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白波 灯
196
#王子
すっこ
376
診察室の扉が開いた瞬間、私は笑顔の形を忘れた。
「千紘、お願い。今日、私を診てくれる?」
水野真帆は、両手で腹部を庇うようにしながら入ってきた。
妊娠九週。大学時代からの親友が、初めて私の患者になる。
真帆は会社員で、夫の航平とは結婚三年目だった。子どもを望んでいることは知っていた。それなのに妊娠の報告を受けたのは、予約を入れたという連絡と同時だった。
「もちろん。体調はどう?」
「吐くほどじゃないけど、ずっと気持ち悪くて。あと、出血が少しあったの」
「量は?」
「下着に付くくらい。今朝は止まってる」
問診内容を確認し、内診室へ案内した。妊娠初期の出血は珍しくない。医師としては、そう分かっている。でも、本人にとっては一滴でも怖い。私だって真帆の立場なら、きっと同じだ。
経腟超音波の準備をしながら、真帆の顔を見る。
「緊張してる?」
「だって、前に一度、検査薬が陽性になったのに、そのあと駄目だったから」
私は初めて聞かされた。
「それ、いつのこと?」
「去年。化学流産だったと思う。病院に行く前に生理が来たから」
「どうして言ってくれなかったの」
「千紘は忙しいし、確定もしてなかったから」
親友だから、何でも知っているつもりだった。……つもりだっただけだ。私の知らない一年が、真帆の中にはちゃんとあった。
「じゃあ、確認するね」
モニターに胎嚢が映る。子宮内の位置に問題はない。私は角度を変え、胎芽を探した。
小さな影の中央で、規則正しい明滅が見えた。
「ここ。心拍、確認できるよ」
真帆が息を呑んだ。
「本当に?」
「うん。大きさも週数相当。今のところ順調」
私は心拍を示す画面を指した。真帆の目から涙が溢れ、耳の脇へ流れていく。
「よかった……」
嗚咽を噛み殺す真帆の手へ、ティッシュを渡す。
「出血が増えたり、強い腹痛が出たりしたら、すぐ連絡して。無理はしないこと」
「ありがとう。千紘に診てもらえてよかった」
そう言ったあと、顔を背けるようにして涙を拭いた。
検査を終え、私が画像を保存していると、診察台脇のスマートフォンが震えた。
見るつもりはなかった。ただ、点灯した画面が視界に入った。
『心拍、確認できた?』
送り主は、久世遼介。
私の夫だった。
指先が止まる。通知に気づくなり、スマートフォンを裏返した。
「あ、これは……」
「遼介から?」
「うん。でも、変な意味じゃないよ」
まだ何も尋ねていないのに、早口になった。
「検査薬が陽性になったとき、どうしたらいいか相談したの。ほら、遼介さんも医者だから。千紘に直接聞くと、もし違ったとき恥ずかしいし」
「遼介は脳外科医よ」
「それでも、私よりは詳しいでしょう?」
言っていることは分かる。身近に医師がいれば、専門外でも相談する人はいる。
でも、どうして遼介は今日の予約時刻まで知っている?
