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「今日は快晴だな……」
空高く飛ぶ飛行機から、爆弾降下班長のジムモリソンは、はっきり豆粒のように見える日本の陸地を眺めた。
“目標通りに今日こそ、新型爆弾を落とせるぞ”と、上機嫌で親指を立てて見せた。
航空兵士の中には、新型爆弾について何十万人の人間を殺せるとの説明を受け、躊躇する者もいたが、この戦争を早く決着させるために、この爆弾を投下すべきとの決断を、ジムモリソンはやむを得ず承諾した。
三日前にも、ここ新潟県の樫山村の上空に現れたB―29爆撃機は、新型爆弾を投下すべき作戦決行の予定だったが、投下装置の故障で投下出来ずに、グアム島の飛行基地に引き返したばかりだった。空襲警報が虚しく鳴り響くだけで、樫山村は一切被害を受けなかった。
そして、今日は運命の日を迎える。
昭和二十年八月五日、八時過ぎ。投下の合図が出された。ドンドン、と陸地から日本軍高射砲の音だけが、B―29の飛行体を越えて天まで届くが、砲弾はB―29を脅かすことすら出来ない。B―29の高度には、日本軍の高射砲はまったく届かないのだ。
その状況をジムモリソンは、ふんと鼻にかける。モリソンは、降下長のマックフォスターに投下の指示を出した。射程眼鏡で、投下位置の標準を樫山村に合わせ、フォスターは、「投下!」と、復唱をして投下ボタンを勢いよく押した。
「……? 投下!」
再度押した。
「どうした! またか?」
三日前の装置故障が頭を過った。
「またか‼」
モリソンは叫んだ。
するとフォスターが、「モリソン軍曹!」と、呼びかけてきた。
「装置故障もですが、雲が急激に発達してきました!」
「何だと!」
モリソンは、窓から空を見た。
「嘘だろう、あんなに晴れ渡っていたのに」
「モリソン軍曹、陸地がまったく見えなくなりました!」
フォスターから緊急の報告を受けた。
モリソンは、隊長である機長のジョンソン少佐に、「投下装置がまた故障です! さらに急激な雲が発生し、作戦遂行は困難です」と、告げた。
「それどころじゃない‼ エンジンが止まるんだ‼」
「はぁー、何ですって!」
「新型爆弾落とすどころじゃない! 俺たちがあの世行になっちまう」
「どうしますか?! 今なら目標地点に、手動切替で投下できますが!」
「二回目も失敗となると、俺たちは降格だ。この前も故障と言いながら、どこも異常はなかったんだ! 今ならエンジンの調子は良い。直ぐにやれ!」
「イエスサー」
返事と同時に準備に入った。
「モリソン! 中止だ‼」
ジョンソン少尉から緊急指令が入った。機体は急降下し始めた。全員が、傾いた機体方向に吹き飛ばされた。
「どうなってんだ?!」
ジョンソンはパニックった。
「なんだ、また正常に戻った?」
今度は機体を急上昇させた。
「モリソン! 爆弾投下させたか?」
「今の状態じゃ無理です!」
「そうか、ここはおかしいぞ‼ よし、もう一度マニュアルにして投下させろ!」と、言った途端、エンジンは停止して急降下しだした。
「ウァー、メーデーメーデー! モリソン軍曹中止だ!」と、言ったと同時にエンジンがかかり急上昇しだした。すぐ傍で、日本軍の高射砲が炸裂した。
「ワァー」
高射砲の到達しない高度まで、なんとか戻った。
「どうなってんですか!」
モリソン軍曹が、操縦席に息切れして現れた。
「分からん‼ 投下させようと指令を出すとエンジンが停止する」
「……??? 間違いない」
助手のウィルサンダースが、口を震わせて言った。
「呪われてるぜ」
ジョンソンは、青い顔をして瞼を閉じ息を吹き出した。
「中止だ!」
「あの地蔵さんの話、聞いたことあっか?」
「なんでや?」
「おまえ、ないんか!」
この村に住む立川恭介は、友だちの佐藤大樹を揶揄するように言った。
「何の話なん?」
「俺の爺ちゃんから聞かされたんやが……、昔々、人のええ爺さんと婆さんがおってな、傘売りをやってたんやが、売れんやった傘を、雪を被った七体の地蔵さんに“寒かろう”って、雪を払って被せたんや。地蔵さんたちが御礼に、大晦日の日に、貧乏な爺さんと婆さんに食べ物を授けたって話や!」
「あっ、それ聞いたことある」
突然現れた篠田未久が、両手を合わせて、ランドセルを揺らし何回も跳ねて、喜びながら恭介に近づいて来た。
「あれ? 未久ちゃんおったんか!」
「うん、後ろつけてきた」
「日本昔話やんか!」
大樹も聞いたことあると、負けじと話に加わって来た。
立川恭介は、この樫山村の生まれで、小学五年生になったばかりのやんちゃ坊主だ。
友だちの佐藤大樹と篠田未久は、隣村の笹屋村から、一時間かけて樫山小学校まで通っている。
恭介の家は、地蔵さんが立っている畑山の百メートル先にある農家で、地蔵さんの傍にある農家は、恭介の爺ちゃんと婆ちゃんが住んでいる。
恭介は、週のうち二日はこの爺ちゃんの家に泊まり込み、昔話をよく聞かされる。夜、爺ちゃんと婆ちゃんの布団に入り込み、話を聞きながら一緒に寝てしまうのだ。そのまま寝てしまうと、、その話が恭介の夢の中で広がり、その時代に生きているが如くタイムスリップを体験する。恭介は、その不思議な体験が楽しくて、爺ちゃんの家に泊まりに行く回数が増えてきた。
いつも体験する訳ではないが、体験した時は、その夢の世界をリアルに覚えていて、朝起きてすぐに、婆ちゃん爺ちゃんに根掘り葉掘り体験談を説明するのだ。
爺ちゃんたちは、恭介がムキになって話す姿が、可愛くて堪らない様子だ。
「この地蔵様って、なんで七つなんやろうね?」
未久は不思議に思って聞いてきた。
「さぁーな、分からん」
恭介は、ぶっきら棒に言った。
「ラッキーセブンやけやないか。ニコニコして愉しそう」
大樹は地蔵を眺めた。
「あっ、今地蔵さんが笑った!」
未久は、地蔵を指差した。
「えっ、ほんとか?」
大樹は地蔵を覗き込んだ。
「ほんとだ! 笑ってるように見えるな」
「この地蔵さまは、この村が出来た頃からあるんだ」
「恭介くん、詳しいね」
篠田未久は、尊敬の念で恭介を見た。
「この村いつできたんや?」
村がいつできたのか、大樹は興味が出てきた。
「分からんけど、爺ちゃんの爺ちゃんのその前の前や!」
恭介は、何百年も大昔のことを表現するのが難しかった。
「毎週土曜日に、爺ちゃんとこの地蔵さん綺麗にするんや」
「へぇー恭介くん、凄いね。きっと地蔵さま喜んでるよ」
未久は、〈昔から見る地蔵さまがいつも綺麗なのは、恭介くんたちが磨いているからなんだ!〉と、感心した。
「爺ちゃんは、いつも大事にしてるんや。この村を守ってくれているから、感謝を込めて磨くんだ。僕も爺ちゃんに付き合って、土曜日には一緒に掃除するんや。すると、気持ちが清々しくなるんや。気持ちがいいぞ!」
恭介は、爺ちゃんがやるのを最初は見ているだけだったが、いつの間にか手伝うようになった。
「どうやって守ってんだ?」
大樹は疑問に思った。
「う~ん、分からん。戦争があった時も、何も爆弾落とされんやったし、戦でも、侍たちはここには来んやったらしい」
「大魔人やな!」
「魔人はおかしくない?」
未久は、もっと精悍な名前を付けたいと思った。
「でもよ、とても強そうにないし、魔除けなんかできそうにないよな」
「うん、そうね。優しい顔してるもんね」
未久たちは、しげしげと地蔵さまの顔を眺めた。
今日は、爺ちゃんの家に泊まる日だ。夕飯を戴くのも気が引けると、恭介の母親は買い物袋を提げて、爺ちゃんの家に婆ちゃんが好きなカステラを持ってくる。
百メートル程度で家に着く。帰りたくなったら、夜中でも帰れる。窓から覗けばすぐそこに見え、まったく家を恋しいと思うことはない。むしろ、あの不思議な体験が恭介を爺ちゃんの家に留ませる。爺ちゃんと婆ちゃんと楽しく話をする。今の恭介にとって、有頂天外なのだ。爺ちゃんと一緒に風呂に入り、昔話をしてもらった。
「昔々な、そう戦国時代の話じゃ」
一緒に湯舟に浸かり、恭介は、「うんうん」と、嬉しそうに頷いた。
「この新潟は、越後の國と言われててな、上杉の殿様が主じゃった」
「上杉謙信か!」
恭介は、湯舟に浸かり、ほっぺを桃色に染め、気持ち良さそうに爺ちゃんの話を聞いていた。
「謙信はその上杉の殿様の息子での、最初は景虎と言っとったんじゃ」
「格好ええ名前やね」
「そうじゃ、小さい頃から恭介みたいに精悍な男の子じゃったらしい」
恭介は、謙信と比較されて嬉しそうな顔をした。
「だがの、この越後の國は当時、長尾家の殿様の力が強かったんじゃ。そして、越後の國にはいろんな分子がおっての、争いごとが絶えんかったらしい」
「分子ってなに?」
「はははっ」
爺ちゃんは笑いながら答えた。
「ちょっと難しかったかの。要するに、この越後の國を一つにしようと、いろんな殿様が争っていたんじゃ。だから、戦国時代と言うんじゃ!」
「それをなぎ倒していったのが、謙信なんやな」
「そうじゃ、恭介は頭がええのぅ、はっはっはっ!」と、気分良さそうに笑った。爺ちゃんの入れ歯が浮いて見えた。
「熱うなってきた」
恭介は、ふぅーと息を吐いて、風呂から上がることにした。
「よし、後は布団に入ってからじゃ」
「うん、分かった」と、湯舟から出て、バスタオルで身体を拭きだした。
「爺ちゃん、早う上がってや!」
恭介は続きを聞きたくて、爺ちゃんを急かし立てた。
「上がって婆さんから牛乳をもらえ。爺ちゃんは、もうちょっと温もって上がるよ」と、風呂で疲れを取り除いた。
