テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
柘榴とAI

225
ふわもちお餅
165
羽海汐遠
16,375
【あと6日】 旅の記憶
登場人物
水城レン
二十六歳。細身で、耳の近くまで伸びた少し癖のある茶色の髪と、濃い茶色の瞳を持つ。今日も自分で気に入って選んだ紫色のシャツを着て、灰色のパンツと歩きやすい靴を合わせている。以前より周囲の景色や人の表情を見ることが増えた。
秋庭教授
六十二歳。短く整えた灰色の髪に、細い樹脂縁の眼鏡を掛けている。背は低め。昨日とは違う茶色の上着に、深い緑のシャツと灰色のパンツを着ている。最近は衣服を機能以外でも選び始めているが、それを指摘されると話題を変える。
高原ミノリ
四十六歳。顎の近くでそろえた茶色の髪と、細い紫色の眼鏡を持つ。黄緑のシャツにベージュのパンツ、柔らかな灰色の靴を履いている。旧旅行生活資料館の保存担当者。過去の旅行記録を長年整理しており、自分では遠方へ行った経験がほとんどない。
戸倉
七十代後半ほどの老人。短い灰色の髪と深いしわのある顔を持つ。茶色の長い上着と灰色のパンツを着ている。十二冊の極秘資料を文化学研究室へ託した人物。昨日、各地で起きた異変が極秘資料の記録と一致していることを明かした。
◆
午前六時五十二分。
水城レンは目を覚ました。
目覚ましが鳴るより八分早かった。
天井を見る。
そのまま動かない。
昨日の言葉が、眠りから意識へ戻ってくる。
七日後だ。
戸倉の声。
今日になった。
つまり。
「六日」
レンは身体を起こした。
端末を取る。
日付。
間違っていない。
ニュースを開く。
最初に表示されたのは、昨日から続いている原因不明の異変だった。
複数地域で微小振動。
地下水位の変化。
一部地域で地面の微細な変形。
道路設備の位置情報に数ミリ単位のずれ。
専門機関は関連性を調査中。
現時点で大規模な災害を示す確定情報はない。
レンは画面を指で進めた。
解説。
観測値。
地図。
専門家のコメント。
原因不明。
関連不明。
直ちに危険とは判断できない。
昨日までは、その言葉を信じたかった。
だが戸倉は言った。
発生地域も。
時刻も。
資料と一致している。
レンは端末を伏せた。
寝室が静かになる。
六日後。
本当に日本が壊滅するなら。
今日を含めても六日しかない。
六日で何ができる。
避難。
国外。
研究資料。
教授。
家。
知人。
仕事。
文化。
頭の中へ次々に言葉が出る。
まとまらない。
レンは立ち上がった。
収納棚を開ける。
服が並んでいる。
以前なら迷わなかった。
灰色のジャケット。
ベージュのシャツ。
それで終わり。
今日は少しだけ考えた。
紫色のシャツ。
昨日も着た。
洗浄済み。
レンはそれを取った。
着る。
鏡を見る。
昨日、教授に言わせた言葉を思い出す。
似合っている。
レンの口元が少し動く。
すぐに昨日のニュースを思い出す。
表情が戻る。
「両方あっていい」
小さく言った。
怖い。
でも、気に入った服を着たい。
その二つは同時にあっていい。
鞄を持つ。
玄関へ向かう。
そこで止まる。
いつもの研究室へ行く。
いつもの列車。
いつもの道。
六日後に全部失われるかもしれないのに。
それでも今日も研究へ行く。
レンは扉を開けた。
午前八時九分。
文化学研究室。
秋庭教授はすでに来ていた。
茶色の上着。
深い緑のシャツ。
灰色のパンツ。
レンは扉を閉めながら教授を見る。
「今日も違う」
教授は端末から顔を上げない。
「何が」
「服」
「洗濯の都合だ」
「絶対選んでる」
「六日しかないのに、朝からその話をするのか」
レンの表情が止まった。
教授も止まる。
口にした。
六日。
二人の間へ数字が置かれたようだった。
レンは自分の机へ向かう。
端末を起動する。
あと6日。
やはり表示されている。
昨日までの七が六になった。
「教授」
「ああ」
「戸倉さん、今日来ますかね」
「分からない」
「昨日、明日の資料を読めって」
「言っていたな」
レンは机を見る。
七冊目。
