コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
――東の空に、赤い狼煙《のろし》が上がった。
(……来たか……。)
小さなくりぬき窓からも、はっきりと見てとれる鮮やかな紅色の煙。
赤は慶事の来訪を知らせるもの。東に上がったということは、そちらの方角から来賓がやって来たということになる。
ジオンの口から、自然とため息が漏れる。
衣擦れの音がして、部屋付きの官が静かに平伏した。
「王女が来られたか」
「はい。国の境を越えられました。明日の昼には都に入られます」
「……ご無事か?」
「はい。お健やかなご様子で」
「遠路はるばるとご苦労なことだ。使いは?」
「女官長様がご挨拶に」
「そうか。ドンレに任せておけば間違いないだろう……」
空に上がった狼煙は、風に流され少しずつかき消されていった。
「ウォル?……狼煙?」
「ああ、そうだね」
「私、赤いものは初めてみたわ」
「ミヒは狼煙を今まで見たことがあるのかい?」
「さぁ、どこかで黒いものを。沢山上がっていた気がするのだけど」
「黒い?」
「わからないけど、確か……」
記憶の渦に飲み込まれたようで、ミヒはそのまま口を閉ざしてしまった。
赤は慶事の来賓、黒は敵の襲撃。
黒い狼煙を見たことがあるというミヒの言葉に、ウォルの心は揺れた。
「ウォル?」
「いや、なんでもないよ」
ジオンの代わりになるとは思えないが、ミヒ一人で広大な屋敷で過ごすより、いくらか気がまぎれるだろうと、ウォルはこのところ屋敷に詰めていた。
空に上がった狼煙は、誰の目にもとまる。
花嫁が来たと、明日は王の婚礼だと改めて見せ付けられて、さて、この場を取り繕わなければと、ウォルは焦った。
「庭でも歩いてみますか?」
夏模様へと移り行く庭の風情も、なかなか趣がある。
咲く花の数は減っているが、それでも光る青葉に囲まれれば心地良い。
だが、汗ばみ始めたこの季節、昼間の庭を歩くのは、ミヒも気が進まないようでウォルの誘いは受け入れられなかった。
部屋の中は少し蒸すからと、露台《テラス》に続く扉を開け放ったのはウォル自身だった。
そして、狼煙が見えたのだ。
空回りしている自分に、ウォルはますます慌てた。
「で、では、茶でも?」
「さっきいただいたばかりでしょ?」
言ってミヒは怪訝な面持ちをウォルに向けた。
「そうね、少し横になりたいわ。ウォルとずっと一緒で、息がつまるもの」
けだるそうに、吐息のような声をはくと、ミヒは寝台へむかっていった。
「ああ、そうか。今日は横になっていなかった」
息が詰まると言われてウォルは、ひどく動揺した。そして、やや冷たい言われように、怒りを覚えた。
が、気だるさからか、体の自由が利かない素振りのミヒの姿は、ぐずる赤子のようでもあり、ほほ笑ましく見えた。
「ユイを呼ぼうか。衣も着替えるでしょう?」
「うぅん、いい。自分でできる」
ミヒは小さく答える。
体をよじり、髪をとめ上げているかんざしを抜くことに懸命だった。
だが、衣の袖が邪魔をして、うまく、動きがとれないでいる。
「どら、後ろは届かないでしょう?」
見かねて、ウォルがそっと抜きとってやると、はらりとミヒの髪が広がり落ちた。
「ジオンみたい」
「ジオンも、手伝ってくれるのかい?」
ウォルの問いに、ミヒは、頷くだけだった。