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第1話 Linkcityの世界
午前七時五十八分。
立花湊は、目覚まし時計ではなく机の振動で目を覚ました。
枕元ではない。
ベッドから二歩離れた机の上で、携帯端末が小刻みに震えている。
湊は布団から腕だけを伸ばした。
届かない。
もう一度伸ばす。
やはり届かない。
「昨日、机に置いたんだった……」
仕方なく起き上がった。
灰色の部屋着の裾を整えながら、机まで歩く。
画面には朝の情報がまとめて表示されていた。
午前七時五十八分。
室温、二十五度。
外気温、三十四度。
午前十時以降、気温上昇。
午後から局地的な豪雨の可能性あり。
その下には、今日の予定。
午前九時、出勤。
午後十二時、昼休憩。
午後三時、社内打ち合わせ。
午後六時、退勤。
予定だけを見るなら、ごく普通の会社員だった。
ただし、湊が玄関から出る予定は一つもない。
端末を机へ戻す。
カーテンを少し開けると、現実の街が見えた。
道路を走る車は少ない。
歩道にもほとんど人はいない。
その代わり、小型の配送ロボットが一台、歩道の端をゆっくり進んでいた。
上部には配送会社の表示。
側面には小さく、AI自律配送中、と出ている。
湊は一瞬だけそれを眺めた。
まだ朝なのに、外はすでに暑そうだった。
すぐにカーテンを戻す。
冷蔵庫から飲み物を取り出す。
朝食は昨日買っておいたパン。
それを食べながら、机を見る。
幅の広い机。
中央にキーボード。
右側にマウス。
その隣にコントローラー。
奥にはスマホより一回り大きいLinkcity対応端末が置かれている。
キーボードは去年買い替えた。
指を置くとわずかに沈み、強く押し込まなくても文字が入力される。
長時間使うことを前提に作られたものだ。
コントローラーも同じだった。
握る部分が手の形に沿っていて、何時間持っていても疲れにくい。
机そのものも高さを細かく変えられる。
椅子もそうだ。
湊がこの部屋へ引っ越したとき、不動産会社の担当者が最初に説明したのは部屋の広さではなかった。
通信安定度。
防音性能。
停電時の予備電力。
机を置ける幅。
そしてLinkcity適性。
この部屋は、五段階評価で四・八。
かなり高い。
湊は最後のパンを口へ放り込むと、時計を見た。
八時四十二分。
「そろそろ行くか」
行く。
そう言っても、玄関には向かわない。
洗面所で顔を洗い、髪を軽く整える。
服は着替えない。
現実の湊は、そのまま灰色の部屋着だった。
椅子へ座る。
端末を起動する。
画面中央に見慣れた文字が浮かんだ。
Linkcity
その下に、自分のアバター。
短く整えた淡い茶色の髪。
黄緑のシャツ。
灰色のジャケット。
茶色のパンツ。
現実の湊より少しだけ背が高い。
顔立ちは本人を元にしているが、目元や輪郭は少し整えてある。
「接続」
指で触れる。
部屋の景色が切り替わった。
最初に聞こえたのは、人の声だった。
その次に音楽。
さらに遠くから、何かのイベントを知らせる電子音。
視界が安定する。
湊の目の前には、巨大な街が広がっていた。
Linkcity。
建物が何十棟も並び、その間を数え切れないほどのアバターが歩いている。
人間型だけではない。
小さな鳥の姿で飛んでいる者。
四足で走っている者。
機械のような身体を使っている者。
人間の何倍もの身長がある者。
それでも誰も驚かない。
ここでは、それが普通だった。
湊はコントローラーを握った。
親指を少し倒す。
アバターが歩き出す。
現実の湊は椅子に座ったまま。
Linkcityの湊だけが、広い通りを歩いていく。
正面から巨大な熊のアバターが歩いてきた。
すれ違う直前、熊が軽く手を上げる。
湊も手を上げた。