数字の「7」。
手を伸ばす。
だが、すぐには開かなかった。
「教授」
「何だ」
「もし本当に六日後なら」
教授がレンを見る。
「研究、続けます?」
教授はすぐに答えなかった。
演奏記録の再生装置。
盤上遊戯。
極秘資料。
机の上に並んでいる。
「君はどうしたい」
レンは七冊目を見る。
「読みたい」
「なら読む」
「でも避難とか」
「それも考える」
「両方?」
「昨日、君が言っていただろう」
レンが顔を上げる。
「怖い感情と笑う感情は同時にあっていい」
教授が七冊目を指す。
「研究と避難準備も、どちらか一つにする必要はない」
レンは少し息を吐いた。
「教授、たまに教授っぽいですね」
「私は教授だ」
レンは笑った。
七冊目を開く。
第七対象文化。
旅行。
レンは一瞬止まる。
「旅行」
知識としては知っている。
現在にも移動はある。
出張。
転勤。
移住。
研修。
調査。
治療。
親族への用事。
行政手続き。
物流。
研究。
必要があれば遠くへ行く。
だが、資料の写真は違った。
山。
湖。
海。
古い街。
温泉。
宿泊施設。
食事。
乗り物。
笑う人。
記念写真。
「これ全部、仕事じゃない?」
教授が写真を見る。
「旅行だからな」
「移住でもない?」
「違う」
「何しに行ったんです?」
「見る」
「何を」
「景色」
レンは頁を見る。
「景色を見るために移動?」
「そうだ」
「何時間?」
「場合によっては何十時間も」
レンは眉を寄せる。
「映像でよくないですか」
教授が笑った。
「今日はそこからか」
「だって、景色ですよ」
資料には移動時間が記録されている。
列車で三時間。
飛行機で十時間。
船。
車。
徒歩。
中には乗り継ぎを含めて一日以上。
「これ」
レンが指す。
「十四時間移動して、三泊?」
「そう書いてある」
「移動だけで二十八時間?」
「往復ならな」
「その間、仕事できるのに」
教授がレンを見る。
「旅行だから、しなかったんだろう」
「時間もったいなくないです?」
「昨日までなら、遊びにも同じことを言ったな」
レンは口を閉じた。
遊び。
何の成果もない。
音楽。
聞くだけ。
祭り。
集まるだけ。
服。
着たいものを着る。
笑顔。
感情を表へ出す。
旅行。
遠くへ行くだけ。
レンは資料をめくる。
旅行目的。
景観鑑賞。
食事。
温泉。
文化体験。
休養。
遊戯。
買い物。
人との交流。
記念。
冒険。
「食事」
レンが止まる。
「食べるために遠くへ?」
「地域ごとに違う料理があった」
「現在でもありますよね」
「ある」
「配送すればいい」
「現地で食べることに意味があった」
「味変わるんですか?」
「さあ」
「同じ料理なら同じでは?」
教授は笑った。
「行くしかないな」
レンは保存先を見る。
旧旅行生活資料館。
過去の旅行記録。
旅行用品。
映像。
旅行者の日記。
大量保存。
レンは七冊目を閉じた。
「行きます?」
教授が立つ。
「今日は旅行を調べるために移動するのか」
「ちょっと旅行っぽい」
「仕事だ」
「台無しですね」
午前九時。
研究棟を出る。
駅へ向かう。
途中。
レンはいつもの交差点で立ち止まった。
右。
研究室から駅までの最短経路。
左。
少し遠回り。
小さな川沿いを通る道。
「教授」
「何だ」
「遠回りしません?」
教授が眉を上げる。
「なぜ」
レンは七冊目の入った鞄を軽く叩く。
「景色」
教授は数秒黙る。
「駅まで七分増えるぞ」
「七分です」
「仕事中だ」
「旅行の研究です」
教授はため息をつく。
左へ曲がった。
レンもついていく。
川沿い。
歩いたことがないわけではない。
ただ、研究室へ行くときに使う理由がなかった。
最短ではないから。
水が流れている。
小さな橋。
樹木。
古い住宅。
川辺を歩く鳥。
レンは歩きながら周囲を見る。
「何もないですね」
「そうだな」
「でも悪くない」
教授は返事をしない。
少し先。
水面が朝の光を受けて揺れている。
レンは足を止めた。
「これ」
教授も止まる。
「何だ」
「写真撮る人の気持ち、ちょっと分かるかも」
「撮ればいい」
