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「忙しいんですか?」
滑舌のよい低音が鼓膜から脳に信号を送った。
私は、何というわけでもない思考を停止させた。
「――え?」
「仕事、です。今日はなんだか、上の空のようなので」
「すみません」
勇伸さんの言う通り、今日は彼の話が全く頭に入ってこない。
仕事が忙しかったのは、事実。
昨夕、小学三年生の女の子が救急車で運ばれた。連絡もなく欠席が続き、担任教師が家庭訪問して倒れている女児を発見した。原因は栄養失調だった。
「詳しくは話せないんですけど、家庭に問題のある子供の保護のことで、今日は一日中歩き回ったせいか……」
「そういう。お仕事もされてるんですね」
「はい。学校と児童相談所と連携して、問題のある子供たちを守るための部署なんですけど、調査権はあっても決定権はないので、使いっ走りみたいなもんですけど」
仕事が好きだし誇りを持っているけれど、親に虐げられた子供の対応は憂鬱だ。
母親との二人暮らしのはずだが、連絡がつかない。児童相談所と連携し、母親を探しつつ、女児の回復を待って保護することになった。
今日は、病院や児童相談所、学校、母親の勤め先を訪ねて回った。母親はとうに仕事を辞めていて、行方知らずだった。
完全なる育児放棄《ネグレクト》。
「あきらさんは、どうして今のお仕事を選んだんですか?」
「え?」
「子供が出来ない、とは関係なく選んだ仕事ですよね?」
「はい」
「なにかきっかけがあったんですか?」
勇伸さんが食後のコーヒーにミルクを垂らした。
スプーンで混ぜると、真っ黒な液体が、ほんのり柔らかい色に変化する。
「私、弟と妹の面倒を見てきたので、保育士や教師のように子供と関わる仕事がしたかったんです。だけど、高校に入って志望校を決める頃に、妹が不登校がちになって、その原因がいじめだとわかったんです。とはいっても、暴力とか恐喝ではなく、無視とか仲間外れとか、です。結局、妹はフリースクールに転校しました。そこで、ちゃんと勉強して大学にも進学できたので、それは良かったんですけど、その時の妹の担任や学校の対応が酷くて、納得できなくて、そういう子供たちの助けになれる仕事は何かって調べたんです。で、児童心理カウンセラーって仕事に行きつきました。大学で社会福祉と心理学を学んだんですけど、いざ就職となると狙いが定まらなくて、あちこち受けて、内定をもらえたのが今の職場だったんです」
「なるほど」
黙って話を聞いていた勇伸さんが、ポツリと言った。
「立派な志ですね」
「え? いえ、そんな――。実際には、各所の板挟み状態で、子供たちのためになっているんだか……」
学校に呼びかけても無視されたり、児相に連絡してもすぐに動いてくれなかったりする。そういう時は、自分の仕事の意味がわからなくなる。
「自分のために、ヘトヘトになるまで走り回ってくれる人がいるというのは、ありがたいことです。今はその子供にはわからなくても、大人になった時に感謝すると思いますよ」
「あ、それはないです。私たちが直接子供たちに会うことはほとんどないんです。学校と児相の連絡係みたいなもので……」
「それは、寂しいですね。とても頑張っているのに、それをわかってもらえないのは。ですが、あきらさんは今の仕事にやりがいを感じているのでしょう?」
「そう……ですね」
「ならば、とても価値のある仕事だ」
勇伸さんがテーブルの隅に置かれている三つ折りの期間限定メニューを開いた。主に、スイーツ。イチゴフェアが今週末で終了するらしい。
「イチゴのケーキとパフェ、どちらがいいですか?」と言いながら、勇伸さんが顔の前でメニュー翻し、私に見せた。
「え?」
「食べてる時間、ありませんか?」
メニューにはイチゴのケーキを始め、パフェやアイス、大福なんかも並んでいる。
「俺は大福にします。あきらさんは?」
「え? あ、じゃあ、ケーキを」
「ショートケーキとタルトがありますよ?」
「タルト……にしようかな」
勇伸さんは満足そうに微笑むと、店員を呼んでデザートセットをふたつ注文した。
勇伸さんとランチデートをするようになって一か月が過ぎて、今日は初めて仕事の後で食事をしている。
理由は、今日は私がランチの時間を取れなかったことと、勇伸さんが明後日から一週間ほど出張なこと。