恭介は布団に潜り込んで、枕を顎に当て、ゲームをして爺ちゃんを待った。九時過ぎは、現代っ子には早い就寝時間だが、爺ちゃんのところに泊まる時は、いつもこの時間帯だ。
漸く爺ちゃんが来た。台所で婆ちゃんが夕飯の後片付けをしていて、水の飛び散る音が聞こえた。爺ちゃんも布団に入り込んで来た。
十一月は、この地域では冬の始まりで、布団の中が暖かくて気持ちが良い。
恭介は、ゲームをやらせると、夜が明けるまでしてしまう。眠気自体が襲ってこないのだ。それが爺ちゃんの昔話を聞きだすと、話はまったく違ってくる。催眠術にでもかかったように、二分もしないうちに、大きな鼻息を垂れだす。爺ちゃんは、恭介が寝ていようが寝てなかろうが、一時間は話し続ける。朝起きて、“リアルにその時代に生きていた”と、目を輝かせて言われるのが、爺ちゃんにとって生きがいをもたらすのだ。爺ちゃんが疲れて先に寝てしまうと、待ってましたと、婆ちゃんが昔話をしてくれる。これも、タイムスリップさせてくれるから恐れ入る。
「私の方が恭介を興奮させた」と、爺ちゃんに自慢する始末だ。爺ちゃんは、「いや、わしの方が興奮しとった」と、貶める言い方をするもんだから、婆ちゃんもムキになる。
最後は恭介に、どっちが本物かと問いかけて来る。恭介にとって、学校で当てられて答える時よりも、学校の発表会の時よりも、一番存在感を感じる質問だ。
「ん~、どっちも一番や!」と、叫ぶのだ。
爺ちゃんも婆ちゃんも、それを聞いて大笑いする。
「恭介は、ええ子じゃのう」と、満足するのだ。
爺ちゃんと向かい合って横になった。
「この樫山村は、昔々、月日の國と言ってな、上杉謙信の弟、宗彦と言う人が殿様じゃったんじゃ。この宗彦と言う人は、謙信と違って、越後の國を統一するとかの野望はない、とても優しい心の持ち主じゃった。宗彦の殿様は、城から家来を何人か連れてこの村を訪れては、畑仕事を一緒にしたり、村の子供たちと遊ぶのが好きで、平和を愛し戦を嫌う若殿様じゃった」
恭介は、「月日の國か……」と呟き、早くも目がつぶれそうになった。皺がいっぱいの顔を見つめながら、眠りに入っていった。恭介は、爺ちゃんの顔が地蔵さまに見えた。
「爺様、そこの畑のとこの、道端に地蔵さまがおるぞ」
走って息を切らして、庭で薬草をすり潰していた立川門左衛門のところへ、恭丸がやって来た。
「おぉ恭丸か、前に言わんじゃったかのぅ」
「何か言ったかの?」
門左衛門の孫、恭丸は、顎に手を当てて考えた。
「そうじゃった! 上杉の若殿様が、村の守り地蔵さま造る言うちょったの」
「おぅ、思い出したか!」
「若殿様、今度いつ来るかいな」
また早く逢いたいと、恭丸は、上杉の若殿様宗彦が来るのを楽しみにしていた。
「爺様、それ手伝うぜよ。爺様は休んじょってよ」
薬草をすり潰す丸い石を転がすのは、結構な力がいる。恭丸はそれをよく知っていた。年寄りにはきつい仕事だ。
「そうか、しかし遊びたかろう。友達の大丸が来やせんか」
「これを全部すり潰したら遊ぶよ」
「優しのぅ、恭丸は」
門左衛門は、孫の成長と優しさに満足気だった。
宗彦は、兄の謙信の元を訪れていた。
「兄者、あの月日の國に攻め込むのは止めていただきたい」
謙信が本陣を張っている越後の國の城、外山城天守閣で上座に座る謙信に、樫山村がある月日の國だけは、戦を起こしてはならんと、宗彦は嘆願していた。
「あそこは銀山がある。どうしても欲しい國じゃ! あの月日の國は!」
「地蔵さまの國じゃ、攻め込めば兵は生きて帰れぬ」
「お主が蹴散らすのか!? それとも、呪いか? 笑わすでないぞ! 宗彦、命が惜しくなったか、たかが三百の兵で國は守れんぞ。まして、天下太平を称えるだけでは國は守れん! 俺がやらずとも、武田信玄が攻め込む。その時は、もっと酷い目に遭うぞ!」
「……兄者、これでお別れじゃ……」
宗彦は立ち上がり、背を向けた。
謙信はすぐに、先兵隊頭の黒岩藤兵衛を呼びつけ、「二千の兵で月日の國に攻め込め!」と、指示を出した。
「恭丸、地蔵さまを洗ってくれ」
門左衛門は薬草をすり終え、「ふぅー」と、ため息をついた。
恭丸は額の汗を拭って、ためらいなく言った。
「分かった爺様。今晩、苺を食べさせてくれるか!」
「あぁ、鱈腹食わしてやるわ」
恭丸は苺が大好物だった。桶に井戸で水を汲んで、爺様の家に来る時見つけた地蔵さまのところへ急いで行った。
爺様の畑の上の小高いところに、地蔵さまが七体あった。みんな笑っているように見えた。
「全部優しい顔しとるわ。爺様とわしとで地蔵さま守るけんね!」
恭丸は、まずは地蔵さまに声をかけた。
「恭丸、何やってんのや?」
地蔵さまを磨いている恭丸のところに、村一番の仲良し、大丸が遊びにやって来た。
「殿様が造った地蔵さまを磨いとるんじゃ。おまえもやらんか!」
「うん、分かった」
一体ずつ丁寧に、愉しそうに磨いた。
「この地蔵さまは、この月日の國を守ってくれるそうじゃ」
「うちの婆ちゃんが言っとったが、このまだ山の上の方に、昔から地蔵さまがあったらしいんじゃ」
「その話は、うちの爺様も言いよったの。それこそが、伝説の笠地蔵さまらしい」
「そうなんや……」
大丸は、地蔵さまの顔を拭いながら思った。
「これからは、この地蔵さまがわしらを守ってくれるんじゃの」
「そうじゃ、ええ加減に扱こうたら罰が当たっちまう」
恭丸はその日の夜、爺様の部屋で火鉢を囲んで、昔話に出て来る地蔵さまについての話を、愉しそうに聞いていた。
「山に地蔵さまがあったって、本当の話かの?」
「あぁ、本当じゃで。わしが若かりし頃のことじゃ。恭丸よりまだまだ小さかった。大きな大きな天変地異が起きてのぅ、この月日の國が揺れに揺れ動いて、家という家がみんな潰れ、この月日の國の衆は住むところがなくなってのぅ。ただ不思議なことに、誰も死ぬことはなかったそうじゃ。常識では考えられない出来事じゃった。國中の人間が山にこもり、小屋を造って暮らしだしてのぅ。その時に村人たちは、崩れ散った七体の地蔵さまを丁寧に造り直した。わしも手伝った。暮らすのも大変じゃったこんな時にじゃ。“地蔵さまは、自分たちの身を粉々にして、命を守ってくれた”と、村人の男も女も力を合わせ、お供え物をしながら造り上げたそうじゃ。出来上がった日は、村民みんなでお祭りを開いて祝った。それが今も続いておる……」
恭丸は唇を窄め、人差し指を立てた。
「それが地蔵祭りか!」
納得した顔で、声を張り上げた。
「それでの、みんな飲んだり騒いだりして、ぐったり休んでいた。その時、一人の若者が夢を見てのぅ。それが、地蔵さまが村の損壊してしもうた家々を造り直している、そんな夢を見たと言うんじゃのぅ。夢じゃから言うて、誰も信用せずに笑って済ませとったんじゃが、しばらくして、村に出かけて様子を見て来たお年寄りが、血相をかいて帰って来たんじゃ。息を切らせて、今にも倒れそうじゃった。だから、落ち着かそうと水を与え、息切れがなくなるまで休ませた。それでも、興奮して語りだした……」
「む、む、村が村、村が戻っちょる!」
「はぁー?」
年寄りを取り囲む村人たちは、それぞれが顔を見合せ小声で囁いた。
「大丈夫か、この爺さん」、「頭打ったか」、「そりゃ村はあるじゃろ?」
「家が戻っちょる」
「……? 口が回っちょらんど。爺さん、大丈夫か」
村の首長を掌る中村武信が、「ただ事じゃなさそうじゃの」と、首長らしく爺さんを見据えた。
「爺さん、落ち着いて、落ち着いて! ゆっくり話そうかの、村がどうしたんじゃ?」と、宥めた。
爺さんは、ごくりと喉を鳴らし、息を吹き出した。
「うん、うん、どうした」
首長は優しく問いかけた。
「家が……、全部戻っちょる」
爺さんは、掠れた声を出した。
「戻っとるとは、何が戻っとるんじゃ」
「家が、家が全部元通りに直っとる」
「直っとるって、家があると言うことか」
「その通りじゃ……」
首長は幼少の門左衛門を見つめて、ちょっと頭にきたかな? と、みんなに見える程度に首を傾げた。
「わしは幼少じゃったが、首長の言っとることが何となくだが分かった。頭がおかしくなったらしい、という雰囲気は呑み込めた」と、門左衛門は当時を振り返った。
「爺さんの家が、昔のまま残っとるってことか?」
「そのまんまじゃ!」
首長は、首を縦に振り納得した視線を見せたが、内心は、幻覚を見たのじゃろうと考えた。
〈これじゃ埒があかん!〉
そう思った首長は、若い安之介と年輩者の虎吉に、「ちょっと、村を見て来てくれ!」と、頼んだ。
「家があるとかは妄想だろうが、何か変化ある物を見たかもしれない」
「首長はそう言ったものの、みんなは何も期待してなかったようじゃ」と、門左衛門は話を続けた。
それから四半刻(三十分)経った頃、安之介が、「お~い!」と叫びながら、山の長く細い道を駆け上がって来た。首長ら村の重臣が、今後のことについて話し合っていた時だった。
「おぉー安之介、どうじゃった? えらく慌てとるの。虎吉どんはどうした?」
「いや、後ろから来てます!」
安之介は虎吉から、「おまえ、早く行って知らせ!」と、言われて来たのだ。
「それでどうじゃった。崩れ果てた家は直っとったか?」
冗談ぽく、重臣の一人が聞いてきた。
安之介は、「はぁはぁ」と言いながら、声を張り上げた。
「びっくりすんなよ……、爺さんが言った通り、どの家も元通りになっとる!」
「なんじゃと‼ 爺さんが言ったこと本当じゃったか!」