「研究に必要ですか?」
「必要かどうかを聞くな」
レンは笑った。
端末を出す。
水面。
橋。
樹木。
一枚撮る。
画像を見る。
「何に使う?」
教授が聞く。
レンは考える。
「使いません」
「では、なぜ撮った」
レンは画像を保存する。
「なんとなく」
教授が小さく笑った。
駅へ着く。
予定より七分遅い。
それでも何も困らなかった。
列車へ乗る。
目的地まで一時間十二分。
レンは座席へ座る。
七冊目の複製資料を開く。
昔の旅行広告。
行こう。
見よう。
食べよう。
体験しよう。
泊まろう。
旅に出よう。
レンは文章を読む。
「広告まで感情的ですね」
「今の交通広告とは違うな」
現在。
移動時間。
料金。
遅延率。
乗り換え。
座席性能。
目的地までの効率。
昔。
景色。
料理。
宿。
季節。
笑顔。
「この写真」
レンが指す。
列車の窓から外を見る人。
「移動中まで景色見てる」
教授が窓を見る。
レンもつられて見る。
普段なら端末を見ている時間。
外。
建物。
道路。
住宅。
畑。
遠くの山。
流れていく。
「毎日乗ってるのに」
レンが呟く。
「ちゃんと見たことなかった」
教授も外を見ている。
数分。
二人とも話さない。
演奏記録もない。
ゲームもない。
ただ窓を見る。
レンが気付く。
「これ、何もしてないですね」
「景色を見ている」
「それを何もしてないって言うんじゃ」
「旅行では、それが目的だったんだろう」
レンは窓へ顔を向ける。
目的。
見る。
それだけ。
一時間後。
旧旅行生活資料館。
入口には巨大な地図が残っていた。
各地から伸びる線。
昔の旅行経路。
受付で研究員証を提示。
少し待つ。
一人の女性が出てきた。
四十代半ばほど。
顎の近くでそろえた茶色の髪。
細い紫色の眼鏡。
黄緑のシャツ。
ベージュのパンツ。
柔らかな灰色の靴。
「高原ミノリです」
研究申請を確認する。
「旅行文化の調査ですね」
レンが頷く。
「旅行したことあります?」
いきなり聞いた。
高原が少し驚く。
「仕事では」
「仕事以外」
「ほとんどありません」
「旅行資料の担当なのに?」
「資料を見るのと、自分が行くのは別です」
「行きたくならないです?」
高原は少し考える。
「最近は、なります」
「最近?」
「ここで働き始めてからです」
レンは教授を見る。
教授もレンを見る。
まただ。
文化を知る。
やってみたくなる。
「どこへ?」
レンが聞く。
「山」
高原は少し笑う。
「昔の旅行写真に、山の上から街を見下ろしているものが多いんです」
「映像で見られますよね」
「はい」
「それでも?」
「実際に見てみたい」
レンも笑った。
「分かるようになってきました」
最初の保存室。
旅行用品。
大きな鞄。
小さな鞄。
帽子。
歩行用品。
地図。
案内書。
記念品。
「地図?」
レンが一冊持つ。
「端末じゃない?」
「紙の地図です」
「更新されないですよね」
「はい」
「現在地も出ない」
「出ません」
「不便」
高原が笑う。
「昔はこれを見ながら移動した人も多かったようです」
レンは広げる。
道路。
駅。
施設。
山。
川。
小さな文字。
「迷いそう」
「迷った記録もたくさんあります」
「それ、旅行の失敗ですよね」
「でも」
高原が別の資料を出す。
旅行日記。
予定していた駅を通り過ぎた。
知らない町へ着いた。
そこで食べた料理がおいしかった。
偶然見つけた店。
予定になかった景色。
「失敗なのに」
レンが読む。
「楽しそう」
昨日の笑顔と同じ。
予定通りではない。
それでも、思い出になる。
次の保存室。
写真。
壁面いっぱい。
山。
湖。
海。
温泉。
宿。
料理。
街。
橋。
乗り物。
人。
「すごい」
レンはゆっくり歩く。
「同じ場所の写真、何百枚もありますよ」
「撮影者が違います」
高原が答える。
「景色は同じですよね」
「でも、その人が見た景色です」
レンは止まる。
「その人が見た」
「はい」
同じ山。
同じ湖。
同じ建物。
それでも、一人一枚。
自分がそこにいた。
その記録。
レンは今朝撮った川の写真を思い出す。