ランチを断る電話をした時、出張前に会いたいと言ってくれた。
まだ、キスもしたことがないけれど、私たちの距離は確実に近づいている。
「甘いもの、好きですね」
というか、勇伸さんは何でも食べる。
ランチの時も、私に勧められるまま、一緒にデザートを食べてくれる。
私に合わせてくれているのかと思ったけれど、コーヒーじゃなくてカフェオレを飲むこともあるから、きっと好きなんだろう。
「それとも、疲れているから?」
「あきらさんと一緒に食べるから、ですかね。一人じゃ買いませんし」
「そうなんですか?」
勇伸さんが丁寧にメニューを畳み、元の位置に戻した。細くて長い指先の動きが、とてもきれいだ。
「ええ。一緒に食べようと言ってくれた人もいませんでしたし。なんて言うか、どういうイメージを持たれているのか、居酒屋に行くのも意外だと言われたことがあります」
「はぁ。インテリに見られるってことですかね?」
「そうですかね? 自分ではそんなつもりはないのですが、お好み焼きを焼くのが得意だと言ったら、驚かれたことがあります」
「お好み焼き、ですか?」
「はい。初めて店に行った時、焼いてくれた同僚が、何度もひっくり返したりヘラで押し潰したりしていたのですが、焼き方の紙にはそういったことをしないように書かれていたので、指摘したんです。そうしたら、次からは私が焼くようにと言われまして、せっかくなので見た目も綺麗に美味しく焼けたらと何度か練習したら、ハマってしまいました」
「勇伸さんが、お好み焼き……っ」
三つ揃えのスーツを着て、細めの眼鏡をかけ、髪を後ろに撫で上げた勇伸さんが眉間に皺を寄せてお好み焼きをひっくり返している姿を想像して、おかしくなった。
「なにか、おかしな想像をしたね?」
両肘を立て、両手を顔の前で組んで、眉間に皺を寄せる彼の表情と、お好み焼きのギャップに、更に笑いが止まらない。
「確かにっ、驚きますね」
「一体、俺は人からどんな風に見られているのか……」
ほんの少し口を尖らせ、ため息をつく勇伸さんが、可愛く見えた。
「今度、食べさせてください」
「じゃあ、入れたい具を考えておいて」
「はい」
龍也との別れから二週間。
お腹の底から、笑えた。
龍也がいなくても、笑えた。
イチゴ大福を食べた勇伸さんが呟いた言葉に、また笑えた。
「奥の差し歯が取れないだろうか」
「え?」
「この大福、すごく柔らかいから」
「ああ」
「歯医者は嫌いだ」
「はぁ……。ぷっ――、くくくっ――」
思わず、口の中のタルトが吹き出そうになった。
またも、三つ揃えのスーツを着た勇伸さんが、眉間に皺を寄せて診察台で口を開けている姿を思い浮かべてしまった。
笑い過ぎて、お腹が空いた。
楽しくて忘れていたのに、メッセージひとつで気持ちが沈む。
『明日の忘年会、絶対来いよ。幹事なんだからな!』
忘年会のセッティングは全部、龍也がやってくれた。私は報告を受けただけ。
『友達』と言った以上、行かないわけにもいかず、それは千尋にも念を押されていた。
「良くない知らせだった?」
店を出ると、勇伸さんが聞いた。
「さっき、スマホを見てから元気がなくなった」
「すいません……」
「仕事?」
「いえ、明日の忘年会のことで……」
「大学のサークル仲間、だっけ?」
「はい」
「忘れられない彼も来る……とか?」
言葉と同時に手にぬくもりを感じて、顔を上げた。握られた手が、熱い。
見上げた勇伸さんの顔も、赤い。
今日は、お酒は飲んでいないのに。
「彼に、はっきりと別れを伝えました。だけど、彼とのことは仲間には内緒にしていたので、飲み会に行かないとも言いにくくて……」
「そう……ですか」
私の手を握る勇伸さの手に、力がこもる。少し、痛いくらい。
それに、口調が敬語になった。
緊張、してる?
「いい年をして恥ずかしいんですが――」
「……?」
「キスを……したいのだが、路上で……というのはいかがなものかと……思い……、かといって、どこが相応しいかもわからず……」
キス……?
確かに、ずっとランチデートだったから、そんな雰囲気ではなかった。そもそも、仙人になれそうだと言っていたくらいだから、あまりそういった欲求がないかとも思っていたくらいだ。今日だって、本当ならばランチデートのはずだったし。
「どうしたらいいでしょう……?」
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