現実の腕を少し持ち上げると、カメラが動きを読み取り、アバターの腕にも反映された。
熊が通り過ぎる。
湊は歩きながら視線を動かした。
右には巨大なショッピング施設。
左には企業街。
少し先にはゲームスポットへ移動する入口。
頭上には現在人気のワールドが立体表示されている。
第一位。
一日だけ巨大生物になる街。
第二位。
百万階建てタワー。
第三位。
世界の朝食博物館。
更新されるたび、順位が入れ替わる。
湊は第一位を二度見した。
「また変なの流行ってるな」
昨日の第一位は、家具だけで作られた迷路だった。
その前は、雨が下から上へ降る街。
Linkcityでは毎日のように新しい場所が生まれる。
だから全部を見ることなどできない。
湊は視界の端に小さな検索欄を出した。
会社名を入力する。
キーボードを三回ほど叩いたところで、予測候補が出た。
会社を選択。
目の前に小さな入口が現れる。
現実の街なら、会社まで電車に乗らなければならない。
Linkcityでは一歩だった。
湊が入口を通る。
景色が変わる。
静かなオフィス。
床には落ち着いた茶色の模様があり、壁際には植物が並んでいる。
大きな窓の向こうには、会社が設定した架空の街並みが広がっていた。
もちろん、本物の窓ではない。
外に見えている街も存在しない。
それでも社員には人気だった。
「おはよう」
声に振り返る。
新堂理央が立っていた。
短い灰色の髪。
モカ色のシャツ。
グレーのパンツ。
現実の姿とLinkcityの姿をほとんど変えない珍しいタイプだ。
「おはよう。早いね」
「今、八時五十六分」
「十分前なら早い」
「四分前だよ」
湊が視界の時計を見る。
八時五十六分。
「ほんとだ」
「現実なら遅刻しかけてる時間だな」
「ここなら間に合う」
二人で笑いながら仕事スペースへ入った。
それぞれの席へ座る。
Linkcity上では机も椅子も存在する。
しかし現実の湊も椅子に座っている。
仮想の机の位置と、現実の机の位置はほぼ一致していた。
湊が手を伸ばす。
アバターの手が机へ置かれる。
同時に現実の指先がキーボードへ触れる。
画面が開く。
昨日作っていた資料。
文章。
表。
画像。
データ。
湊はキーボードを打ち始めた。
仮想現実が普及しても、キーボードは消えなかった。
音声入力もある。
生成AIもある。
短い指示なら声だけで済む。
しかし資料の細かな修正や、表の数値を直したり、長い文章を整えたりするときは、湊にはキーボードの方が速かった。
数行入力する。
生成AIが続きの候補を出す。
採用。
二行削る。
自分で書き直す。
また候補。
今度は却下。
「そこ違うんだよな」
小さくつぶやく。
隣から理央の声が飛んできた。
「またAIと喧嘩してる?」
「喧嘩じゃない。修正してる」
「毎朝やってない?」
「向こうが毎朝ちょっと違う文章を出してくるから」
「それを喧嘩って言うんじゃない?」
湊は返事をせず、キーボードを叩いた。
午前十一時四十七分。
仕事画面の隅に小さな通知が出た。
長時間の入力が続いています。
手首と指を休めることをおすすめします。
湊は両手をキーボードから離した。
指を開く。
握る。
もう一度開く。
隣を見ると、理央も同じことをしていた。
「そっちも出た?」
「出た」
「昼、どうする?」
「まだ決めてない」
「俺、昨日からカレー食べたい」
「昨日食べればよかったじゃん」
「昨日は麺だった」
「じゃあ今日食べれば」
「一人で食べるの寂しい」
「Linkcityで言う台詞じゃないだろ」
周囲には何百人もの社員アバターがいる。
理央は笑った。
十二時。
勤務表示が休憩へ切り替わる。
湊は仕事画面を閉じた。
「じゃあ、行く?」
「カレー?」
「カレー」
二人がオフィスの出口へ向かおうとしたところで、湊の視界に通知が入った。
宮原結衣からだった。
昼食まだ?