誰かがもっときれいに撮った写真はあるだろう。
それでも自分で撮った。
自分が今日見たから。
「写真って」
レンが言う。
「景色の記録だけじゃなかったんですね」
教授が頷く。
「自分がそこへ行った記録でもある」
次。
旅行日記。
高原が一冊の複製を出す。
ある家族の三日間。
一日目。
列車。
駅弁。
宿。
温泉。
二日目。
山。
食事。
買い物。
道に迷う。
三日目。
雨。
予定変更。
小さな資料館。
帰宅。
レンは読み終える。
「何も起きてない」
高原が笑う。
「旅行記ですから」
「事件もない」
「はい」
「成果もない」
「はい」
「三日使って」
レンは頁を戻す。
最後。
また行きたい。
短い一文。
「また行きたい」
レンが読む。
三日。
移動。
食事。
景色。
宿泊。
帰宅。
それだけ。
それでも、もう一度。
「これ、遊びと似てる」
教授が聞く。
「どこが」
「終わっても、またやりたい」
音楽も。
聞き終わって、また再生した。
ゲームも。
終わって、もう一回。
服も。
明日また着たい。
旅行も。
帰ってきて、また行きたい。
文化には繰り返しがある。
必要だからではない。
もう一度したいから。
そのとき。
端末が鳴った。
緊急報道。
レンの表情が変わる。
画面を開く。
新たな異変。
複数地域で地下水の濁り。
沿岸部の一部で通常とは異なる潮位変化。
地面の微小変形が前日より広い範囲で確認。
一部の鉄道で安全確認。
原因は調査中。
高原が画面を見る。
「最近多いですね」
レンは教授を見る。
教授もレンを見た。
昨日。
戸倉。
資料と一致している。
「潮位」
レンが小さく言う。
「極秘資料には?」
教授が首を振る。
「今日の資料を最後まで読む」
高原が二人を見る。
「何か知っているんですか」
また同じ質問。
答えられない。
レンは通知を閉じる。
「まだ、確かめている途中です」
午後一時。
資料館の食堂。
高原が昔の旅行食に関する記録を見せてくれる。
地域限定料理。
旅館料理。
駅で売られる食事。
土産用の菓子。
「その場所で食べることに価値があった」
高原が説明する。
レンは今日の昼食を見る。
栄養量。
価格。
摂取時間。
いつも通り。
「旅行中って、わざわざ普段と違うもの食べるんです?」
「それも楽しみだったようです」
「失敗するかもしれないのに」
「失敗した記録もあります」
「まずかったとか?」
「はい」
レンは笑った。
「それまで思い出?」
「そう書いている旅行記もあります」
失敗しても記憶になる。
昨日と同じ。
午後二時。
七冊目の後半。
旅行文化の衰退。
最初は移動の環境負荷。
交通費。
混雑。
観光地の過密。
地域住民への負担。
事故。
感染症。
自然環境への影響。
レンは読む。
「問題は多い」
教授が頷く。
「旅行者が増えすぎれば問題も出る」
次。
遠距離移動の抑制。
業務以外の移動削減。
映像体験の推奨。
現地体験を遠隔映像で代替。
レンが止まる。
「これ、朝俺が言ったやつ」
景色なら映像でいい。
料理なら配送。
文化体験なら記録映像。
移動しなくても情報は得られる。
さらに。
旅行は時間浪費。
移動は非生産的。
景色を見るためだけの遠距離移動は合理性に欠ける。
宿泊は自宅より効率が悪い。
観光地での消費は衝動的。
記念品は不要物。
「全部」
レンが頁をめくる。
「旅をする理由そのものが問題にされてる」
最初は過密。
環境。
事故。
そこから、
旅行すること自体へ。
観光交通の縮小。
宿泊施設の減少。
観光案内の終了。
旅行雑誌の減少。
旅行番組の終了。
学校旅行の廃止。
個人旅行の減少。
景勝地の維持費削減。
観光施設閉鎖。
そして。
旅行という言葉が、業務移動や調査移動を含む単なる遠距離移動の意味へ変化。
「現在だ」
レンが呟く。
最終調査。
仕事や移住以外の目的で遠方へ行きたいか。
行きたい。
二パーセント。
行きたくない。
八十六パーセント。
判断不能。
十二パーセント。
景色を見るためだけに長時間移動する行為を理解できるか。
理解できる。
一パーセント。