「あぁ、間違いなか。虎吉さんもしっかり見てきた。どの家も、畑も天変地異が嘘のようじゃ‼」
「……有り得んことぞ」と言いながら、村人は地蔵さまを見た。
「地蔵さまが直してくれたんじゃ! 信じられん出来事が起きたぞ!」
首長は立ち上がった。
「皆の衆、今日も地蔵さまを祝うぞ‼」
「おおぉー‼」
村の衆の歓声が、一斉に沸き上がった。
「と言うことで、恭丸よ、この村は生き残ったのじゃ」
「凄いな、地蔵さまの力は! どうやって一晩で造ったんじゃろ?」
素朴な疑問が、恭丸には浮かんだ。
「そうじゃのぅ……、誰にも分らん」
爺様もその出来事は、鮮明に覚えていた。ただ幼かった頃に比べ、たくさんの奇跡が起きていることが、記憶の奥に深く刻まれていて、少しずつだが引き出されてくる。
「今思うとのう……、一間(一・八km)先の青が関の海岸では、天変地異で大波がきて、この月日の國を呑み込んだと言われとるが、隣の大きな國、佐和の國は全滅したそうな」
話を続ける爺様の顔が、恭丸には仙人の顔に見えた。細い顔に白い髭を生やし、後ろ頭で髪を束ね、恭丸と一緒のちゃんちゃんこを羽織って話す爺様の姿は、痩せ干せているが、恭丸から見ると、何でも知っている重みある威厳を感じた。
「不思議なことに、この月日の國には大波は来なかった」
「地蔵さまが防いでくれたのかの?」
恭丸は、この世と別世界のような感じを受けた。
「さぁーのう……、不思議なことじゃ」
恭丸は、すぐに地蔵さまの力に結び付けた。
「それいのぅ。わしも幼かったから記憶はおぼろげじゃが、地が揺れ、立つことが出来なかった。怖かったことだけは確かじゃ」
話に夢中になっている時に、遠くの地で戦の雄叫びが聞こえた。
「何じゃろう?」
爺様は不安げな顔をしていた。
その時、「門左衛門!」と、途切れがちの声が聞こえた。空耳か? と耳を疑ったが、遠くで聞こえる雄叫びが妙に気になる。
「門左衛門」
「あっ、爺様を呼んじょるぞ」
「わしを? 聞こえんぞ……」
「ちょっと見て来るぞ」
恭丸は、何となく助けを求めている声に聞こえた。恐る恐る引き戸へ向かった。
「気をつけえよ! 開けんで、中から声かけてみよ」
「分かった」
恭丸は草履を履いて、土間にある予備の押え棒を持った。盗賊であれば一溜りもないが、恭丸は、“小さいながらも男だ!“という自覚はある。
遠くで聞こえる、戦のような雄叫びも気になる。恭丸は、爺様が言うように、押え棒を持ち上げ声をかけた。
「誰じゃ!」
「おぉ、恭丸か……」
「えっ、その声は殿様?」
恭丸は、握りしめていた棒を降ろして聞き直した。
「殿様か?」
「そうじゃ、宗彦じゃ。中に入れてくれ」
「爺様! 殿様じゃ、なんかあったんじゃなかろうか」
「何じゃと、殿様! すぐに開けなさい」
恭丸は、押え棒を外し、引き戸を急いで開けた。
殿様は膝をついて、髪を乱し、額には擦り傷を負っていて、いつもの凛々しい若殿の姿はそこにはなかった。
「どうなされた!」
爺様は裸足のまま土間に降り、引き戸から外に出て、殿様の腕を抱え急いで入れようとした。
「宗彦様、どうなされた!」
すると、宗彦に手を引かれた未久姫が傍にいた。姫の姿は、泥まみれになっていた。
「未久姫様……」
「恭丸、姫様を頼む」
「あっ、はい」
恭丸も慌てた。殿様も未久姫も、言葉を失うほど落胆していた。
「とにかく中に入れっちゃ」
爺様は怒るように恭丸に叫んだ。
「中に入れ!」
爺様は、事の重大さを感じたのか、早口になった。
「奥の部屋に隠し所があるけな、そこに匿うのじゃ」
抱えて行こうとすると、宗彦が声を嗄らして、「門左衛門、頼みを聞き入れてくれ」と、疲れ果てた顔を見せた。
「黒岩藤兵衛の兵が、城に攻めてきた。血も涙もない藤兵衛じゃ。私と未久は、我が兵が命をかけて抜け穴から逃がしてくれた……。私は駄目だ! せめて未久姫だけは何とか匿ってほしい」
「だめじゃだめじゃ!」
爺様は、殿様も匿うと言った。殿様は、聞く耳を持たなかった。
「藤兵衛は、我が首を刎ねるまで諦めん、そういう男だ。我まで匿うと、姫まで切られてしまう。我は地蔵さまに身を捧げて、自害して果てる。未久姫を頼む。恭丸! 未久姫を頼んだぞ……」
「は、はい!」
恭丸は突っ立ったまま、身体は硬直して、何をどうしていいのか分からなかった。とにかく、返事だけは力強く殿様に返した。
「門左衛門、すまん! 必ずおまえたちを、地蔵さまと共に孫の代まで守る。未久姫を頼む!」
爺様は、「殿様‼」と、声を震わせた。
宗彦は未久姫を抱きしめ、刀を杖に足を引きずりながら、引き戸を開け、出て行こうとした。
唖然として立ち尽くしていた未久姫が、事の大きさを察知してか、大粒の涙を流しながら宗彦を見つめ、「父上さま!」と、叫んだ。
宗彦は振り返り、未久姫を見つめ、「門左衛門と恭丸に可愛がってもらえ」と、呟いた。
未久姫は歳のころ、九つになる。侍の娘と言えども、父上に縋りたかろう。未久姫の毅然たる姿に、爺様も恭丸も頭が下がる思いだった。しかし、必死で堪える未久姫の姿が、哀れみに満ちて見えた。
爺様は、沈みかけた気持ちを持ち上げて姫に語りかけた。
「さぁ姫、殿様の心遣いを無駄にしてはなりませぬ。早く奥の隠れ部屋へ」
姫が一瞬躊躇ったので、「姫が侍たちに連れ去られたら、天の上に行けねぇだぁ」と、恭丸が動かない姫に訴えた。
未久姫は恭丸を睨みつけたが、すぐに、「分かりました」と、顔を引き締めた。
殿様が出て行った後、恭丸は、「殿様を地蔵さままで俺っちが連れて行く。あの身体じゃ無理じゃ! 爺様、未久姫を頼むわ!」と、告げた。
爺様が、「あっ、駄目じゃ」と、言った時には引き戸を開け、恭丸は、殿様を追いかけていた。
爺様は、気が気でなかったが、姫様をとりあえず隠し部屋に匿った。その後、爺様は急いで、暗い夜道の畦道を走って追いかけた。地蔵さまがある少し高台の畑道を登って、地蔵さまのところに来た。
唖然として恭丸が立ち尽くしていた。爺様は息を切らして、並んでいる地蔵さまを見た。
「なんてことだ……」
宗彦は、いちばん端っこの地蔵さまの傍で、自害していた。
近くで兵士の声が聞こえた。
「こりゃいかん! 藤兵衛の兵が殿様を追って来とる。恭丸よ、戻るぞ」
「殿様をこのままにして行けんぞな!」
「いいんじゃ、殿様はここで見つかることを望んどるんじゃ!」
「でも葬ってやりゃな……」
爺様は、恭丸の腕を引っ張った。
「心配すな、地蔵さまがちゃんと葬ってくれる。さぁ、行くぞ!」
恭丸を無理やり連れて家に帰った。その間、恭丸はずっと泣きじゃくった。
身を潜めながら家屋に入った。白々しく、婆ちゃんと爺様と三人で火鉢を囲った。心臓が破裂しそうなくらいに怖かった。婆ちゃんと一緒で、涙が止まらない。
外では兵士たちの声が、一段と大きく聞こえだした。何十人、いや、何百人の数だろう。
爺様は生唾を呑み込んだ。ガタガタと震う手を握りしめた。
“地蔵さま!”と、心で叫んだ。覚悟は決めていた。
〈おら、命捧げてもええ。恭丸と未久姫の命は助けてくれぇ……〉
引き戸を叩く音と、「ここを開けぇー!」と言う兵士の声がした。
「踏み込んできたら、爺がなんとか時間を稼ぐ。おまえ達はすぐに、姫の居る隠し部屋に行くんじゃ」
「爺様はどうするんじゃ!」
恭丸は、顔をくしゃくしゃにして、爺様の袖口を掴んだ。
「心配すな、何とかするわな」
「開けんか!」
ドンドンドンと、叩く音が激しくなった。
「さぁ行くよ、恭丸!」
婆さんが恭丸の腕を掴んだ。
「早く行け」
爺様が急かした。
「叩き破るぞ‼」
兵士たちが、今にも破って入って来そうだった。
爺様は、「はいはい、ただいま開けますだっ」と答え、土間に降りていき、手だけは恭丸たちに、“早く行け!”と合図した。
恭丸と婆さんは、急いで姫のいる地下の隠し部屋に入った。
爺様は、引き戸の押え棒を除けた。すぐに引き戸が開き、鎧武者姿の兵士たちが入り込んできた。
「爺! 誰か来なかったか!」
今にも斬りつけてきそうな勢いで、武者は爺様に語りかけた。
「外が騒がしかったので、身を潜めておりました」
「そんなことは聞いとらん! 誰も来なかったかと聞いとるんじゃ!」
爺様は咄嗟に思いついた。
〈誰も来てないと白を切ると、家をくまなく探しそうじゃ〉
「来ました。強く叩いて入れてくれ! と」
「そいつはどこじゃ!」
「ここは何にもないから、他の農家を当たってくれ、と言いましたところ、去っていく足音が聞こえました」
「真か、偽りを申すと斬り捨てるぞ!」
「嘘ではございません」
「やっぱり、ここら辺りで潜んでおるの……、他を探せ!」
外に出ようとした時に、土間に血のりがあるのを一人の兵士が見つけた。
「なんじゃこりゃ!」と、叫んだ時に外から、「宗彦がおったぞ‼」と、声が聞こえた。
それと同時に、雨がザァーと叩きつけるように降り出した。
「自決しとるそうです!」
兵士の声が聞こえた。
“この雨は宗彦様の涙か!”
「よし! 首をとれー」と、頭の兵士長は叫んだ。振り返り爺様を見た。
「爺! 宗彦はここに来たな!」
「とんでもございませぬ。来ておりませぬ」
「この血のりはなんだ!」
「それは……」と、爺様は震えながら押し黙った。
兵士長は外に出る時に、一人の兵士に、「斬り捨てえー」と命じた。
すると、突然轟音がした。
「うわぁー」と、兵士たちが身を潜めた。抜こうとした刀に、雷が直撃したのだ。兵士はその場に倒れた。
頭の兵士長は生唾を呑み込んで、青い顔をした。
“まさか?!”
