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『俺は君を愛する資格はないんだ』
今朝の聡一朗さんの言葉が脳裏をかすめた。
柳瀬さんは少し顔をうつむかせ、小さな声で続けた。
「自死だったんだ。お姉さんは、自ら命を絶ったんだよ」
私は言葉を失った。
そんな、どうして。
聡一朗さんのために大変な思いはした。
けど聡一朗さんは夢を叶えて立派な大学教授にまでなったというのに――なにを憂いで自ら人生を終える必要があったのだろう?
「君も知っていると思うけど、大学教授にまでなるには本人の努力もそうだが、なによりもお金がかかる。お姉さんは身を粉にして働いたけれど、それだけで賄える費用ではなかった。だからお姉さんは、お金のために好きでもない男と結婚したんだ。すべて、聡一朗のためだけに」
寂しげな陰を宿す柳瀬さんの瞳は、遠い思い出を想っているようだった。
もうけして会えないお姉さんを憐れむように、求めるように……。
「写真、見ただろ? あの通り綺麗な人だったから、結婚した相手も一目で彼女を見初めたんだ。金を持っているだけが取り柄の下衆男でね、結婚して早々お姉さんにDVをはたらきはじめて、浮気も重ねまくった」
共に暮らす人から傷つけられるなんて、どれほど苦しい日々だったろう。
どこか寂しげに笑っていた写真の中のお姉さんを思い出すと、胸が潰れる思いがした。
「夫と離婚してしまえば弟への援助ができなくなるとお姉さんは必死に耐えて、聡一朗にもDVを受けていることはおくびにも出さなかった。ずっと一人で耐えて、耐えて……。聡一朗がやっと身を立てられるようになった頃に、なかば捨てられるように離婚したんだけれど、お姉さんの精神はすでにボロボロになっていた」
「じゃあ、その後は聡一朗さんと一緒に?」
柳瀬さんは首を横に振った。
「いや、お姉さんはその後もDVがあったことはひた隠しにしていて、若い聡一朗の邪魔になりたくないからと一人暮らしをしていたんだ。けれども、ボロボロになった精神では、それも長くは続かなくてね……。第一発見者は、聡一朗だった」
「……」
「あいつは遺書を読んで初めて事実を知った。……それから、あいつは豹変してしまったよ。以前はね、もう少し笑う奴だったし、感情の起伏もある奴だったんだけどね……まるで蝋人形のようになってしまった」
聡一朗さんが置き去ってしまった本来の聡一朗さんの姿を懐かしむように、柳瀬さんは遠く悲しい目をした。
「あいつは誰にも心を開かない、誰も自分の内に入り込ませない。でもそれは相手を疎んでいるからじゃない。なによりも自分が嫌いだからなんだよ。お姉さんの苦しみにずっと気付かず、自死に追いやってしまった自分がなによりも憎いからなんだ」
「『自分には愛する資格がない』――聡一朗さんは、私にそう言いました……」
「そうか」
「そんなわけないのに……! 聡一朗さんは私を救ってくれました。お姉さんが聡一朗さんをそうしたように、私のことを厚く援助してくれたんです。聡一朗さんはとても優しくて、誰よりも思いやりがあって……!」
言いながら、涙を抑えることができなかった。
優しさの中にいつも悲しみを隠し持っていた聡一朗さん。
彼は、私を思いやってくれるたびに鈍い痛みに耐えていたのだろうか。
こんな自分に人を思いやる資格はないと、罪悪感で研ぎ澄ませてしまった刃で、自らを傷つけるように。
「だから、君と結婚したと聞いて俺は心底嬉しかったんだ。会ってみて確信したよ。君のような女性なら、あいつは大丈夫だってね」
私はかぶりを振った。
「私たちはそんな関係じゃないんです。私たちは――」
「知ってるよ。あいつから聞いてる。けどね、あいつは間違いなく君を心の底から愛しているよ。それは君も、解かっているだろう?」
『俺に君を愛する資格はないんだ』
聡一朗さんの言葉の意味が、今ようやく理解できた。
聡一朗さんは葛藤している。
罪悪感で雁字搦めになって、苦しみ悶えているんだ。
柳瀬さんは笑った。
そして真っ直ぐに私を見つめた。
「あいつを救ってやって欲しい。あいつをお姉さんの死から解放してあげられるのは、君しかいないんだ」
今までなにもしてやれなかった腐れ縁の俺からのお願いだ。
どうか叶えてやって欲しい。
こうして柳瀬さんが聡一朗さんがひた隠しにしていた真実を教えてくれたのは、そういった想いがあったからこそ。
そのことが示す意味を、柳瀬さんの思いの重さを、私は自分の心に強く刻み付けたのだった。
※
柳瀬さんが帰った後も、私は放心状態だった。
二脚のコーヒーカップが残された白いテーブル。白いソファ、白いカーペット……。
白で統一されたリビングはスタイリッシュで広々と感じるけれども、いつもどこか冷たくて寂しくも感じていた。
そうして、今ほどそれを痛々しく感じたことはない。
聡一朗さんはこの部屋でずっと一人で生きてきた。
お姉さんを失った悲しみと、それを自責する苦しみに耐えながら――。
止まったはずの涙が零れそうになった。けど堪える。
もう泣いてはいけない。
私にそんな暇はないのだ。