理解できない。
九十二パーセント。
判断不能。
七パーセント。
旅行文化継承停止を確認。
第七段階終了。
レンは資料を閉じようとする。
その下。
まだ一枚ある。
異常記録。
レンの指が止まる。
「教授」
教授が近づく。
そこには日付。
今日。
現在と同じ。
予測記録。
複数地域における微小地殻変形。
地下水変化。
沿岸部潮位異常。
一部交通機関への影響。
レンの背中が冷える。
「ニュースと」
教授が静かに言う。
「一致している」
昨日だけではない。
今日も。
資料は何十年も前に作られている。
なのに今日の出来事が書いてある。
時刻。
午後一時台。
ニュースが出た時刻と近い。
「何で」
レンが頁へ顔を近づける。
「こんなの分かるんです?」
教授は答えられない。
高原には見せられない。
レンは資料を閉じる。
「帰りましょう」
午後三時二十分。
資料館を出る。
駅へ向かう。
途中。
レンは足を止めた。
案内表示。
駅は右。
左へ行けば、小さな展望台。
徒歩十八分。
レンは表示を見る。
教授も見る。
「行きたいのか」
「十八分」
「往復で三十六分以上」
「研究室に戻るの遅れます」
「そうだな」
レンは右を見る。
駅。
左。
展望台。
六日。
時間はない。
だから最短で帰るべき。
そう考える。
なのに。
「行きたい」
レンは言った。
教授は腕時計を見る。
「行くか」
二人は左へ曲がった。
坂。
歩く。
思ったより急だった。
「旅行って疲れますね」
「十八分で言うな」
「昔の人、これを何日も?」
「そうらしい」
途中で息が上がる。
道を間違える。
少し戻る。
「教授」
「何だ」
「今の、無駄でしたね」
「三分ほどな」
レンは笑う。
「旅行っぽい」
「何でも旅行にするな」
展望台。
到着。
誰もいなかった。
観光文化が消えた今、わざわざ景色を見るために来る人はほとんどいない。
二人は柵の前へ立つ。
街。
遠くまで建物。
道路。
線路。
川。
さらに遠く。
山。
レンは何も言わなかった。
教授も。
風が吹く。
紫色のシャツの袖が少し揺れる。
「映像と」
レンが言う。
「違いますね」
教授が頷く。
「そうだな」
「何が違うんだろ」
「全部じゃないか」
風。
気温。
歩いて疲れた身体。
自分の目で見る距離。
隣に教授がいる。
ここまで来た時間。
少し道を間違えたこと。
その全部。
レンは端末を出す。
写真。
一枚。
教授を見る。
「教授も入ります?」
「なぜ」
「旅行の記録」
「研究だろ」
「似たようなものです」
教授は嫌そうな顔をしながら隣へ来る。
レンは端末を構える。
「笑ってください」
「昨日の研究を引きずるな」
「記録です」
教授が少しだけ口元を上げる。
レンも笑う。
撮影。
画像を見る。
二人。
街。
山。
笑顔。
レンは保存した。
「何に使う」
教授が聞く。
昨日と同じ質問。
レンは街を見る。
「覚えておくため」
教授は何も言わなかった。
その瞬間。
低い音。
遠く。
地面の奥から響いたような音。
レンの表情が消える。
「今の」
足元。
微かに揺れる。
柵が震える。
カタ。
カタ。
数秒。
止まる。
鳥が一斉に飛び立つ。
レンは柵を握った。
端末が鳴る。
地震情報。
小規模。
周辺地域。
被害確認中。
教授が街を見る。
「戻ろう」
帰り道。
二人の歩く速度は速かった。
駅。
列車。
車内。
ニュース。
異変の範囲が拡大。
専門家は現時点で大規模災害との関連を判断できないと発表。
一部では関連性を疑う意見。
レンは端末を閉じる。
写真一覧を開く。
さっきの一枚。
展望台。
二人。
笑っている。
撮影してから一時間も経っていない。
なのに、もう昔の写真のように感じた。
「教授」
「何だ」
「旅行って、戻ってきてからも続くんですね」
教授が写真を見る。
「記憶の中で?」
「たぶん」
研究室。
午後五時三十八分。
レンは七冊目を机へ置く。
今日の研究記録。
旅行は、目的地へ移動するためだけの行為ではなかった。
入力。
人々は景色、食事、体験、人との時間を求め、自ら遠くへ移動した。