湊は指を止めた。
「結衣から」
「呼べば?」
「カレーだけど」
「世界にカレー嫌いしかいないと思ってる?」
湊は返信した。
カレー行くけど来る?
数秒。
行く。
さらに数秒。
店どこ?
理央が横から覗く。
「中央フード街でいいんじゃない?」
「混んでない?」
「仮想店舗で満席ってある?」
「人気店は入場制限ある」
「ああ、そうだった」
湊は検索を開いた。
カレー。
検索結果が一気に並ぶ。
近い。
人気。
配送が速い。
現実店舗あり。
仮想専門。
辛さ。
価格。
現在の配送予測。
条件を指定すると、候補が十店舗まで減った。
その中から、配送予測十八分の店を選ぶ。
「ここ」
「いいね」
二人は転送ポイントへ入った。
一瞬だけ視界がぼやける。
次の瞬間、にぎやかな通りへ出た。
中央フード街。
左右に飲食店が延々と並んでいる。
現実の店舗を再現した店。
Linkcityにしか存在しない店。
世界中の料理を一店舗へ集めた店。
利用者のアバターが行き交っている。
そこへ、上から誰かが降りてきた。
紫色の長い髪。
黄色の上着。
グレーのスカート。
宮原結衣だった。
着地した結衣が手を振る。
「お待たせ」
「飛んできたの?」
「うん」
「普通に転送すればいいのに」
「こっちの方が楽しいじゃん」
結衣はプロフィールの横に三つの小さな印を表示していた。
旅行。
探索。
交流。
お気に入りの勲章だった。
「また増えた?」
「昨日一個取った」
「何?」
「小規模ワールド百か所訪問」
「よくそんなに行くな」
「おすすめだけ見てたら似た場所ばっかり出てくるから、自分で探す方が楽しいよ」
結衣が胸元の勲章を指で弾く。
小さな光の演出が出て、すぐ消えた。
「それでカレーどこ?」
「こっち」
三人で店へ入る。
店内には木目調のテーブルが並んでいた。
壁の向こうでは架空の厨房が動いている。
香りまでは本物ではない。
それでも、店内の雰囲気は現実の飲食店にかなり近い。
三人が席へ座る。
メニューがテーブルから立ち上がった。
カレーの画像。
価格。
辛さ。
配送予定時間。
結衣が画面を覗き込む。
「現実側、今どこから届くんだろ」
「一番近い提携調理所じゃない?」
「私は北配送センターって出てる」
「俺は中央二」
「住んでる場所違うからね」
同じ仮想店舗に座っている。
しかし現実では三人とも別の場所にいる。
料理も、それぞれ別の調理施設から届く。
それでもLinkcityでは、三人で同じ店に来たことになる。
湊はカレーを選択した。
辛さ、普通。
量、普通。
現実配送。
決済方法を確認。
注文。
テーブルの上に十八分の表示が出た。
理央も注文。
結衣はカレーではなく別の料理を選んだ。
「カレーじゃないじゃん」
「誰がカレー食べるって言った?」
「カレー行くって聞いて来たよね」
「店に来るとは言った」
「強い」
三人の注文が確定する。
現実側では、すでに調理が始まっている。
配送予定。
十七分。
十六分。
時間が減っていく。
その間、三人はLinkcityの店で話を続けた。
結衣が昨日見つけたワールドの話。
理央が新しいゲームの話。
湊が朝見た人気ランキングの話。
「巨大生物になる街、行った?」
「まだ」
「昨日行ったよ」
「どうだった?」
「三十分くらいで飽きた」
「早いな」
「でも最初の五分はすごく楽しい」
「それレビューに書いたら?」
「書いた」
「なんて?」
「最初の五分がすごく楽しい」
「そのまんまじゃん」
テーブルの上に通知が出る。
料理を配送中。
湊は現実側の配送画面を小さく開いた。
小型の配送ロボットが道路を進んでいる。
表示。
AI自律配送中。
経路。