引き戸の開いた部分から、光る稲妻が目の前を通った。爺様を見た。我に返った兵士長は、外にいる兵士を呼び、稲妻を受けた兵士を運び出すよう命じた。息はあった。
「すぐに手当てを受けさせろ」と指示した後、爺様を見て不敵な笑いを浮かべた。
「命拾いしたな……」
そう捨て台詞を残して、引き戸を閉め出て行った。
外は、突然の大雨に見舞われていた。嵐のような風も舞う。雷は時折、吠えるように鳴り響き、青い稲妻は雨空の中、獲物を探し求めるように、短く空を引き裂くかの如くひび割れ光る。
地蔵さまの周りを兵士たちが取り囲んだ。宗彦は、地蔵さまに寄り添うように自害していた。その近くに、二人の兵士が倒れていた。
「我が首を!」と、近づくと雷に打たれ、宗彦に触ることも出来ずに、一瞬にして稲妻を受け倒れ込んだ。
兵士長は、地蔵さまのある畑道で、びしょびしょに雨に打たれている兵士たちに、雨が入り込むほど口を開け怒鳴った。
「貴様ら! それでも殿様、黒岩藤兵衛の兵か‼」
雷音と、畦道を溶かしていくほど叩きつける雨音が響き渡る。
兵士長は、「殿様がお見えになる! それまでに首を取れ!」と、叫んだ。
誰もが稲妻に打たれるのを恐れた。無理もない、宗彦を触って、首を取ろうと急いだ兵士が、青い稲妻に打たれ一瞬にして息途絶えた。
「今だ!」と、出世を狙った兵士も稲妻に打たれ、身体が真っ二つに割れた。大雨の中、それを見た多くの兵士たちは、呆然と立ち尽くしていた。
「ええぃー! 情けない連中だ!」
「しかし、兵士長殿、稲妻が!」
「偶然だ、何を恐れる!」
その知らせを聞いた黒岩藤兵衛が、大勢の兵士を引き連れ、馬の足音と共に現れた。兵士長は、恐れおののく兵士たちを鼓舞するため、自ら宗彦の首を刎ねようと、流れ落ちる水飛沫を撥ね退けるように宗彦に近づいた。
“ゴォーー”と、天の怒りが鳴り響いた。
兵士たちは身を屈め、手で顔を覆った。
“ゴォー”の音と同時に、青い稲妻が兵士たちの傍を通った。
「ひぃー!」と、兵士たちはびびった。ドロドロと流れ落ちる土に足をとられ、坂道を転げ落ちる兵士が石ころに見えた。
藤兵衛は、稲妻で暴れる馬から落ちそうになった。
「ええぃー! 狼狽えるな!」
藤兵衛は叫んだ。しかし、叫ぶ声が止まった。
兵士長の首が稲妻で吹き飛ばされ、頭と身体が二つに引き裂かれ、燃えだしたのだ。
兵士たちはそれを見て、宗彦の死骸がある地蔵さまから一斉に逃げ出した。慌てて坂を滑り落ちる者、地に伏せる者、みな狼狽えた。
千軍万馬の黒岩藤兵衛も、馬の上から兵士たちの姿を見て驚愕した。その姿は無惨な姿だった。首から上は地蔵さまの前で炎を上げ、胴体は立ったまま宗彦の傍で手も触れず燃え上がった。
〈なんてことだ。だが首を取らねば……〉
藤兵衛は兵士に命じた。
「よし、おまえら全員で! 宗彦の死骸をこちらに引きずってまいれ」
地蔵さまの周りにいた十人程度の兵士に指示した。一斉にやれば、稲妻も全員に浴びせられまいと践んだ。
すると、“ゴォォー”と空が噎び泣くように轟音をたて、稲妻が地蔵さまの周りを走った。兵士たちは全員、「うわぁ!」との声と同時に、吹っ飛んだ! 稲妻はそのまま、藤兵衛の馬の前で地響きを起こさせた。
“ヒヒンー”と、馬は前脚を高く上げ、藤兵衛を振るい落とした。どちゃーと大きな音を立て、藤兵衛は水溜まりに叩きつけられた。
強将藤兵衛の惨めな姿だった。藤兵衛を介抱する兵士もいなかった。藤兵衛は、鎧の重なり合う音をたてながら起き上がり、兵士たちを見渡した。みな倒れ込み、起き上がる者はいなかった。
藤兵衛は、地蔵さまに寄りかかった亡骸を見つめた後、空に顔を向け、落ちてくる雨に顔を打たれながら叫んだ。
「宗彦殿! あなたの仕業か! ここには二度と訪れぬ。成仏してくだされ!」
そう空に叫んだ後、門左衛門の農家に引き込まれるように行き、引き戸を叩いた。
爺様は覚悟を決めた。
〈斬られる!〉
土間に跪いた。
「黒岩藤兵衛だ!」
「ひぃーひぃー」と、思わず声が出た。
〈お、鬼の藤兵衛だ〉
「開けぬともよい。恐れることはない。おまえに頼みがある」
「はっ、な、何でございましょう」
「地蔵に横たわっておる宗彦殿の亡骸を、地蔵の傍に葬って欲しい……」
「わ、分かりました!」
「頼んだぞ!」
「畏まりました」
「兵士の亡骸は今晩の間に引き去る。明日頼んだぞ」
そう言って、藤兵衛の気配は雨痕を残して、消えてなくなった。
爺様は、引き戸を開けようか迷ったが、恐ろしさが昂り、開けられなかった。
しばらくして、ざわざわと外は騒がしくなり、藤兵衛の兵士たちが現れ、雷に打たれ死亡した兵士たちの亡骸を引き去った。
すぐさま風雨は収まり、静けさが戻った。
爺様は、今すべきことは何か迷った。年の功ゆえの迷想だ。宗彦さまの亡骸を朝まで放置しておくことは、邪念として、やるせなさを募らせる。
“外に出るのも恐ろしや”の気持ちの昂りは、“わしはどうなってもいいんじゃ!”の捨て身で消え失せた。
〈宗彦さまの一番の望みはなんじゃった?〉
土間に一人立ち、自問した。
〈未久姫君をお守りすることじゃ。外で、もしやこの農家を見張っているかもしれん。宗彦さま、勘弁してくなはれ……」
両手を合わせ、地蔵さまの方に向かって拝んだ。
「何じゃと! 首が取れんじゃったと!」
外山城にて、謙信は黒岩藤兵衛に怒りの声を上げた。謙信は、藤兵衛の軍勢の強さは、数々の戦歴から負け知らずの鬼畜軍団として、他の國の軍勢から恐れられていることを、充分承知していた。
その男が、「あの月日の國に攻め込むのは、避けた方がよろしいかと……」と、謙信に具申してきた。
「宗彦殿の亡骸は、地蔵がある傍に埋葬するように命じて参り申しました。月日の國は、もうどこの國でもござりませぬ。どこの兵士も、あそこに攻め込むことは出来ませぬ」
「宗彦は確かに死に申したか」
「この目で見て参りました」
「……、お主まで怖れるとはのう……」
「殿、お言葉ですが、命は欲しくはありませぬ」
「なら、どうして首を取れぬ!」
「我が藤兵衛の兵が、全滅してしまいます」
謙信は思った。
〈藤兵衛が、この無敵の騎馬隊を持つ黒岩藤兵衛がここまで……〉
「よかろう。わしがこの目で、その宗彦の天変とやらを確かめてみよう」
謙信は、半刻過ぎに藤兵衛を連れ、月日の國に向かった。月日の國が見える小高い丘に辿り着いた時に、その光景を見て、唖然として言葉を失った。
「……あれは! 藤兵衛!」
謙信は、藤兵衛を傍に寄越した。
「ははっ」と、藤兵衛は返事と共に謙信の傍に寄り、謙信の言葉を待った。
「あそこは攻められぬ。なんという國じゃ」
晴れ渡った夜空に、月は真ん丸と輝き、月日の國の真上では、無数の青白い稲妻が月日の國を突き刺していた。
謙信はそれを見て、鳥肌が立った。この世の物とは思えぬ、月日の國の真上で起きている天変地異に、戦々恐々とした。
「殿!」
藤兵衛の声にさえも、謙信は息が止まった。
「な、何じゃ……」
謙信の風声鶴唳した姿を始めて見た。
「まだ月日の國に参りますか?」
「いや! 無理じゃ。二度と行くことはあるまい! 藤兵衛!」
「はっ!」
藤兵衛は頭を垂れた。
「お主はやはり、上杉最高の武将じゃ。あそこによくぞ攻め込んだ!」
「はっ、はぁー。有り難きお言葉!」
「よし! 引き上げじゃ!」
馬の踵を返し、謙信たちは月日の國を後にした。
丘にひとり藤兵衛は残り、跨った馬を撫でながら、一瞬にして明るく光が射した月日の國を見て、國のためと家族のために自決した宗彦の思いに耽った。
「これで良かったかな……、宗彦殿」
馬の踵を返し、藤兵衛も去った。
「恭介! 恭介! 起きんか。朝飯食わんと遅れてしまうぞ」
恭介は寝ぼけ眼で、半身起き上がり口を開いた。
「爺様! 無事じゃったか?」
「そうか、恭介! 夢を見たか?」
爺ちゃんは嬉しくなって、寝ぼけた恭介の肩を両手で揺すって言った。
「婆さんや、恭介がまたタイムスリッパ―したぞ!」
婆さんは、味噌汁を食卓に運びながら、「何言っちょるかね。タイムスリッポンじゃがね」と返した。
二人のやり取りに、恭介は目をこすって目覚めた。
「タイムスリップのこと?」
「おおっ、それじゃ!」
「僕が間違えるやんか……」
「で、何を見たか、恭介よ!」
爺ちゃんは、恭介の布団に座り込んだ。よだれを垂らしそうなくらいに、口の中がネチョネチョになっているのが分かった。
「そうや、爺ちゃん、地蔵さまの傍に宗彦さまのお墓があるかいね?」
「宗彦さま? そういえば、並んでる地蔵さまのすぐ上の草むらに、石段積んだ物があったな……。何かの墓かと思ったことがあったが、忘れとったのぅ」
「そう、それが宗彦さまの墓じゃで。間違いないよ、爺ちゃん! 今行ってきたばかりじゃで」
恭介は、今の今までいた世界をしっかり語った。
「はよう顔洗わんね」
婆ちゃんは、「そんな話は後、あと」と、急かした。
爺ちゃんは、「よっしゃ、続きは学校から帰ってからじゃ。それまでに、その宗彦さまの墓を探しちょく」と、恭介に告げた。
「うん、分かった」
恭介は洗面台で顔を洗って、急いで学校に向かった。
恭介は小学校で、佐藤大樹と篠田未久を摑まえて、夢の話を聞かせた。
「その稲妻は、地蔵さまが村を守るために起こしたんか?」
「そうじゃ。それと宗彦さまの超能力やろうな」
「ふ~ん。超能力って、時代に合わない気がするね」
未久が、首を可愛く捻って言った。
「そうじゃな、戦国時代には何て言ったんじゃろ」
「……? ん~」
恭介と大樹は腕組みをした。未久もそれを見て、腕組みをして見せた。
「天界士はどうじゃ!」
「いいんじゃない!」
未久はにっこりして頷いた。
「格好ええな、その天界士って!」
大樹も納得だ。
「地蔵さまが並んでいる傍に、その天界士、宗彦さまの墓があんのか」
