その子は椅子に座るなり、ため息を吐いた。
机に両肘をつき、髪をぐしゃりと掻きむしる。
「……誰も、本当の自分を知らないんです」
その声は小さかったが、切実さが滲んでいた。
遥はペンを回しながら、ただ耳を傾ける。
「学校じゃ、明るくて面白いやつって思われてる。冗談ばっかり言って、笑って、空気壊さないようにして。……でも、それ全部嘘なんです。本当は疲れてて、誰とも話したくない日もあるのに」
沈黙が一瞬流れた。
遥は軽くうなずきながら、視線を窓の方にずらす。夕方の光が壁を斜めに染めていた。
「嘘ついてる気がして、余計に苦しいんです」
遥は少し目を細めて言った。
「でもさ、嘘っていうより、演じてるんだと思う。誰だって仮面はつけるし、空気読むために自分を変えることもある」
相談者は目を伏せる。
「でも……ずっと仮面かぶってると、ほんとの顔がわからなくなる」
「それ、俺もわかる」
遥は静かに言った。
「俺も家では”黙ってろ”って言われるし、学校でも同じ。だから、どの顔が俺なのか、たまにわからなくなる。……でも、だからって、全部嘘じゃない」
相談者が顔を上げる。
遥は机の上でペンを止めた。
「笑ってるときの自分も、本当。黙ってるときの自分も、本当。どっちも”お前”なんだ。矛盾してても、それが人間だろ」
相談者はしばらく考え込むように沈黙した。やがて、小さな声が落ちる。
「……でも、誰もその矛盾を見ようとしない」
「見ようとしないやつばっかりかもしれない」
遥は短く答える。
「でも、ゼロじゃない。少なくとも今、俺は聞いてる」
その言葉に、相談者は少しだけ目を見開いた。
「……本当に?」
「うん。俺は聞いてるし、否定もしない」
相談者は下を向き、震える声で笑った。
「……ちょっとだけ、楽になった気がします」
窓の外でカラスが鳴く。空は群青に染まり始めていた。
遥は椅子の背に体を預け、深く息を吐いた。
――本当の自分を誰も知らない。
それは自分自身にとっても同じこと。
けれど、今、ここに差し出された声を受け止めたことだけは確かだった。
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