順調。
外気温。
三十八度。
湊が地図を見る。
「今日暑いな」
「外?」
「三十八度」
「まだ昼なのに?」
「午後から雨も来るらしい」
「じゃあ今日は出ない」
結衣が迷いなく言った。
理央も頷く。
「俺も」
「俺も出る予定ない」
それで話は終わった。
危険なら出ない。
必要なことはLinkcityで済ませる。
配送ロボットは交差点を一つ曲がった。
残り八分。
湊は画面を閉じようとした。
その瞬間。
表示が変わる。
AI自律配送を一時停止しました。
「ん?」
湊が画面を戻す。
配送ロボット。
停止。
原因。
臨時通路を確認。
安全な経路を判定できません。
Linkcity配送オペレーターへ支援を要請しています。
結衣が身を乗り出す。
「人に変わった」
「まだ待機中」
理央も見る。
数秒。
表示。
遠隔操作開始。
担当オペレーター接続。
「こういうの久しぶりに見た」
湊が言う。
結衣が首を傾げる。
「何が?」
「途中で人に切り替わるやつ」
「私、この前あったよ。工事してて」
理央が説明を見る。
「今日、道路工事多いんじゃない?」
「AIだけじゃ行けないの?」
結衣が聞く。
「無理に行かせないんだろ」
現実側。
湊の料理を積んだ配送ロボット。
その数キロ離れたところ。
鳥越紗季の視界に支援要請が届いていた。
配送管制ワールド。
何十万台もの配送機が地図上を動いている。
紗季の前へ一件だけ大きく表示される。
配送機。
DR-207841。
目的地まで。
一・八キロ。
理由。
臨時通路。
紗季が操作を引き継ぐ。
視界。
現実の道路。
工事用の柵。
歩道。
仮設された細い通路。
AIは。
通常歩道。
仮設路。
どちらも安全判定を確定できず止まっていた。
紗季は通路幅を見る。
機体より十分広い。
段差。
五センチ。
通過可能。
ただし。
途中に工事用の小さな板が少しはみ出している。
「これか」
コントローラー。
少し左。
前進。
配送ロボットがゆっくり動く。
速度。
時速一キロ。
板を避ける。
段差。
上る。
三メートル。
五メートル。
仮設路を抜けた。
通常歩道。
AI走行可能。
紗季は操作権を返す。
AI自律配送へ復帰。
担当時間。
四十八秒。
すぐに次の支援要請。
別の配送機。
紗季の画面は別の現場へ切り替わった。
湊の配送画面。
表示。
AI自律配送を再開しました。
到着予定。
三分遅延。
「もう戻った」
結衣が言った。
「人がずっと配達してるわけじゃないんだ」
湊が言う。
理央が頷く。
「AIが困ったところだけ人がやる。抜けたらまたAI」
「その人、今度は別のロボット操作してるのかな」
「たぶん」
「忙しそう」
「こういう日は注文多いしね」
湊は配送履歴を開いた。
AI自律配送。
十一分。
人間遠隔支援。
四十八秒。
AI自律配送。
継続中。
大半はAI。
ほんの一部だけ人。
でも。
その四十八秒がなければ。
ロボットはそこで止まったままだった。
「配達員っていうより、困ったところ専門だな」
湊が言う。
「配送オペレーターってそういう仕事なんでしょ」
理央が返す。
「現実には出ない?」
結衣が聞く。
「Linkcityの管制から操作する」
「じゃあ、その人も今どこかの部屋にいるんだ」
「俺たちと同じ」
結衣は少し笑う。
「こっちは昼ご飯待ってて、向こうはそれを動かしてる」
「変な感じ」
「でも届けば助かる」
配送到着まで二分。
湊は接続状態を維持したまま、現実側の映像を表示した。
自分の部屋。
玄関前の受け取りボックス。
到着通知。
湊は椅子から立った。
Linkcityのアバターも立ち上がる。
「取ってくる」
「私もあと一分」