「爺ちゃんが、学校から帰るまで探しとくそうや」
「なんか、ゾクゾクするね」
未久は、ブルブルっと身体全体を震わせた。
「あった!」
地蔵さまが並んでいる傍の、少し小高くなった雑草の茂っているところに、昔見つけた石段が埋もれているのを見つけた。
〈これが宗彦さまの墓か、なんてことじゃ……。わしのご先祖様が宗彦さまを葬ったのか〉
「恭介が夢で見つけてきよったわ。大した孫じゃ! よし、草刈りからじゃ」
用意してきた鎌で、よっさよっさと刈りだした。
倒れた墓石は、恭介と一緒に立て直そう。草刈りをしながら、そう頭を巡らした。墓石周辺の茂った草やぶを綺麗に刈った。
一服して座り込んで墓石を眺めていると、一瞬、宙に浮いた気がした。頭がクラッとした。墓石から白い透明な浮遊したものが見えた。
「うわぁー!」
爺さんは、身体から抜け出した感覚を受けた。
「かたじけない……」
すうっーと元に戻った。
「何じゃ、今のは?」
ふぅー、爺さんはため息をついた。
〈そうか、今のは宗彦殿の言葉か……〉
「とんでもござらん」と、口から出た。爺さんは、墓石を見てニヤリとした。
「爺ちゃん!」
畑道を、掛け上がって来る恭介が見えた。後ふたり、それを追うように走ってついてきた。大樹と未久だ。
「おー、恭介!」
孫の声は、年寄りを元気はつらつにしてくれる。
「ハァハァ」
恭介は息を切らせて、地蔵さまの前に来て手を合わせ拝んだ。
「地蔵さま、こんにちは」
爺ちゃんはそれを見て、大きく唸った。
“立派なもんじゃ”
孫の成長ぶりに感服の至りだ。遅れて大樹と未久が来た。二人も地蔵さまに手を合わせた。爺ちゃんは思わずにこりとした。
「爺ちゃん、宗彦さまの墓はそれかね」
倒れている石碑を指差した。
「そうじゃ、見つけたぞ。間違いない。宗彦さまから礼を言われたわい!」
「えっ、出てきたん!」
「そうじゃ、一瞬じゃがな」
「綺麗に刈りあげたね。宗彦さまに礼を言われるなんて、爺ちゃんしかいないよ」
「はははっ」と、爺ちゃんは笑いながら、白い唾液をうぃっと、しゃっくりするように呑み込んだ。ゲボッゲボッと、絡んだ咳をした。笑ったり、話の途中に自然と出てくる仕草だ。
「さぁ、皆で倒れている墓石を起こそう。恭介らを待っとったんじゃ」
「そうなん。よっしゃ、みんなで立てよう」
恭介は、元気に大樹たちに言って墓石を立てた。墓石は結構小さかった。恭介は身長百五十五センチで、五年生の中では大きい方だが、墓石を立ててみると、恭介より遥かに小さかった。
すると未久が、「あっ!」と言って座り込んだ。
「どうした、未久ちゃん!」
恭介は、びっくりした。
「大丈夫か?」
爺ちゃんと、未久の傍に寄って介抱しようとしたが、顔を伏せていた両手を開いた。
覗き込んでいた恭介と爺ちゃんを交互に見て、「お侍さんが見えた……」と、未久はブルっと震えた。
「それで、何か言った?」
恭介は、未久の肩に手をやって、心配しながら言った。
未久は首を振った。
「でも、微笑んでた……。周りはすごく輝いていたよ」
恭介は、未久の顔を眺めていて気づいた。
「未久ちゃん、未久姫さまにそっくりじゃ!」
「ほんとうかいや」
爺ちゃんも驚いた。
恭介は、殿様と兵士と稲妻のことばっかりを思い出していて、未久姫のことは、すっかり夢の記憶から消えていた。
「未久ちゃんは、未久姫さまの生まれ変わりや! そうや、名前も一緒や!」
恭介は、興奮して喜んで叫んだ。
「えー、私の前世はその姫さま?」
未久は、現代っ子らしい答えを返した。
「何か……、複雑?」
「複雑なもんか、嬉しいことやんか。ものすご可愛かったぞ!」
未久は、赤ら顔になって照れた。
「言うことなしやんか。地蔵さまが、未久ちゃんをずっと守ってくれるんやからな! なぁ、爺ちゃん」
「はははっ」
爺ちゃんは思わず笑ってしまったが、恭介の言うことも満更じゃないなと、すぐに笑いを納めた。
〈さっき聞こえた宗彦殿の声は、頭の中にこびり付いている。昔話で言い伝えられてきたこと、恭介に話したこと、恭介の夢の中に出てくる事柄。恭介の夢は、ほんまのタイムスリッパーかもしれんな! わしも不思議な世界に、この歳になって入り込んでしもたわ〉
カタカタ入れ歯の音を出して、クックックッと、笑いを堪えた。
大樹はそれを見て、「恭介の爺ちゃん大丈夫か?」と、恭介に惚けた顔をして、頭を掻いた。
「爺ちゃん、なに笑ってんのや?」
「おぉ、恭介のタイムスリッパーに感心しとった」
「爺ちゃん、タイムスリップや」
恭介は、「僕まで間違うがな!」と、大樹と未久と一緒に笑い転げた。
「未久ちゃん、どうや?」
恭介が気遣ったが、未久は和やかに顔を振った。
「大丈夫、一瞬だった。逆に晴々してきた」
未久姫の生まれ変わりと聞いて不安が渦巻いたが、恭介から地蔵さまが守ってくれると聞かされて、宗彦だと思われる心霊的現象も清々しく感じだした。
「爺ちゃん、ちょっと家で未久ちゃん休ませようや」
「そうじゃの。家で婆さんにジュースでも飲ませてもらえや」
「うん、分かった!」と、恭介は畑道を走って降りた。
大樹も未久も後に続いた。
「元気ええのぅ。恭介は一日中走っとる」
感心して、爺ちゃんは恭介たちの後を追った。
二日間ほど恭介は自分の家で過ごし、今日は爺ちゃんの家に泊まる日だ。母親から、「あんた、どこの子かね」と言われるくらい、爺ちゃんの家に泊まりに行く。あの昔話を聞き、夢のタイムスリップをすることが、映画の世界に入り込めたようで堪らないのだ。
今日は天気も良く、恭介が帰るまで畑仕事に持ってこいだ。爺ちゃんは、道沿いの畑仕事にせっせと精を出していた。
暫くすると、ブルルー、ブルルーと、低音の排気音がゆるやかに、遠くの方から聞こえてきた。爺ちゃんたちも、軽トラックなどを運転しているが、あきらかに普通の車の音とは違っていた。畑仕事の手を止め、周りを見たが、それらしき物は見当たらなかった。
肌寒い日ではあったが、青空いっぱいの青天だった。爺ちゃんは空を見上げ、気持ちいい息を吹き出した。
ブルルー、ブルルーと、鋭い排気音が砂煙を上げながら、この農道で見ることはあり得ない、でっかいJeepが現れた。なんと、カーキ色のハマーだった。
「何ちゅう車や……。アメリカ軍が攻めてきたか」と、爺ちゃんは時代錯誤に陥った。
爺ちゃんは、持っていた鍬で身構えた。目の前にハマーが止まり、爺ちゃんは、まさかの出来事に、ポカンと口を開けていた。
助手席の窓が開いた。カーキ色の迷彩柄の軍服を着た兵士が、アメリカ兵がよく被っている菱形のハットを頭に付けていた。
運転席のアメリカ兵が、「コンニチワ」と、片言の日本語で挨拶してきた。
「はぁー、こんにちは」
反射的に爺ちゃんは挨拶を返した。この村には似つかない、初めて見る突然の異端者に身が固まった。
すると、助手席にいたアメリカ兵が降りてきて、爺ちゃんの前に現れ、ぎこちなく腰を曲げて、頭を下げ挨拶してきた。
〈なんて大きいな〉
第一印象は、アメリカ兵とかいうよりも、身長百九十センチは超える巨人に度肝を抜かれた。
「テンキイイデスネ」
〈何か映画でも観とるような、俳優さんみたいじゃな。息子がよく観よった、ミッション何とかの男前? 何とか言ったな……〉
爺ちゃんは、手を顎に持っていき考え込んだ。片言の日本語だったが、年寄りにもハッキリ理解できた。初めは警戒心むき出しだったが、丁寧に挨拶する人懐っこい仕草に、異端な訪問者に対する親しみを感じだした。
「ワタシハ、ヨコタ基地デ働イテイル、パイロットデス」
「ほうー、飛行機乗りかね」
剽軽に答える爺ちゃんに、大柄な異人さんは、柔らかな顔を見せた。
「ピースフルナ、トコデスネ」
英語と片言の日本語で、中身はちんぷんかんぷんだったが、困った顔はしなかった。
ハマーの後ろドアがゆっくり開いて、淑やかに女性が降りてきた。同じ菱形の帽子を被った、若い女兵士だった。
〈なんて別嬪さんじゃ。キリリとしたスタイルで、人形の様じゃ〉
片言で言うアメリカ兵はほっといて、爺ちゃんは若い女兵士に目を奪われた。
見とれていると、ニコリとして、「こんにちは、はじめまして」と、挨拶してきた。
「ありゃ、日本語上手じゃのう」
思わず畑から出て、アメリカ兵の前に出てきた。
「これはこれは、わざわざこんな田舎に何しに来なさった?」
道に迷うにしては、あまりにも突飛な気がした。気が付くと、もう一人の運転していたアメリカ兵も、車から降りていた。見る限り、片言のアメリカ兵は上官で、運転していた男は部下だと見えた。すると女兵士は? の疑問だが、見透かしたのか、事情を説明し始めた。
「私は日本生まれで、日本でほとんど過ごしています。今、横田でアメリカ軍に所属しています」
「そうかね、それでペラペラなんやな」
「ええ。こちらは私のファーザーでして」
片言で日本語を喋る男を指差した。
「はぁー」
爺ちゃんは、気のない返事を返した。キリリとした女兵士は、ニコリと眉毛を吊り上げて爺ちゃんを見た。
「私のとうちゃんで~す」と、軽やかに爺ちゃんに言った。
「ほぉー、そういうことかいな」
納得顔をして、一緒に声を出して笑った。
女兵士は柔らかな顔で、父親に英語で何か語っていた。爺ちゃんは当然分からなかった。護衛についている兵士も、一緒になって笑った。
「ところで、おまえはんら、何しにここに来られたんじゃ?」
爺ちゃんは、何か探しに来たものと思い、娘兵士に訊いてみた。
娘兵士は、父親の兵士と顔を見合わせ、お互いに頷いた。
爺ちゃんは、何か訳ありと感じて、三人のアメリカ兵に、「よかったら、あの家で休んで、お茶でも飲んでいかんか」と、自分の家を顎でしゃくって差した。三人の兵士は同時に家を見た。
爺ちゃんは、その仕種に、“さすが兵隊じゃ、息ピッタリ”と、ご満悦の笑顔で、「はっはは」と、唇に白い唾液をつけて笑った。
