ミチルは続きを読んだ。
読んでいるあいだ、自分の声が教室の真ん中ではなく、少し外側を歩いているように感じた。
自分のものなのに、どこか借りた声みたいだった。
座るとき、膝が机に当たった。
鈍い音がした。
また何人かが見た。
もうそれだけで、足りる。
昼休み、給食のトレイを持って席へ戻る。
汁物の表面が少し揺れる。
なるべくこぼさないように歩く。
そう思えば思うほど、手首がぎこちなくなる。
自分の机の横まで来たとき、通路に出ていた椅子の脚に上履きが軽く当たった。
今度はほんとうに軽かった。
ただ触れただけだった。
でも、椅子に座っていた男子が、足元を見て言った。
「あっぶな」
その声に、ナナカがすぐ顔を上げた。
「ねえ」
トレイを持ったままのミチルへ、ゆっくり声が向く。
「ちゃんと歩きなよ」
「ちゃんと歩いてる」
「いや今」
「当たってないし」
「当たりそうだったよね」
ナナカはそのまま周りを見る。
「みんなも見たでしょ」
三つ目だった。
いつも最後に置かれる、それ。
みんな。
サエがすぐ頷く。
小さく。
でもはっきり。
「見た」
ユウタも言う。
「普通に危ない」
トレイが重くなる。
実際に重くなったわけではないのに、腕だけがそう信じる。
汁の表面がまた揺れた。
「ほら」
ナナカの目がそこへ落ちる。
「そうやって雑だから」
雑。
また新しい札が増える。
机に並べられるみたいに。
ミチルは急いで席へ着こうとした。
その動きで汁が少しこぼれた。
トレイのふちから、机へ細く垂れる。
「あ」
誰かが言う。
その一音で、もう決まった。
「最悪」
「また?」
「やっぱり」
声はあちこちから出た。
一つ一つは小さい。
でも、集まると形になる。
ミチルは布巾を探した。
手元が焦る。
箸袋が落ちる。
拾おうとしゃがむ。
椅子の脚に肩が当たる。
ユウタが後ろへ少し椅子を引いた。
避けるみたいに。
その動きが見えた瞬間、ミチルの顔が熱くなる。
熱いのに、指先は冷たい。
「ちょっとさ」
ナナカが言う。
その声は低くも高くもない。
なのによく届く。
「もう自分が悪いってわかってる?」
教室が、少しだけ静かになる。
その問いは、答えを求める形をしていなかった。
答えの置き場所を先に決める問いだった。
「何で私が悪いの」
ミチルは顔を上げた。
布巾を握ったまま。
「え」
ナナカの目が少し丸くなる。
驚いたふりなのか、少しだけ本当に驚いたのかはわからない。
「わかんないんだ」
そのあとに続いた笑いは、ナナカのものではなく、周りのものだった。
サエ。
ユウタ。
後ろの席の子。
そのまた後ろ。
それは大きな笑いではない。
でも、引き返せない類の笑いだった。
「危ないし」
「雑だし」
「さっきも踏んだし」
「踏んでないって」
「踏んだじゃん」
ユウタが言う。
「俺、痛かったし」
踏んだ。
痛かった。
危ない。
雑。
もう十分だった。
ミチルは布巾で机を拭いた。
拭いているあいだも、会話は止まらない。
止まらないというより、続けるほどでもないのに少しずつ出る。
「こういう人いるよね」
「気をつけてるつもりで全然」
「注意されると逆ギレするやつ」
逆ギレ。
それを聞いた瞬間、ミチルの手が止まりかける。
止まると認めたみたいになる気がして、また動かす。
机を拭く。
ただ拭く。
それしかできない。
ナナカは頬杖をついていた。
その姿勢のまま、ミチルを見ている。
「優しく言ってるだけなのにね」
その一言で、また数人が安心したような顔をする。
責めているのではなく、教えてあげているのだと。
その形に乗れば、自分は悪くないのだと。
給食の時間が終わるころには、ミチルのまわりに小さなすき間ができていた。
椅子の脚一本ぶん。
けれど、その一本ぶんが思ったより広い。
午後の授業で、消しゴムが床に落ちた。
ころがってミチルの足元へ来る。
拾おうとした瞬間、声が飛ぶ。
「触らないで」
今度はサエだった。
教室の空気がそこで止まる。
サエ自身も、言ったあと一瞬だけ顔が強ばった。
でも、引っ込めなかった。
「なんで」
ミチルが聞く。
「なんか嫌」
サエは言った。
短く。
言い切ってしまう。
「なんか汚れそうだし」
後ろで、だれかが息を漏らす。
笑いにはならない。
でも、言葉はもう床についた。
ミチルは手を引っ込めた。
消しゴムはそのまま。
サエが立ち上がる気配はない。
ユウタが拾うわけでもない。
教室の前のほうでタクミが一度こちらを見た。
また、すぐ前を向いた。
その数秒が長い。
結局、担任が気づいて「落ちてるよ」と言い、近くの子が拾った。
拾った子は何も知らない顔をしていた。
でも、その何も知らない顔が、いちばん遠かった。
放課後、掃除当番でミチルはほうきを持った。
床に散った紙片を集める。
ちいさな、ちぎれた消しゴムのかす。
窓際のほこり。
教室の端に寄せられる細いものたち。
ユウタがバケツを運びながら通る。
すれ違いざま、靴先がミチルの上履きに触れた。
軽い。
本当に軽かった。
歩いていれば起きる程度。
でも、ユウタは止まらない。
そのまま一歩進んで、ふり返りもせず言った。
「ごめん、ちょっと踏んだ」
声だけは軽い。
謝っている形もある。
ミチルは、反射で足を見る。
ほんの少し触れただけ。
たぶん、何ともない。
「……別に」
そう言うしかなかった。
「だよね」
ユウタが笑う。