「俺、三分」
湊は一時現実表示へ切り替えた。
街もレストランも消える。
目の前には、自分の小さな部屋。
机。
キーボード。
コントローラー。
椅子。
玄関へ向かう。
受け取りボックスを開けると、温かい容器が入っていた。
カレー。
箱の端末には配送履歴の小さな印。
AI配送。
遠隔支援一回。
AI配送。
完了。
湊は少しだけそれを見る。
さっき。
誰かが。
この料理を積んだロボットを数十秒だけ動かした。
その人の顔も知らない。
現実でどこにいるかも知らない。
それでも。
料理は届いた。
部屋へ戻る。
机の横にある小さな食事台へ置く。
再接続。
レストランが戻ってくる。
結衣はすでに料理を持っていた。
理央だけが待っている。
「なんで俺が最後なんだよ」
「日頃の行い」
「AI配送に日頃の行い評価されてたら嫌だな」
「理央のも遠隔操作になったらもっと遅くなるかも」
「それは仕方ないだろ」
「急に優しい」
「安全優先だよ」
数十秒後。
理央も立ち上がった。
三人分が揃う。
現実では別々の部屋。
Linkcityでは同じテーブル。
湊がカレーを一口食べる。
舌に辛さが広がった。
同時にLinkcityでは、アバターがスプーンを口へ運ぶ。
完全に一致しているわけではない。
現実の身体と仮想の身体。
二つの動作が少しだけずれる。
それでも、三人で食事をしている感覚はあった。
「うまい」
「こっちも」
「カレーにすればよかったかな」
「今さら?」
結衣が自分の料理を見下ろした。
「次はカレーにする」
「明日?」
「明日は寿司」
「決まってるんだ」
「予定は大事」
湊は笑いながら、もう一口食べた。
窓の外では、現実の街が暑さの中にある。
ここでは穏やかな照明が店内を照らしている。
昼休みが終わる。
三人は店の前で別れた。
「またね」
「うん」
「午後も仕事か」
「仕事だね」
結衣はまた飛んでいった。
湊と理央は会社へ戻る。
転送。
一歩。
オフィス。
午後の仕事が始まった。
午後三時。
会議。
午後四時。
資料修正。
午後五時二十分。
現実の窓を叩く雨音が聞こえ始めた。
最初は小さかった。
数分後には、机の上からでも分かるほど激しくなった。
湊はLinkcityの窓越しに架空の穏やかな街を見ながら、現実側の天気を開いた。
豪雨。
道路の一部で冠水。
不要な外出を控えるよう通知。
さらに。
配送情報。
一部地域。
AI配送速度低下。
遠隔操作支援を増員。
「配送も大変そう」
湊が言った。
理央も表示を見たらしい。
「雨だとAIが止まる場所増えるんじゃない?」
「昼のオペレーター、今もっと忙しいかも」
「同じ人かは分からないけどね」
湊は現実側の街を小さな画面で見る。
雨。
配送ロボット。
一台。
水の浅い場所で止まっている。
表示。
経路再確認中。
数秒。
遠隔操作中。
ロボットがゆっくり向きを変える。
水の少ない道へ。
進む。
そこを抜ける。
表示。
AI自律配送。
「また戻った」
「こういう使い方なんだな」
「何が?」
「人」
湊は資料画面へ戻る。
AIだけでは。
止まる。
人だけなら。
一台ずつ最初から最後まで運ばなければならない。
だから。
大半をAI。
分からないところだけ人。
その人も。
現場に立っているわけではない。
Linkcityから。
ほんの少し。
手を貸す。
午後六時。
退勤。
仕事用画面が閉じる。
理央が手を上げた。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
理央が消える。
湊もオフィスを出た。
普通なら仕事が終われば家へ帰る。
しかし湊はすでに家にいる。