「靴は脱いでくれな」
兵士さんたちに、自分の靴を指差した。爺ちゃんは、靴というより地下足袋だったが、「ええ、理解してます」と、娘兵士は愛想良く答えた。テレビとかで、外人さんが日本の家に上がり込む時、土足のままっていうのを見ていて、爺ちゃんは気になっていた。
農家だけに、玄関口はだだっ広く廊下も広い。すぐ傍にある部屋は畳部屋で、二十畳はある。真ん中に、先祖代々使用されてきた座敷台が置いてある。爺ちゃんが物心付いた時には、すでにあったらしい。かなりの年代物だ。
当然のことながら、アメリカ人には、畳の上での休憩とは無理難題と言ったところだが、三人とも脚をそわそわさせながら、良い位置を探っていた。
娘兵士は、日本の生活に慣れているのを見せつけて正座をしたが、苦笑いをして、すぐに足を伸ばした。護衛の兵士は、「ふぅー」と、ため息までついた。
「婆さんや! お茶でもお出ししろ」との声に、奥の部屋から、「誰ぞ来たかね?」と、顔を覗かせた。曲がった背中を一層曲げて、目をまん丸にした。
「何事じゃね!」
異人さんの出現に、怪物を見るような顔をした。
「何ちゅう顔しとるかね、婆さん!」
爺ちゃんは、「失礼じゃろが」と、婆ちゃんの顔を指で差した。
さすがに現実に戻ったようで、「異人さんは、コーヒーがよかじゃろう」と、娘兵士に曲がった腰で、手酌の格好をして見せた。
「それは酒じゃろうが」
爺ちゃんの声を無視して、剽軽さを見せる。年輪を重ねた変わり身の速さは、若いものには真似できない。
「おばあちゃん、失礼してます」
娘兵士は、婆ちゃんに頭を下げ、ウィンクして婆ちゃんの手酌の真似をして見せた。
爺ちゃんは、また、「それは酒じゃろうが」と言ったが、「わかりゃえんじゃ!」と、言い返された。
「カフェー、OK!」と娘兵士が、婆ちゃんを援護した。女同士、通じるものがあるらしい。
「私は、マリーモリソンと言います。父はマッドと申します。こちらは、日本で言う同僚になります、イアンマクレーンです」
護衛役と思われるイアンの、「ハジメマシテ」との言い方にメリハリはなかったが、元気よく爺ちゃんと婆ちゃんに挨拶した。
父親のマッドは、アンティックな座敷テーブルを見つめて、「コノテーブルハ、ネンダイモノデスネ」と、独り言のように呟き、繁々と上から下まで眺めた。
「これは」と、爺ちゃんはテーブルを平手で叩きながら、マッドに、「先祖代々使用している年代もんでな、何百年も前の物だがね」と、金色が入っている歯をニコニコして見せた。
婆さんは、急いでコーヒーを入れたらしく、スプーンを付けてくるのを忘れた。砂糖とミルクは一緒に運んできた。イアンは、これが日本流のコーヒーの飲み方だろうと、首を僅かながら捻り、“どうやって混ぜるのだろう?”と思った。マッドとマリーは、ブラックで飲むので気づかなかったようで、若いイアンはミルクを入れて、マリーに眉間を開いて、人差し指で混ぜる格好を見せた。マリーは、「Oh―」と声を出し、ニコリとはにかんでいるイアンにOKサインを出した。
「お婆ちゃん、スプーンもらえます?」
「ありゃ、そりゃすまんこって。年寄りは抜けとるけねー」
そういう婆ちゃんにマリーは、「私も一緒に」と立ち上がり、婆ちゃんを支えて一緒に台所へ行った。
婆ちゃんは、「お客さんにそんな……」と言いながら、声だけが広い家で響いた。
爺ちゃんは、「相変わらずじゃ」と、ケタケタ笑いながらマッドに手を広げ、戯けて見せた。
マッドは、歴史ありそうな村だと思った。マッドは爺ちゃんに、ここに来た理由を述べだした。
「ワタシタチハ、ナンテ言ッテイイカ、ワカリマセンガ……」
マッドが説明に困っていた時に、娘のマリーが婆ちゃんと戻って来た。
「マリー、俺の日本語じゃ説明しづらい。おまえやってくれ!」
「いいわ。そのために来たんだから」
娘のマリーは、“喜んで”と、婆ちゃんと一緒に座って、和やかに説明しだした。
「私のおじいちゃんのまたおじいちゃん。日本で言う曾祖父から昔話を、私が小さい時に聞いた伝説です。私は、曾孫になる訳ですが、曾祖父はジムモリソンと言います。父も聞かされた話です。ずっと、我が家で聞かされた伝説なのです……。曾祖父は、第二次世界大戦中の終戦間際、この地に新型爆弾、原子爆弾を落とそうとした人物なんですが、爆弾を投下しようとしたら、突然、投下装置に故障を起こし、投下出来なかったそうです。それだけでしたら、偶然の故障で済まされてしまうのですが、それから数日後、この地に投下しようとしたら、またしても故障し、晴れていた空が曇りだし、投下不可能になったとのことです。しかし、これ以上の延期は許されないと、手動で投下するとの指示を受け、手動に切り替えるとエンジンが止まり、急降下したそうです!」
爺ちゃんは、「ほぉー」と唸った。
現実にあり得そうなこの話に、樫山村の伝説を後から聞かせようと思い、思わず唸った。
「それは、かの有名なB―29かいな?」
「そうなんですよ。よくご存じで」
「日本にとって、憎き名前じゃからのぅ」
聞かされたマッドとイアンは、苦笑いを浮かべた。マリーはマッドとイアンに通訳して、爺ちゃんに話を続けた。
「そして、急降下したものだから手動投下を中止したところ、エンジンが起動しだし、また元の位置に上昇したとのことで、機長はもう一度手動投下をやってみようと指示したそうです。すると、すぐにエンジンが停止して急降下しだしたらしく、投下中止を指示すると、エンジンがまた起動したとのことです。機長は、このアンビリーバブルな出来事に、“中止しないと、この機体ごと墜落してしまう!”と判断し、基地に戻り、新潟の樫山村に新型爆弾を投下することを中止したそうです」
「ほぉー」と、爺ちゃんはまた唸った。
「その……、突然の英語がわしには分からんのじゃが……、アー、何とか?」
「はははっ」
マリーは、「つい、英語で言ってしまいました。ごめんなさい」と笑って、婆ちゃんの肩に手を添えて、ごまかした。
「アンビリーバブルですか、失礼しました。“信じがたい出来事”という意味です」
「なるほどな……」
爺ちゃんは分かったという顔で、いっぱい皺を寄せて笑った。
「ところで、それだけでなくて、曾祖父のジムじいちゃんは、アンビリー……、Oh―失礼!」
マリーは気を付けているものの、話の接ぎ穂で英語が出てしまう。
「この不思議な出来事の前に、外を見た時ドキリとしたそうです。可愛らしい顔をした石像を見たとのことで……。まさか、と思って瞬きをして、また外を見た時、青い稲妻が無数見えたそうで、度肝を抜かれたそうです。すると、エンジン停止の連絡があって、爆弾投下は中止とのことで、このことを基地に帰り皆に話したところ、“あの青天で稲妻はないだろう”と、笑われたそうです。しかし、機長のジョンソンがその日、ジムじいちゃんの兵曹の宿舎に突然現れて……。ジムじいちゃんと“シークレット”の話をするために、わざわざ来たそうです」
「ジム、ここだけの話だ。俺も見たんだ、おまえが言う青い稲妻ってやつを」
「えっ! ジョンソン少佐も見たんですか?」
「あぁ、見たよ、目の前に何十もの稲妻が……。ジムよ、実は今回だけじゃないんだよ」
「えっー、どういうことなんですか?」
「最初の時も、装置故障で、新型爆弾を投下できなかったことがあったろう! あの時も、青い稲妻が何十も目の前を走ったんだ。まるで威嚇しているようだった」
「そうなんですか」
「それと、あの場所は軍艦がいる港と、兵器工場があるということで空爆を何回か試してみたが、空爆を始めようとすると稲妻が現れて、エンジンが停止したんだ。同じ現象が起きていたんだよ。その時も俺が機長だった。結局中止だ。ジム、おまえどう思う?」
周りを見渡し小さな声で、ジョンソン少佐は、「聞かれたらまずいことになる」と、前置きした。
「十機いた爆撃機全機、エンジンが停止したんだ。俺があの時、投下中止を指示したろ、なぜか分かるか?」
「まさか、知ってた? ってことですか」
「中止すると、エンジンが復帰するのが分かっていたからだ!」
ジムモリソンは、言葉が出なかった。
〈……、ということは、空軍の上層部はこの奇怪な出来事を知っているのか……〉
ジムの顔を見て、ジョンソンは察知したように言いだした。
「空軍の上層部は、司令長官までこの現象を現実として捉えてるんだ。だから、あの村、樫山村に新型爆弾を投下するのは中止になった」「本当ですか」
ジムは、アメリカ空軍が……と、まさかの対応に驚愕して青ざめた。
「あの時の爆撃機は、四機が砲撃も受けずに墜落した。仕方なく戦闘機で攻撃を試みたが、一発も機関砲を使えなかったそうだ。おかげで戦闘機が五機も墜落した。あの村は恐ろしい魔物が取り憑いている。しかし、公表は出来ない。分かるか! 天下のアメリカ空軍が、魔物を恐れて出撃出来ない! そんなことを公表できるか!? 隠れた軍歴として封印される。世の中、不可思議な出来事があるものだ。五十年、百年先に真相が明らかにされるかもしれん。この戦争が終わって、真実が語られるかもな。この話をしに来た訳は分かるな? 誰かにこの奇怪な出来事を洩らしたら、下手したら、命も危ないってことだ……」
ジムは、身震った。
「そうですか。ふ~ん、なるほどな」
爺ちゃんは何度も首を振った。
「ジムじいちゃんから、アリソンじいちゃん、そして父のマッド、私マリーまで代々話が伝わってきたのです」
マリーは、代々伝わってきた話を、この樫山村の人間に伝えることが出来て、安堵の顔をした。
「そうかね。そりゃこの村に来て、曾孫のあなたが話されたことに、その~、何ちゅうたかな?」
「ジムモリソンです」
マリーは、和やかに答えた。
「すぐ忘れてしまうから!」
