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ホールの奥、緩やかな照明が舞台を包んでいる。
数年ぶりにその空気を吸い込むと、翔の胸の奥で懐かしい鼓動が蘇った。
かつて二人で幾晩も過ごした練習室の匂いと、あの濃密な時間の残響。
今はもう、鎖のような痛みはない。ただ静かな温もりだけが、心に漂っていた。
舞台袖からゆっくりと姿を現したのは、昴だった。
世界各地の舞台で名を馳せた作曲家。その佇まいは、数年前の青年よりもずっと大きく、そして穏やかに見えた。
客席のざわめきの中、昴が一瞬だけ視線をこちらへ向ける。
その目が、あの日のままの澄んだ光を湛えていた。
リハーサル後、二人は楽屋の奥で再会した。
「久しぶり、翔」
昴の声は落ち着いていて、かつての緊張や依存を思わせる影はない。
「本当に久しぶりだ」
翔は笑みを返した。言葉が少なくても、互いの心はすぐに調律されたように通じ合う。
昴が差し出したのは、新作の楽譜だった。
「今日のアンコールで、この曲を弾いてほしい」
翔は紙を受け取り、目を通す。
旋律は、あの頃よりも広く、深く、優しい。
「……お前の音だ」
思わず零れた言葉に、昴は静かに笑った。
やがて本番。
翔がステージに立つと、観客席が暗くなり、光だけがピアノを包む。
鍵盤に触れた瞬間、空気が震え、音が流れ出す。
昴の新曲は、かつて二人を縛った鎖の名残を含みながらも、今は解き放たれた旋律だった。
過去の痛みも、依存も、愛も、すべてを抱きしめて未来へと進む音。
音の余韻がホールを満たし、やがて静寂が訪れる。
拍手が沸き上がる中、翔は深く息を吐いた。
――鎖は切れた。
しかし心の奥で、昴の旋律は今も確かに共鳴している。
それは過去に縛られるものではなく、これからも互いを支え合う静かな響き。
終演後、昴が舞台裏に現れた。
「ありがとう。翔の音があって、この曲は完成する」
その言葉に、翔は短く頷く。
「俺も……お前の音があるから弾ける」
互いの言葉は簡潔だが、すべてを語っていた。
楽屋を出ると、夜の街は冬の匂いを帯びていた。
空を見上げると、淡い月が雲の合間に浮かんでいる。
昴が隣に立つ。二人は無言のまま、しばらく同じ空を見ていた。
かつてのような鎖は、もうどこにもない。
それでも音が鳴るたび、心の奥底で相手の旋律が静かに響き合う。
――それは終わらない。
たとえ距離があっても、人生が別の道を進んでも。
音がある限り、二人の心は同じ場所で共鳴する。
翔は目を閉じ、胸の奥で響く昴の旋律に耳を澄ます。
新しい未来へ向かう和音が、確かにそこにあった。