だから帰宅という移動はない。
仕事用アバターの衣装を解除。
黄緑のシャツ。
灰色のジャケット。
それが消え、普段用の服装へ変わる。
数秒。
着替え終了。
湊は中央広場へ出た。
昼より人が増えていた。
学校を終えた利用者。
仕事を終えた利用者。
これから仕事を始める地域の利用者。
世界中の時間が一つの場所へ流れ込んでいる。
聞こえてくる言葉もさまざまだ。
しかし湊には、ほとんど日本語として聞こえる。
生成AI翻訳。
目の前を歩いていた二人組の会話も自然に変換されている。
表示を確認すると、一人は英語。
もう一人はスペイン語。
二人とも違う言葉を話しているのに、普通に笑っている。
湊は広場を歩いた。
仕事が終わったら、今日は何をしよう。
ゲーム。
映画。
ワールド探索。
買い物。
選択肢はいくらでもある。
そう考えた瞬間、端末から通知。
日用品の残量が少なくなっています。
洗剤。
飲み物。
ティッシュ。
湊は足を止めた。
「先に買い物か」
ショッピング施設へ移動する。
巨大な建物へ入る。
棚には商品が並んでいる。
現実の商品。
Linkcity専用の商品。
同じ場所に二種類ある。
家具売り場では、現実へ配送される机の隣に、自宅ワールド専用の巨大ソファが売られていた。
現実なら部屋に入らないサイズ。
Linkcityなら関係ない。
湊は日用品売り場へ向かった。
洗剤を選ぶ。
現実配送。
飲み物。
現実配送。
配送時間。
明日午前。
その下。
通常時はAI自律配送。
必要に応じてLinkcity配送オペレーターが遠隔支援します。
昼に見た仕組みと同じ。
湊は特に気にせず確定した。
それほど普通の仕組みだった。
その途中で、アバター用の新しい靴が目に入った。
仮想商品。
湊は立ち止まる。
値段を見る。
少し考える。
「……いらないか」
通り過ぎる。
三歩。
戻る。
もう一度見る。
限定デザイン。
今週まで。
「いや、いらない」
また離れる。
二歩。
戻る。
結局、買った。
購入した瞬間、靴がアカウントへ追加される。
現実の商品は明日の午前中に配送予定。
仮想商品は一秒。
湊はその場で靴を履き替えた。
足元を見る。
「いいじゃん」
誰に見せるでもなく呟いた。
買い物を終えて、中央広場へ戻る。
雨はまだ降っている。
現実の部屋では、屋根を叩く音が続いている。
Linkcityでは穏やかな夜景が始まっていた。
空にはイベント告知。
新しいワールド。
ゲーム大会。
旅行ツアー。
ライブ。
講座。
知らない場所が次々に表示される。
湊はプロフィールを開いた。
勲章が並んでいる。
長期利用。
旅行。
ゲーム。
交流。
探索。
ログインしただけでもらえるものは一つもない。
何をしたか。
どこへ行ったか。
何を作ったか。
その記録だけが残る。
湊はお気に入りに設定している旅行の勲章を一度眺めてから閉じた。
遠くに巨大な転送ゲートが見えた。
その向こうには、まだ行ったことのないワールドがある。
けれど今日は行かない。
湊は自宅ワールドを選んだ。
移動。
景色が変わる。
現実の部屋とは比べものにならないほど広いリビング。
大きな窓。
植物。
本棚。
ゲーム機。
壁にはこれまで獲得したトロフィーが並んでいる。
現実の湊の部屋には置けないものばかりだ。
それでも、この場所も家だった。
湊は大きなソファへ座った。
現実では椅子に座ったまま。
外では雨。
Linkcityでは静かな夜。
仕事をした。
友人と食事をした。
買い物をした。
街を歩いた。
今日、現実で歩いた距離は、ベッドと机と玄関の間くらい。
それでも一日を過ごしたという感覚は、ちゃんと残っている。