「航平さんには?」
「まだ、心拍が見えるまでは言わないでおこうと思って」
夫より先に、私の夫へ相談した。
胸に細い棘が刺さった。それでも私は医師として説明を終え、次回の予約を取った。
「二週間後にもう一度見よう。母子手帳の案内はそのときに」
「わかった。今日のこと、遼介さんには私から連絡するね」
言ってから、しまったという顔をした。
「……別に、私から伝えてもいいけど」
「ううん。真帆の妊娠だもの。私から話すことじゃないわ」
診察室を出ていく背中を見送り、私はカルテへ所見を入力した。
次の患者を呼べば、いつもの外来が続く。疑念を抱いたままでも、目の前の患者には関係がない。
そう言い聞かせたのに、指先に残る微かな震えは止まらなかった。
夜、帰宅すると、遼介はリビングでノートパソコンを開いていた。
「おかえり。遅かったな」
「緊急帝王切開が一件入ったから」
「そうか。お疲れ」
私はコートを脱いだ。遼介は画面を見たまま、何げない口調で続ける。
「真帆ちゃん、今日来たんだろ」
「うん」
「心拍、ちゃんと見えたのか?」
コートを掛ける手が止まった。
真帆から報告を受けたあとなら、質問する必要はない。まだ連絡を受けていないのなら、なぜ今日が心拍確認の日だと知っているのか。
「見えたよ。週数相当だった」
「そうか。よかった」
短く息を吐いた。
患者の経過を聞いた同業者の反応ではなかった。安堵を隠そうとして、隠し切れなかった声。
「ねえ、遼介」
「何?」
「真帆から、どこまで聞いてるの?」
ようやく顔を上げた夫の瞳に、一瞬だけ警戒が走った。
「妊娠したってことくらいだよ」
「今日の予約時間も?」
「そこまでは知らない」
答えは早かった。
早すぎる否定だった。
真帆とは大学一年の春からの付き合いだった。医学部の私と、文学部の彼女が知り合ったのは、学部混合の写真サークル。試験前には私の部屋へ泊まり込み、父の命日には何も聞かず花を持ってきてくれた。私と遼介の結婚式では、親族より先に泣いた。
その真帆が、私の夫へ妊娠の経過を知らせている。
疑うには、二人とも私に近すぎた。
親友と夫。どちらか一人なら、もっと早く疑えたのかもしれない。二人とも大切だったから、私は疑うことそのものから逃げていた。
二週間後の検査がやってきた。
「ご主人の水野さんは、今日は?」
検査を終え、私は何げない調子で尋ねた。真帆の夫、航平は出版社に勤めている。以前から子どもを望んでいたと聞いていた。
「仕事。まだ休みを取りにくいみたい」
「心拍が見えたこと、早く伝えてあげて」
「うん……」
返事の前に、ほんの僅かな間があった。その間を数えてしまった。
診察後、真帆の次回予約を別の医師へ変更する選択肢も頭をよぎった。けれど、この時点で私が持っているのは、通知を一つ見たという事実だけ。友人関係を理由に担当を外れるなら説明できるが、夫への疑念を理由に患者を放り出すことはできない。
カルテへ必要な所見だけを入力した。真帆の表情も、通知も、胸のざらつきも、一文字も残さない。医療記録は私の私生活を記す場所ではない。
外来が終わる頃には、窓の外が薄暗くなっていた。消毒薬の匂いが残る診察室で、私は一人、プローブを拭いた。指先へ伝わる冷たさが妙に鮮明だった。
帰宅途中、真帆からメッセージが届く。
『今日はありがとう。千紘に診てもらえて安心した』
続けて、胎児の超音波写真が送られてきた。
『この子のこと、まだ航平には内緒にしていてね』
妊娠そのものは、航平も知っているはずだった。何を内緒にするというのか。問い返そうとして、指が止まる。
返信をせず、画面を保存した。
帰宅すると、遼介は食卓へ二人分の夕食を並べていた。結婚当初から、私の当直明けには彼が簡単な食事を用意してくれる。そういう小さな優しさを、私はずっと信頼の証だと思っていた。
「今日は疲れただろ。先に食べよう」
「ありがとう」
向かい合って座る。湯気の向こうにいる夫は、いつもと何も変わらない。
だからこそ、その口から真帆の名前が出た瞬間、胸の奥が強く縮んだ。
その夜、隣で眠る遼介の呼吸を聞きながら、私は何度もスマートフォンの通知を思い出した。
『心拍、確認できた?』
ただの相談なら、なぜ真帆は隠したのだろう。
ただの相談なら、なぜ夫は、父親のように安堵したのだろう。
コメント
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めっちゃ好き…。親友と夫、二人とも大事だからこそ「疑うことそのものから逃げてた」って千紘の心情、刺さりすぎる。ラストの「父親のように安堵した」でゾッとしたわ。医療描写もリアルで、設定の解像度が高くてガチ引き込まれた。続きが気になりすぎる🔥