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私の実家から戻ってきて、アパートの前に車を止めた宗輔は、このまま私と一緒にいたいと言った。
しかし私は一人で過ごしたいと思った。明後日は彼の実家を訪ねることになっている。自分の実家に行くのとは心持が違う。
宗輔は不満そうだったが渋々私の言葉を受け入れて、寂しそうな顔で帰って行った。
こうして一日と少しの時間を静かに過ごしながら、私は色んな意味で自分を万全に整える。
そしてやって来た当日の午後。私は手土産を携えて、迎えに来た宗輔に連れられて彼の実家へと向かった。
私が行くことは彼の口から事前に伝えてあるはずだったが、社長夫妻の最初の反応を想像して不安になった。嫌な顔をされてしまったらどうしよう、下手をすれば会社を辞めざるを得なくなるんじゃないか、などとぐるぐると考え始めて止まらなくなる。玄関の前に立った時には、車の中でずっと握り締めていた手は関節が白くなっていた。
固い表情のまま宗輔の後ろに続く。
玄関を入ると、そこにはなんと、社長が待ち構えていた。と、いうよりも、そわそわと落ち着かない様子で、廊下を行ったり来たりしている。
社長は引き戸の音と共に姿を現した私たちに気がついて足を止め、はっとした顔を見せた。息子の隣に並ぶ私の姿を目に入れた途端、ぱあっとした笑顔になる。
「早瀬さん、待ってたよ!さ、上がって!母さん、宗輔が早瀬さんを連れてきたよ!」
社長の反応が想定外で面食らう。
「ほら宗輔、早く案内して!私は母さんに、お茶の用意をしてもらってくるから」
宗輔の口から大きなため息がこぼれた。
「親父、佳奈が引いてるじゃないか。頼むから落ち着いてくれないか」
息子の呆れ声に社長はようやく我に返ったようだ。たちまち照れくさそうな顔になる。
「すまない。つい浮かれてしまった。早瀬さん、失礼しました。今日はわざわざ来てくれてありがとう。ここは寒いから、早く上がんなさい」
「はい。お邪魔いたします」
第一声にはこう言おうと考えてきていた言葉があった。しかし今の賑々しさのおかげで頭の中からすっかり飛んでしまった。代わりにいつも以上に丁寧なお辞儀をする。社長と宗輔に見守られながら、私は用意されていたスリッパに足を入れた。
応接間に通された。社長に促されるままに宗輔の隣に腰を下ろす。
「宗輔の口から早瀬さんの名前を聞いた時は、本当に驚いたよ。まさか、ってね」
元々温厚な方ではあるが、目尻とはここまで下がるのかと思うほど、社長はずっと笑顔のままだった。
その隣には社長夫人が座っていたが、初対面ではない。これまでも何度か顔を合わせたことがあり、その度に美しい女性だと思っていた。その人がやはりにこにことこちらを見ているものだから、照れくさくて仕方がなかった。
「早瀬さんとは、今までも何回か会ったことがあるけれど、実は普段からもあなたの話は聞いていたのよ。うちの人、あなたのことをべた褒めでね。とってもいい人がいるんだって、事あるごとに言っていたの。それほど素敵な人だったら、ぜひ宗輔のお相手にどうかしら、なんて思っていたのに、この人ったら、宗輔なんかにはもったいない、とか言っちゃって。あなたにお見合い話を持って行ってたんでしょう?ごめんなさいね、迷惑だったわよねぇ」
「いえ、そんな……。社長のお気遣いはとてもありがたかったので……」
「なんだ。佳奈もすでに親父の餌食になってたのか」
「餌食とは失礼な言い草だな」
ムッとした顔をする社長に、宗輔は苦笑する。
「だからそういうわけで、もう俺たちには見合い話はいらないよ。この年末年始で、どうせまたたくさん集まってるんだろ?俺たちには回さないでくれってことを言っておきたくて、今日は彼女を連れて来たんだ」
社長は、あはは、と笑う。
「もちろん、二人にはもう声をかけないよ。しかし、早瀬さんが宗輔とねぇ……。いつだったか、二人で食事に行った時がなかったかな?やっぱりそれがきっかけだったりするのか?確かその時、お前、私に口裏を合わせるように電話してきただろう?」
社長が言っているのは、宗輔が初めて会社に顔を見せた日のことだ。あの時、彼は自分の父親をだしに使って私を誘い出したのだった。
「あれは色々と事情があったんだよ。それでとにかく、こういうことになったわけだ。な?」
経緯のほとんどを端折り、あっという間に話をまとめた宗輔に、私は曖昧に笑いながら頷く。
「えぇ。……社長。あの時は、色々とご迷惑をおかけしたのでは?」
「迷惑?全然そんなことはないよ。それ以上に、それまでそういうことにはあまり関心がなさそうだった宗輔が、そうまでして早瀬さんを食事に誘ったっていうことの方が驚きだったよ」
「はぁ……」
社長夫妻は、にこにこしながら私たちを眺めている。
恥ずかしさで額際に変な汗がにじみ出てきそうになったが、私は居住まいを正して改めて口を開いた。
「これからどうぞよろしくお願いいたします。それから、大変身勝手なのは承知しているのですが……。宗輔さんとお付き合いさせて頂いていることは、会社にはまだ伏せておきたいのです。だから……」
私の言いたいことを察して、社長は大きく頷いた。
「私たちはまだ何も知らないことにしておくよ。周りに話すのは、色んな事が決まってからの方がいいだろうしね。と言うか、宗輔。お前、正式なプロポーズはまだなのか」
「あぁ、これからだ」
「ずいぶんと悠長だな」
「言われなくても分かってるさ。ひとまず今日の目的は、俺たちがつき合っているっていう報告と見合い話の阻止だからな。近いうちにまた来るよ。それまでは黙って見守っていてほしい」
やれやれと言いたげに社長は苦笑する。
「分かった。いい報告を待ってるからな。ところで、早瀬さんに一つお願いがあるんだけどね。佳奈さんって呼んでもいいかな。私たちのことも、社長とか奥様じゃなくて……」
「お義父さん、お義母さん、とかね」
嬉しそうに言いながら、社長夫人は私の方へ身を乗り出す。
「うちは男ばかりだから、ずっと娘がほしかったのよ。だから嬉しいわ。ね、佳奈さん、時々私とお茶しましょうね。もちろん、宗輔優先で構わないから」
「は、はい」
「佳奈、そろそろ帰ろう」
「もう帰るの?ご飯、一緒に食べて行けば?」
宗輔は肩をすくめる。
「俺も彼女も明日から仕事なんだよ。親父だってそうだろ」
「あら、そうだったわ。それなら仕方ないわねぇ。佳奈さん、またゆっくり来てちょうだいね」
「はい、ありがとうございます。ぜひまたお邪魔させてください」
「佳奈さん、近いうちにみんなで食事に行こう。それから、すぐには難しいだろうけど、仕事じゃない時はもっと気楽にな」
「はい。ありがとうございます」
「佳奈、行くぞ」
「えぇ。――それでは、今日はこれで失礼いたします」
私は宗輔の両親に向かってもう一度深々と頭を下げた。