視界の隅に小さな通知が現れた。
連続利用時間が長くなっています。
休憩をおすすめします。
湊は通知を見つめた。
「はいはい」
接続を解除する。
広いリビングが消えた。
現実の小さな部屋が戻ってくる。
机。
キーボード。
マウス。
コントローラー。
食べ終えた昼食の容器。
窓の外では雨が降り続いている。
湊は椅子から立ち上がった。
肩を回す。
腕を伸ばす。
冷蔵庫から飲み物を取り出し、窓の近くまで歩いた。
カーテンを少し開ける。
雨粒が窓を流れていた。
道路にはほとんど人がいない。
それでも街が止まっているわけではない。
道路の端。
配送ロボットが雨の中を走っている。
表示は小さすぎて読めない。
AIが動かしているのか。
どこかの配送オペレーターが操作しているのか。
湊には分からない。
でも。
どちらでも。
あの機体の先には。
誰かが待っている。
料理。
飲み物。
日用品。
必要なもの。
あの建物の中でも。
向かいのマンションでも。
遠くに並ぶ家々でも。
きっと誰かが仕事をしている。
誰かが買い物をしている。
誰かが友人と食事をしている。
誰かがゲームをしている。
そして。
どこかの部屋では。
配送オペレーターが現実の道路を映像越しに見ながら。
AIが止まった数十秒だけ。
ロボットへ手を貸している。
現実の街が静かだからといって、人々まで静かなわけではない。
湊は飲み物を一口飲んだ。
机の端末が光る。
結衣からメッセージ。
さっき面白そうなワールド見つけた。
今度行こう。
その下に場所の情報が添付されている。
湊は内容を確認した。
現実では絶対に建てられそうにない、巨大な逆さまの都市。
建物が下ではなく上から伸びている。
湊は少し笑った。
行く。
短く返信する。
すぐに既読。
その直後。
明日でもいいよ。
湊は時計を見る。
まだ午後七時前。
休憩通知が出たばかりだ。
少しくらい現実で過ごしてもいい。
明日でも、来週でも、Linkcityはそこにある。
湊は端末を伏せた。
窓の外を見る。
激しい雨の向こうで、街の灯りがぼんやり揺れている。
現実があって。
そのすぐ隣にLinkcityがある。
料理をLinkcityで注文する。
現実の厨房で作られる。
AI配送ロボットが現実の道路を走る。
難しい場所では、人がLinkcityから操作を引き継ぐ。
そして荷物が現実の家へ届く。
仕事も。
買い物も。
配送も。
一つの場所だけでは終わらない。
どちらかへ移住したわけではない。
二つを行ったり来たりしながら暮らしている。
五年前なら、未来の生活として紹介されていたかもしれない。
今では誰もそんなことを言わない。
仕事をする。
食事をする。
買い物をする。
友人に会う。
遊ぶ。
AIが運ぶ。
必要なら人が手を貸す。
そして、ときどき接続を切る。
それだけだ。
湊はカーテンを閉じた。
明日もまた、玄関を開けずに出勤する。
そして街では。
AIと人がつないだ荷物が。
玄関までやって来る。
それが、この街では普通だった。
コメント
1件
みぅ🤍🥀です。読み終えたよ。 「現実では玄関すら開けてないのに、Linkcityの中でいっぱい出かけた」って感覚、すごく分かる気がした。結衣の一日が、仕事・ランチ・買い物・ゲームと全部この世界で完結してて、でも「ちゃんと暮らした」って思えるバランスがリアルだなって。 湊との「通勤二秒」の会話とか、仲間との自然な距離感が温かくて、この世界の日常がすごく丁寧に描かれてる。雨の日でも外に出なくていいって、ある意味贅沢なのかもね。 次話も楽しみにしてるよ🌙
羽海汐遠
13,759
月神零華@生きてます
6,354
2,153