婆ちゃんが、「ははは」と、笑い声を出した。
「ジムじいちゃんか……、さぞ喜んでおられるじゃろう。その奇怪な話は本当じゃ」
「えっ、やっぱりそうなんですか‼」
マリーも、父親のマッドも胸が高鳴った。
昔から伝わって来た、作り話のようなこの話は、本当だったのだ。一緒にいたイアンが、爺ちゃんが分からない英語を捲くし立てた。
「ふんふん」と、マッドとマリーは二人してイアンの言うことに頷いた。
「おじいさま、おじいさま!」
「?! そりゃ、わしのことか?」
マリーが突然爺ちゃんに、様付きの尊敬語だ。
「なんじゃな?」
爺ちゃんは、気取って返事をした。
三人はそれぞれ、婆ちゃんが入れたコーヒーを頬張った。喉が渇いていたようだ。
婆ちゃんが、「そうそう、お菓子があるから持ってこよう。よいこらしょ」と、立ち上がった。マリーは婆ちゃんに手を添えて、一緒に立ち上がる加勢をした。
婆ちゃんは、「有り難うよ」と両手を合わせ、マリーを拝んだ。
「Oh―」と、三人は両手を合わせ、ぎこちなく拝み返した。
マリーは、婆ちゃんと一緒に立とうとしたが、「あんたは、爺ちゃんの面白ない話さ聞きしゃんせ」と、マリーの肩を軽く叩いた。
イアンは、婆ちゃんの拝んだ姿を見て感動した。日本の“オジギ”と、両手を広げて見せた。
「ははっ」
爺ちゃんは笑って、口に手をやって入れ歯を歯茎に合わせ直し、仕切り直して三人に喋り始めようとした。
「あぁ、その前に言うことが」
マリーが、ニコリとした。
「なんじゃ」
爺ちゃんは、入れ歯を整えながら目を丸くし答えた。
「イアンは、ジョンソン少佐の曾孫になるのよ」
「ほぉー、あなたたちは素晴らしい家族愛じゃな! 日本人もご先祖様を大事にする民じゃが、アメリカ人も負けちゃおらんの。爺さんたちは、泣いて喜んじょるぞ! なんでそんな民が、戦争なんてのをするかのぅ!」
マリーは眼頭が熱くなった。マッドもイアンも、マリーから通訳を受けてニコリと返した。
「それで、その奇怪な物語は、すぐそこにあるお地蔵さまのことじゃ。もう何百年も続いているお話じゃ」
マリーも父親のマッドも、イアンも、爺ちゃんの顔を見て、一斉に顔を見合わせた。代々の昔話とは言え、伝説としてモリソン家、ジョンソン少佐の家系に受け継がれたのだ。
マッドは若い頃、アメリカ空軍情報部に所属していた時に、第二次世界大戦中の出来事について、暇があれば調べてみた。閉じ込められていた資料を目にした。
“日本上空での怪現象”のタイトルだった。中身を恐る恐る見た。結構な緊張で、資料を捲った。
“新潟上空で爆撃機制御不能”の見出しで、殴り書きされていた。マッドは、これだと直感した。
『1945・8・2出撃、新型爆弾投下予定。現地にて投下不能。回避、原因不明。上空に突如青い稲妻発生、過去にも爆撃を試みたが、突然の青い稲妻にてエンジン不能となり、爆撃不可。原因究明すれど解明できず、謎?』と、書かれ、『犠牲者多数、司令長官より樫山村爆撃一切中止命令!』で、書き終えてあった。
マッドは、曾祖父の話は事実だったと確信した。周辺の港や村の外れには、日本軍の隠れ軍事工場があったと記されている。そんな重要拠点がありながら、司令長官が中止の命を出した。信じがたい話だが、事実、記されているのだ。いろんな機密文書があり、未確認飛行物体との遭遇も記載されていたが、この樫山村の上空で起きた出来事はリアルで、パイロットたちの証言を覆せるものはなかった。未だに解明されず、封印されたままだ。マッドはその時に、樫山村を訪れ事実を解明すると、ジムじいちゃんに誓った。
爺ちゃんは淡々と喋りだした。昔々、笠地蔵の話から、大地震が起き、家が崩れたこと。壊れた地蔵さまを直して、地蔵さまのお祭りをしたこと。すると、次の日には家が元通りなっていたこと。津波も、この村だけは襲われなかったこと。そう話を続けていると、賑やかな声が聞こえた。
「爺ちゃん! とんでもなく格好ええ車があるやんけ!」
興奮して恭介が飛び込んで来た。
爺ちゃんは話の途中だったが、「おぉ恭介か、帰って来たか。孫の恭介じゃ」と、紹介した。
家に入って来た恭介は、騒いで入ってきたが立ち止まった。初めて見る三人のアメリカ人、それも軍服姿だ。
「こんにちは、恭介くん」
マリーが恭介を見て、微笑んで挨拶した。
「あっ……、こんにちは」
恭介はカチカチに固まった。その姿が、とても可愛らしく見えて、マッドたちは優しく微笑んで見せた。
「恭介よ、ここにおる異人さんたちは、地蔵さまのことを調べにいらっしゃったそうじゃ。今、恭介にいつも聞かせる昔話をしてたところじゃ」
「恭坊、そんなとこ突っ立っとらんで、はよ上がらんか。ジュース持ってきちゃるけ」
婆ちゃんも、恭介の姿に微笑んだ。
「あっ、はい!」
恭介は、カチカチになって爺ちゃんの傍に座り込んだ。
「可愛いわね」
マリーは、ずっと恭介を見つめた。
「恭介くんは、地蔵さんの昔話をよく聞くの?」
マリーの問いかけに、恭介はただ頷くだけだ。
「どうじゃ恭介、異人さんは?」
爺ちゃんは、恭介の頭を撫でた。
「格好ええで!」
「はははっ」
爺ちゃんは痰を詰まらせ、ゲボゲボっと咳き込んだ。
「ねぇ恭介くん、地蔵さまのこと、いろいろ教えてね」
恭介は、大きく頷いた。
「土曜日にいつも地蔵さまのとこに行って、綺麗にするんじゃ」
「そうなの、感心ね」
「爺ちゃんとね」
マリーは、恭介と爺ちゃんをうまく手懐けながら、伝説を聞き出しているようだ。
「お孫さんは、爺ちゃん孝行ね」
「恭介は、一緒に寝ながら昔話を聞くのが楽しいらしい。はははっ」
爺ちゃんは、一区切りする度に笑い声を立てた。
「こいつは、わしの話を聞きながら寝てしまって、その時代の夢の中でタイムスリッパーするそうじゃ」
「爺ちゃん、タイムスリッポンでしょうが」
恭介にジュースを持ってきた婆ちゃんと、いつもこのパターンで言いあいこだ。
「タイムスリップだよ!」
「夢の中でタイムスリップ?」
マリーは、「どういうこと?」と、楽しそうに聞き返した。
「わしが昔話をしだすと、そのまま寝てしまい、話の中に入り込んでしまうんじゃ。その時代の子供になって、真実を見てきて、朝目覚めてな、わしたちに現実はどうやったか話してくれるんじゃよ。はははっ」と、口の中に唾液をいっぱい溜めて笑った。
「この前は戦国時代に行ってな、この村の殿様の最期を見届けてきたんじゃ」
マッドは、「サムライ」と、刀を抜き鞘に納める仕草をして見せ、サムライ時代の背景を浮かべた。
「恭介くんは、不思議な能力の持ち主なのね」
「不思議な能力か分んないけど……」
“綺麗なお姉さん”マリーに、照れて見せた。
「それで、その殿様はどこで亡くなったの?」
マリーは、日本の昔話にはとても興味深いものを持っていた。アメリカと違って、とても新鮮な物を感じるのだ。
「すぐそこのお地蔵さまの傍だよ」
マッドはそれを聞き、手を叩いて人差し指を出し、恭介たちに向かって早口の英語で述べだした。
「ジムじいちゃんは、B―29の中に乗っている時、青い稲妻が発生したと同時に、窓に石像の顔を見た、と言っていた」と、消えていた記憶を蘇らせた。
「パパ、そのこと、私も聞いたような気がする。幼い時だったから、はっきりしないけど……、でも、確かにジムじいちゃんが言った。間違いないわ」
マリーは、記憶はあやふやだったが、聞いたと自分に言い聞かせた。
「なんか凄く現実味が出てきて、ワクワクするわね」
恭介はじれったく話を進めた。
「たくさんの兵隊が来て、切腹した殿様の首を切ろうとしたら、青い稲妻が全部の兵隊に降り注いで、首を取れなかったんだ。その時の上杉軍の大将が、黒岩藤兵衛という強将だったんだけど、爺様に亡骸を葬ってくれと頼み込んで、二度とこの村には攻め込むことはなかったんだ!」
「ふ~ん」
マリーも、恭介の話を聞きながら中身が濃くなってきて、イアンとマッドに通訳するのが忙しくなってきた。
マッドもイアンも立派な大人だ。戦争が始まれば、現実に立ち向かわなければならない。しかし、ジムじいちゃんの伝説と恭介の話が、実に繋がりのあるのに感じさせられざるを得なかった。
〈この子は本当に夢の中で、タイムスリップしたのでは!〉と、本気で考え出した。
マッドは思った。
〈何でもないこの長閑な村に、なにか人間の世界では覚束ない凄い力が眠っているのかもしれない!〉
今でもバミューダ海域で、不思議なパワーがあると言われているが、あれは、自然な現象が重なり合っているもの、とマッドは確信している。しかし、ここは違う。ジムじいちゃんは、現実を見てきた。何よりも、あの機密文書が真実を物語っている。UFOの極秘資料もあったが、なんせ、リアル性に欠けていた。これほどまでの真実な出来事ではないのだ。確信は今、またこの村に来て上昇してきた。
爺ちゃんは、黒岩藤兵衛の名前を、しゃあしゃと言う恭介に驚いた顔をした。
「恭介、藤兵衛が出てきたか! 藤兵衛は、上杉軍の最高の軍勢を率いていたと言われておるが、上杉の歴史の本に最強の武将と出るほかは、なぜか語られることはない、幻の武将と呼ばれているんじゃ」
「でも、これ以上月日の國を攻め込むと、黒岩軍は全滅してしまう! と、謙信に言った人物なんだ。それで、謙信を連れて、この樫山村が見える、当時は月日の國だけど、田倉の丘に登り、謙信は恐れ戦いたんだ」
マリーは忙しく通訳した。マッドとイアンは、半信半疑の、子供の言うことと高を括っていたが、恭介のタイムスリップに、真剣な顔へと変化していた。イアンは、眉間に皺を寄せ恭介に聞いてみた。
「僕よ、何を見てその武将たちは恐れ戦いたのかな?」
マリーも、真剣な眼差しで恭介に言った。
「この樫山村じゃなくて、月日の國だけに青い稲妻が無数に降り注いでいたんだ」
爺ちゃんは改めて驚いた。
