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放課後の教室は、雨の音に包まれていた。
黒板のチョーク跡がまだ残るその空間に、古谷は一人立っていた。
視線の先、最後列の席に腰を下ろすのは叶。
制服のシャツのボタンは開け放たれ、腕にはいくつもの小さな傷が見える。
「また授業を抜け出したな」
古谷は静かに言った。
叶は答えず、窓の外を見ていた。
「なぜ逃げる」
「別に。……いても意味ないから」
「意味がないと思うのは、努力を放棄した者の言葉だ」
「先生、努力してる人の顔してるけど、実は壊れかけてるでしょ」
その一言で、古谷の呼吸が止まった。
叶の声は、笑っているようで、どこか冷たい。
まるで心の奥底まで見透かすように。
「……お前は何を知っている」
「先生の目。優しそうに見えて、ぜんぜん優しくない」
古谷は、ゆっくりと歩み寄った。
黒板消しの粉が舞い、雨音が近づくように強くなる。
叶の前に立つと、彼は小さく笑った。
「俺を更生させたいんでしょ? “正しい罰”ってやつで」
「罰は、痛みを与えることじゃない」
「じゃあ、何をするんですか。先生」
沈黙が落ちる。
古谷は机の端に手を置き、指がかすかに震えていた。
――どうして、こいつはそんな目で俺を見る。
教育者としての理性が、崩れていくのがわかった。
叶の目の奥に映るのは、自分の弱さ、怒り、そして恐れ。
それを消すように、古谷は言葉を吐き出した。
「俺は、お前を放っておけない」
「だから閉じ込めるんですか?」
「そうじゃない」
「じゃあ、なんで毎日俺だけ呼び出すの」
叶の声が、雨よりも静かに響いた。
古谷の胸の奥で、何かが軋む。
“更生”という名の下に、どれだけこの少年を見つめ続けてきたか。
救いたいと願うほど、距離を詰める自分が恐ろしかった。
叶が立ち上がり、机に手をついた。
「先生の“正しい罰”って、俺を変えることじゃなくて、自分を救うことなんでしょ」
その言葉に、古谷の心臓が跳ねた。
否定しようとしても、口が動かない。
叶の瞳は、まっすぐに彼を見ていた。
優しさも、冷たさもない。ただ、真実だけを映す目。
「俺、別に救われたくないよ」
「……叶」
「先生が壊れるなら、俺が見ててやる」
そう言って、叶は微笑んだ。
その笑みは、残酷なほどに美しかった。
古谷は視界の端が揺れるのを感じた。
雨の音が遠くで爆ぜる。
机の上に手をつき、深く息を吐いた。
「俺は……どこで間違えたんだろうな」
「最初から、ですよ」
叶の言葉は穏やかだった。
それが逆に、古谷の理性を完全に崩した。
気づけば、彼は自分の手を見つめていた。
生徒の前で、教師であるはずの自分がこんなにも無力で、滑稽で、哀しい。
叶は扉に手をかけた。
「先生。罰なら、もう十分です」
振り返らずに、教室を出ていく。
古谷は追わなかった。
ただ、雨音の中で独り、椅子に崩れ落ちる。
救いたいと願ったその相手に、
自分の壊れかけた心を映し出されていたのだと、
ようやく理解した。
“正しい罰”など、初めから存在しなかった。
あったのは――己の狂気を覆い隠すための、
言い訳だけ。