移動そのものに時間を使い、道に迷い、予定が変わり、失敗することさえ記憶として残した。
レンは止まる。
今日。
遠回りした。
川を見た。
写真を撮った。
列車から景色を見た。
展望台へ行った。
道を間違えた。
教授と写真を撮った。
揺れた。
全部、今日一日の出来事。
研究記録の最後。
旅行とは、場所を変えるだけではなかった。
普段とは違う場所へ自分の身体を運び、そこで過ごした時間そのものを持ち帰る文化だった。
保存。
端末。
あと6日。
レンは数字を見る。
教授が盤上遊戯を机へ出す。
レンは驚く。
「今日やるんですか?」
「一回だけ」
「揺れましたよ」
「揺れた」
「資料も当たってました」
「当たっていた」
「六日後」
「分かっている」
教授は駒を置く。
「だから?」
レンは聞く。
教授は自分の駒を並べ終える。
「六日間ずっと恐怖だけで過ごすのか」
レンは黙った。
演奏記録を再生する。
五分三十八秒。
音が流れる。
レンも椅子へ座る。
「一回だけですよ」
「もちろん」
駒を並べる。
対戦。
途中。
端末へ新しいニュース。
異変の観測地点がさらに増加。
レンは一度見る。
通知を閉じる。
ゲームへ戻る。
怖い。
その感情は消えない。
でも遊ぶ。
音楽も聞く。
好きな服も着る。
今日撮った写真もある。
教授が駒を動かす。
「君の番だ」
レンは盤を見る。
一手。
教授が考える。
その間。
レンは端末の写真をもう一度開く。
展望台。
二人。
街。
山。
笑顔。
六日後。
この景色がどうなるのか分からない。
だから。
今日、見に行ってよかった。
そう思った。
教授が写真に気付く。
「また見ているのか」
「はい」
「気に入った?」
レンは少し考える。
「今日の旅」
「研究だ」
「でも旅でした」
「十八分の展望台で?」
「十分です」
教授が笑う。
レンも笑った。
その直後。
机がほんの少し揺れた。
二人の笑顔が止まる。
再生装置の音は続いている。
数秒。
揺れが収まる。
端末が鳴る。
また地震情報。
レンは画面を見た。
小規模。
被害なし。
だが。
今日だけで何度目だろう。
教授が静かに言う。
「増えている」
「はい」
「明日は五日」
レンは答えない。
画面の隅。
あと6日。
数字はまだ六。
日付が変われば五になる。
レンは窓を見る。
夜の街。
灯り。
道路。
列車。
いつも通り。
まだある。
レンは今日の写真を保存記録へ移した。
名前を付ける。
展望台。
今日の日付。
それだけでは足りない気がした。
少し考える。
旅の記憶。
保存。
教授が盤を指す。
「続き」
レンは端末を置く。
駒へ手を伸ばす。
「教授」
「何だ」
「もし六日後、本当に全部変わっても」
言葉を探す。
「今日ここへ行ったことは、なくならないですよね」
教授は少し考える。
「記録が残れば」
「記録がなくても」
教授がレンを見る。
レンは胸のあたりへ軽く手を当てる。
「俺は覚えてる」
教授の表情が少し緩んだ。
「それが旅行だったのかもしれないな」
レンは駒を動かした。
外では、
原因不明の異変がまた一つ観測されていた。
ニュースはまだ、
謎の現象。
そう呼んでいる。
研究室の二人だけが、
その謎の先に書かれた日付を知っていた。
あと六日。
時間は減っていく。
それでも今日、
二人は少し遠回りをした。
川を見た。
列車の窓から景色を見た。
昔の旅行を知った。
展望台まで歩いた。
写真を撮った。
笑った。
揺れた。
戻ってきた。
そして、
持ち帰った。
場所ではない。
物でもない。
役に立つ成果でもない。
今日という一日の、
旅の記憶を。
コメント
1件
第8話、めっちゃ良かった……!「旅行」を研究するために、逆にレンが旅行っぽいことを体感していく構成が鮮やかで。川沿いの遠回り、列車の景色、展望台で教授と写真撮るところ、全部が「成果じゃないけど確かにそこにあった時間」として積み重なってて、最後の「旅の記憶」っていう保存名にグッときた。揺れが増えてく緊迫感とのバランスも絶妙で、それでも遊ぶ・着る・記録するをやめない二人の姿がかっこいい。好きです。