「なんて! この子はほんまにタイムスリッパーしとる!」
「爺ちゃん、タイムスリップだよ」
恭介は呆れ口を開いた。
マリーたちは、なんて長閑な風景なの、と爺ちゃんと恭介を見た。
「おまえさんたち、伝説の地蔵さまと、恭介が夢で見た殿様の墓を見てみるかね」
「ええ」
マリーは、今にも立ち上がりそうになった。落ち着いていたマッドも、テーブルに手をつき、「ぜひ!」と言った。イアンも胸を抑えた。
「それじゃ、行ってみようかのぅ。よいこらしょ!」と、爺ちゃんは立ち上がり、「恭介、異人さんたちを案内してあげんしゃい」と、恭介に手を指した。
「行こう、行こう!」
恭介は急いで靴を履いた。引き戸を開け、マリーたちを手招きで急かした。
マリーたちは、婆ちゃんに、「ごちそうさま」と、堅いお辞儀をした。
「そう急がないで!」
恭介は、坂になっている畑道を走って登った。マッドとイアンは恭介を追いかけ、「ヤング!」と笑った。
小高い畑道の中腹に、七体の地蔵さまが見えた。マリーたちは恭介に連れられ、伝説の地蔵さまたちの目の前に来た。
三人は、「セブン!」と声を出した。
「これが、アメリカ軍を寄せ付けなかった石像か‼」
マッドは、「ジムじいちゃんが見た石像はこれか?」と、独り言を呟いた。
日本人には、ごく普通で見慣れた光景だが、マリーたちから見ると、ジムじいちゃんの伝説も手伝って、とても神秘的に見えた。
恭介は、マリーたちに紹介するような口調で言った。
「こちらが伝説の、この村の守り地蔵さまです」
そう言って恭介は手を合わせ、地蔵さまを拝んだ。マリーたち三人は恭介の拝む姿を見つめ、拝み合った後に語りかけた。
「いつもこうやって、手を合わせてお祈りするの?」
マリーは、感心するような口ぶりで言った。
「いつもこうやって拝んでいるよ」と言いつつ、ベロをぺコンと恭介は出した。
「それは大嘘で、学校行く時は道から、ただいまーって手を振るだけさ。拝むのは、だいたい爺ちゃんと一緒に、地蔵さまを掃除する前と後くらいだ」
そう話しているうちに、漸く爺ちゃんが現れた。
「あんたらの奇怪な出来事……、おっと、なんだ、そのジーンだったかのぅ?」
「もう少しで正解です。ジムじいちゃんよ」
マリーは爺ちゃんの顔をにこやかに見つめ、人差し指を立ててウインクした。
「ははは、こりゃええわ!」
爺ちゃんは戯けて見せた。
「その上に墓があるじゃろう。それが恭介が夢で見つけた、上杉宗彦さまの墓じゃ」
「今まで発見されなかったのですか?」
マッドは、この世には著名人の亡骸がどこに眠っているのか、ハッキリしないとされることが多いと考えた。
〈彼もその一人か!〉
そう思った。
「それで、その方の首を刎ねようとした時、地蔵さまが怒って、稲妻がその兵士たちを成敗した。と、言うことですか」
若いイアンは歴史に興味を持っており、深く知ろうとした。
「その宗彦という方は、どこで自害したのですか?」
マリーを通じて聞いてきた。
「そこだよ!」
恭介が、右端の地蔵さまの横を指差した。短い草が生えている、よく見る畑道の傍にある草むらだが、そこを見た時、三人の米軍兵は身が引き締まった。
恭介と爺ちゃんは、彼らアメリカ人の行為に驚いた。一斉に自害した場所に向かって、敬礼したのだ。爽やかな風が頬を掠めた。
「格好えー」
恭介は見とれて呟いた。
「あんたら、きっとええことあるっちゃ。宗彦殿も、何百年も経って異人さんに敬服されるとは、夢にも想わんじゃったろう」
マリーは、「同じ兵士ですから」と、言い放った。
「ジムじいちゃんの代わりに、お地蔵さんをオガマセテクダサイ」
マッドが、手を合わせる格好を見せた。イアンも親指を立てた。
「恭介くん、拝み方をオシエテ!」と、恭介に礼をした。
恭介は、「オッケー」と言って、親指と人差し指で丸印を作って見せた。
「ははは」
爺ちゃんは、「恭介も英語が上手じゃ」と、恭介の頭を撫でた。
「それじゃ、両手を合わせて」と、顔の前に両手を合わせた。
「そして、目を瞑って、お地蔵さまの顔を頭に浮かべ、いつも守ってくれて有難うございます、と言います。これからもよろしくね。そう願うんだ」
マリーたちも同じように拝んだ。
「そして、気をつけして一礼する」
マリーたちも習って、慣れない礼をした。
「これでお地蔵さまは、お姉さんたちを守ってくれるよ」
恭介は、誇らしげに手を腰に当て胸を張った。
「それじゃ恭介くん、戦国の武将謙信が、この村、当時、月日の國だったね? 一望できる丘に連れてってくれるかな」
マリーは、マッドが言ったことを恭介に伝えた。
「いいよ。あそこは複雑だから、車で行かないと……」
恭介は、この村にはそぐわないマリーたちが乗ってきたハマーを指差した。
爺ちゃんは、「わしは、よう登れん!」と、手のひらを振った。
「恭介よ、案内しちゃれ」
「分かった!」
「それじゃ、車に乗って案内してくれる?」
マリーは、ハマーを親指で差した。
恭介は元気よく答えた。
「あの夢のような車に乗れる! イェー」と、飛び上がった。
「なんて広い車なんや。家じゃ軽自動車だし、爺ちゃんと乗る時は、お決まりの軽トラックだ。すごいな! 戦車や!」
恭介は、道が悪い道路を駆け上がるジープに揺られながら、意気揚々としていた。ハマーを運転しているイアンは、ビートルズの曲を口ずさみ、ハイテンションだったが、急停車した。
「これ以上は登れない」
マリーに言った。
道は途切れ、丘が立ち並ぶ。四人は車から降りた。
「このてっぺんに登ったら田倉の丘で、そこで、謙信と藤兵衛が月日の國を見て、震えあがったんだ。僕が見たから間違いないよ!」
恭介は、自信たっぷりに答えた。
マッドたちは、にこやかに微笑んだ。
ジムじいちゃんの出来事や、纏わる伝説は偽りではないだろう。そうは言っても、子供が見た夢は現実ではない。科学的根拠として言わせてもらうと、“夢による思い込み”だと結論づけるだろう。しかしマッドは、とても神秘的なものを感じ、その丘に魂を吸い込まれて行くような“動き”を受けた。
数百年も前の出来事、伝説の場所、“ゴルゴダの丘”に、一度は訪れてみたいという人は山といるだろう。聖地と言われるところには、時空を超える物語がそこにある。人として、神秘的な感覚を受けるが、想像としてしかない。マッドたちは、その想像を体験したかった。
丘の頂上まで登って、登って、一時間かかった。
「そこだよ。そこに登ると樫山村、いや、月日の國が一望できるよ。もうちょっとだ!」
恭介は元気がいい。目の前には、今までで一番どでかい岩があった。
「ふぅー」
皆ため息をついた。
「まるでアフガンね」
マリーは一度だけ、兵士としてアフガニスタンに出兵した。その時の岩肌を思い出した。
斜めに進み、さらに反対側へ斜めに登り頂上が見えた。マッドは登りつめた。高鳴る心臓の鼓動と、まったく違う鼓動を感じた。イアンとマリーは、持っているハンカチで汗を拭った。空は雲一つない青空だ。マリーは、きっと眺めは最高の輝きだろう、と想像した。
「先に登るよ!」
恭介は早く見たかった。一度だけ、友だちの大樹たちと数人で、テレビで見たスタンドバイミーの映画に憧れて、“秘境の地”田倉の丘を訪れた。帰宅せずの行方不明として、警察、村の消防団などが出動し、大捜索となったことがある。その時、この田倉の丘から見た月日の國の眺めは、宇宙から地球を見るような、広大な青い海が広がり、あまりの美しさと静けさに時を忘れ、夜になるまで眺めた。
“掴めそうな星”
別世界に入り込んだ恭介たちは、朝をそのまま迎えたのだった。恭介はとにかく、もう一度見たかった。急いで丘を登った。
「そんなに急いだら滑り落ちるわ!」
「大丈夫だよ!」
マリーたちは、恭介が余りにも急ぐので心配だった。
「登ったー‼」
恭介の、感極まった声が聞こえた。
〈着いたみたいだな〉
マッドとイアンが、岩の窪みに足を当て、手を当て、マリーはその後に続き登る。
「恭介くん!」
マリーは頂上に着いて恭介を呼んだ。返事が返ってこない。もう少しで最頂上だ。
マッドは、「油断するな! 滑り落ちるぞ」と、娘のマリーを振り返って見た。
「パパ、恭介くん見える? 返事がないわ」
「もうすぐで見える!」
恭介の頭が見えてきた。
「いたぞ! キョウスケ!」
前を向いたまま返事がない。
「キョウスケ!」
もう一度呼んだ。恭介の上半身が見えた。返事をしない恭介が心配になり、急いで登ろうとした時、右足を滑らせ膝を打った。
「うっ! 痛いっ‼」
「大丈夫ですか!」
イアンが気遣った。
岩はコンクリートのように硬い。痛さがイアンとマリーにも伝わってきた。
マッドは痛さを堪え、恭介を見た。手を挙げ、前を指差していた。
「キョウスケ、どうした!」
マッドは、最頂上に、膝の痛さを堪えて登りつめた。青白い光が見えた。恭介は、ゆっくりマッドの方に振り向いた。驚きの余り口が塞がらないまま、マッドを見た。
マッドは、恭介の指差した方をゆっくりと見た。膝の痛さを忘れて跪いた。
“アッ、アッ!”
言葉は出ない。後からイアンとマリーも登りつめた。
「アっ―!」
イアンは、足が震えだした。
マリーは青白い光を受け、力が抜けたように座り込んだ。マッドも、恭介のように腕を挙げ、月日の國を指差した。
青天! 雲一つないこの空! 樫山村、“月日の國”の上空から、無数の青白い稲妻が降り注いでいた。怖さはない! とても綺麗な青白い光が……。
「なんて美しい!」
マッド親子も、イアンも思いは一緒だった。
「ジムじいちゃん! あなたの伝説は、事実だった! 私たちがしっかりと確認したよ」
マッド親子は、心で稲妻に向かって呟いた。
「あれは、お地蔵さまが喜んでるんだ!」
恭介は、腰に手をやって、青白い光を受けながらマリーたちに微笑んだ。
完