振り返って、今度はちゃんと笑う。
「ちょっとだし」
そこへサエの笑いが混ざる。
後ろの席の子も口元をゆるめる。
ナナカは教卓の近くで雑巾をたたんでいた。
たたんだまま、顔だけ上げる。
「文句言えないよね」
静かな声だった。
ほうきの先が床に止まる。
ミチルの指に力が入る。
でも、何も言えない。
「だって」
ナナカが続ける。
「あんたがやったほうが先だし」
先。
その言葉で、順番まで決まる。
先に悪いことをした側。
だから返されてもいい側。
だから少しくらいなら受ける側。
「それは違う」
やっと出たミチルの声は、薄かった。
「違う?」
ナナカが首をかしげる。
「ユウタはわざとじゃないって言ってるけど」
ユウタはすぐに笑った。
「うん。わざとじゃない」
「ほら」
ナナカの目がやわらかくなる。
「同じじゃん」
同じじゃない。
そう思った。
けれど、何が違うのかを、教室の真ん中でうまく出せない。
自分がしたとされるものは、もう積まれている。
いす。
足。
汁。
危ない。
雑。
怖い。
その上に、今の一歩が乗る。
「ミチルってさ」
サエが言った。
ほうきを持つミチルを見ながら。
「自分がされる側になると、すぐそういう顔するよね」
そういう顔。
また見えないものが増える。
「何の顔」
「なんか、可哀想なふり」
サエは言ってから、自分の言葉に少し酔ったみたいに黙った。
でももう遅い。
周りがそれを聞いている。
聞いたあと、否定しない。
ミチルはほうきを強く握った。
柄のざらつきが手のひらに残る。
泣きたいわけではなかった。
怒鳴りたいわけでもなかった。
ただ、自分の体の置き場所が少しずつなくなる感じがした。
掃除が終わり、机が元に戻される。
夕方の光が黒板の下だけをうすく照らす。
教室は少しずつ静かになる。
ナナカは自分の席に座り直した。
いつもの頬杖。
「ねえ」
その声に、また何人かが足を止める。
サエも、ユウタも、帰る支度の手をゆるめる。
「悪いって、こういうことなんだよね」
ナナカはミチルを見ていた。
「ちょっとずつ周りが嫌になることするの」
「ちょっとずつ当てるの」
「ちょっとずつ気分悪くするの」
三つ。
また、三つ。
「で、自分がちょっとやられたら顔する」
教室の中に、小さな納得が広がる。
それは賛成の声ではない。
でも、声がないぶん、広がりやすい。
「だから悪者なんだよ」
その一言で、ミチルの胸の奥が静かに沈む。
悪い人、ではなく。
悪者。
人より、役に近い。
置かれるもの。
決められるもの。
その場に必要な形。
ユウタが鼻で笑う。
サエが口元を押さえる。
後ろの席の子が、聞こえるか聞こえないかの声で「たしかに」と言う。
タクミは最後まで何も言わなかった。
ただ、かばんを肩にかける前、一度だけミチルの上履きを見た。
つま先の灰色のこすれ。
そのあと、目をそらした。
その目のそらし方が、いちばんきつい。
責めるでも庇うでもない。
関わらないことで、もう片側へ立っている。
ミチルは自分の席へ戻った。
机に手を置く。
木の冷たさがある。
まだ自分の机のはずなのに、もう少し遠い。
窓の外では部活の声がしていた。
ボールの弾む音。
笛。
誰かの笑い。
ただの放課後。
この教室だけが、少し別の速さで動いている。
ナナカが立ち上がる。
椅子を戻す音が小さい。
そのまま出口へ向かい、戸口のところで一度だけ振り返る。
「明日から気をつけなよ」
やさしいみたいな言い方だった。
「また踏まれたくなかったら」
サエがそこで笑った。
ユウタも笑った。
今度の笑いは、もう試しではなかった。
形が決まっていた。
ミチルは足元を見た。
上履きの先。
灰色のこすれ。
その上に、さっきユウタが触れた気配だけが残っている。
ほんの少し。
ほんの一瞬。
ほんの軽く。
それでも、もう文句は言えない。
言ったら、自分が先だったことになる。
言ったら、被害者ぶったことになる。
言ったら、また顔だと言われる。
教室の床は、夕方の光をうすく返していた。
机の脚の影が並ぶ。
そのあいだを、見えない拍が通っていく。
一つ。
二つ。
三つ。
疑われる。
決められる。
みんなのものになる。
ミチルはその真ん中で立ったまま、ほうきの柄についた自分の指の跡を見ていた。
指の跡はすぐ消える。
けれど、消えないものだけが、教室に残る。
翌朝、ユウタはミチルの席の横を通るとき、わざとではない顔で少し強めに足を当てた。
「ごめん」
笑いを含んだ声。
ミチルは足を引っ込める。
反射でそうなる。
痛みより先に。
「……別に」
言うしかない。
「だよね」
ユウタが言う。
後ろでサエが笑う。
ナナカは頬杖のまま、目だけでそのやりとりを受け取る。
口元が少しだけやわらかくなる。
満足そうではない。
ただ、合っている顔だった。
教室の中で、初めて周りが従った朝だった。
誰かが命令されたわけでもない。
大きな声が飛んだわけでもない。
ただ、悪者にはこれくらいでいい、という形だけが、静かに共有された。
ミチルは自分の席へ座る。
椅子の脚が鳴る。
それだけで、何人かがまたこちらを見る。
その視線の先で、ナナカがゆっくり言った。
「しょうがないよね」
その言葉に、もう説明はいらなかった。
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