三十路、独身、それがどうした。
ジョッキをカウンターに叩きつけると、ゴトンッ、と鈍い音が立った。
「また浮気されたぁぁぁぁ!」
忌々し気に絶叫すると店内の視線を集めた気がするが、今はそれに構っている場合ではない。
「店長、おかわり!」
「生ビールね、はいよ」
私の指からそろっとジョッキを引き抜いて、サーバーの前へ移動する店長を見送る。
「ううー……」
酒を頂戴。嫌なこと全部忘れてしまえるくらいの、強い酒を。
呻く私の頭を誰かが小突いた。
もちろん、それは私の隣で先程から枝豆をぷちぷち口に放っている、親友の 村尾総一朗だ。
「もうちょっと声落とせ、瑞希。他のお客さんに迷惑だぞ」
じろり、と視線を向ける。
「うるしゃい! もうちょっと優しくてよっ」
「うるしゃいて。……ちゃんと話聞いてるだろ? えーと、俺が知り得る限り、通算七回目の浮気破局だったか?」
「カウントするな、うわーん!」
カウンターに突っ伏すと、私の頭の脇で、トンッ、と音がした。
どこかひんやりとした冷気を纏って。
顔を上げると、行きつけの小料理屋の店長が柔らかい笑顔で迎えた。
「はい、生おかわり」
「てんちょお……もう私、次は店長と付き合うぅ」
「店長は妻子持ちだろうが。迷惑かけるな」
「うるさいうるさーい!」
言いながらジョッキに手をかけると、隣に座る彼が「ん」と同じように差し出す。
気持ち顎を引いた彼に誘われるように、私はジョッキをぶつけた。
「浮気男撲滅!」
乾杯の音頭が物騒だったことは許してほしい。
だって本当に辛かった。
合コンで知り合って、何度か食事に行って映画を観て、水族館でデートした時に告白された。
今日で三十歳。大台に足を乗せた。
そろそろ結婚が視野にある。
仕事ばかりしてきた私がようやく結婚に乗り気になった時に出会った人。
もしかしたら、と夢見た。
それくらいの願望、許されるでしょ。
特別イケメンじゃないけれど、優しい人だったから、もう少し付き合いが進んだら、同棲を始めてみるのもいいと思っていた。
「……ッ」
じわり、と視界がけぶる。
何も私の誕生日に浮気することないじゃない。
せっかくの土曜日なのに、今日はどうしても外せない用事があるって言っていたあなたが、知らない女性と腕を組んで歩いているのを見た時、どんな気持ちになったと思う?
恋人の誕生日より、浮気相手とのデートの方が大事なわけ?
「……違うか、」
ぽつり、と呟く。合点がいった。
「私が浮気相手か……」
それなら後回しで仕方ない。そうか、そうか。
「……ふ、……くっ」
しゃくり上げそうになって必死に堪える。
さすがに三十路女の泣き顔を見せるのは気が引ける。
奥歯を噛んで、何とかやり過ごそうとする私の頭に、大きな手の平が乗った。
「泣いとけ」
「う、……っ」
ぽんぽん、と規則正しく動く手に促されるように涙が零れた。
一度溢れたら、止まらない。
くしゃり、と髪を撫でる温かさに、じんわりと溶けるように涙が伝う。
「そんな見る目ない男、こっちから願い下げ。そうだろ?」
「ううー……っ」
「付き合ってる彼女を大事にできないような男だ、どうせその相手とも上手くいかない」
「……うん、」
「お前にはもっといい男がいるよ」
「……っ、うん」
こくり、と頷くと、彼が頭から手を退けた。
「とりあえず、瑞希」
「……うん?」
呼ばれて視線を上げると、目の前には手の平サイズの小箱があった。
「誕生日おめでとう」
彼の声音に背中を押されて手を伸ばす。
サテン地のリボンを解き、ゆっくりと箱を開けて、思わず目を瞬かせた。
わあ、何て大きなダイヤモンド。
「じゃなくて。……いやいや、え?」
「気に入ったか?」
「綺麗だけども。何で指輪……」
「俺と結婚してくれないか」
「!?」
危うく箱を取り落とすところだった。
いつの間にか涙も引っ込んだ目で、瞬きすらせず、我が親友を凝視する。
「俺なら誕生日に一人にしたりしない」
「……ちょ、……」
「俺なら浮気なんて絶対にしない。瑞希以外視界に入らない」
「……待っ……」
「俺の隣で酒飲むのは、お前しかいない」
くらり、と眩暈がした。
「…………これ夢? 都合のいい幻聴聞こえてる?」
堪え切れずに頭を抱えると、彼が小さく噴き出した。
「俺のこの告白は、瑞希にとって都合が『いい』のか?」
「だ、だって!……友達はみんな結婚してて、子供もいて、会えば『瑞希はそろそろいい人いないの?』なんて言われて。親も親戚も似たようなことばっかり……その度に結婚焦って。でも、いつも彼氏に浮気されて、あっさり捨てられて……」
今日だって本当に辛くて。
ああもう私にはそういう幸せはないんだって諦めかけたところだったのに。
何であんたがそれをくれるのよ。
彼が私の手首を掴んで下ろし、そのまま包み込むように握る。
「夢でも幻聴でもないから、ちゃんと聞けよ」
小さく深呼吸した総一朗が、その眼差しとともに放つ。
「結婚してほしい、俺と」
目を、瞠った。
脳天からつま先まで一気に駆け抜けるような電流。
指先が痺れて微かに震えた。
「…………」
「息してるか?」
硬直していた私の頬に、彼が指先でそっと触れた。
労わるような強さで撫でたその指を、いつの間にか自由になっていた手で掴む。
「……そういうんじゃ、ないじゃない私達」
ようやく紡いだ声が、戸惑いに揺れた。
大学からの腐れ縁。
だらしないところも、汚いところも曝け出して、それでも当たり前に隣にいた。
これからも、そうだと思ってた。
でも、あんたは違うの?
彼がどこか拗ねたように視線を外して、
「そういうんじゃないから、七回も見送ることになったんだよ……」
と言い、真っ直ぐに私を見据えた。
「もう随分前から、俺にはお前しか見えてない」
一際強く心臓が跳ねた。
「なあ、瑞希。……そろそろ泣くのはやめにしないか?」
恋がしたい。
誰かを好きになりたい。
でも、
私はその誰かには好かれない。
いつもそう。
繰り返し刻まれた傷口に、彼の言葉はするりと入り込むようだった。
「…………とりあえず――」
彼の瞳に誘われるように口が開く。
「お試しで、三ヶ月……」
掠れた声を確かに拾った彼が、今まで見たこともないくらいの眩しい笑みを浮かべた。
「乗った」