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これは娘を出産した時の話だ。
私は元々持病があったので個人病院では断られてしまい、地元のかなり大きい有名な病院での出産となった。
特にこれと言って心霊現象の噂があるわけでもない至って普通の病院だったので、あまり心構えもなく出産に挑んだのだが、そこで幾つかの奇妙な体験をした。
【分娩室】
人生初の分娩室に運ばれ、最初こそ軽い痛みだったのでこんなもんかと安易に考えていると、そのうち本陣痛がやってきてあまりの激痛に叫び始めた。
すると分娩室の外から看護師が4人走ってきて、その中でも最年長の看護師が私の様子を見て「頭出てきちゃってる!!先生呼んできて!!」と叫び、そこから一気に先生や他の看護師がわらわらと集まってきた。
お産が始まり、痛みで意識が朦朧とする中で、突然の強い睡魔に襲われた。
その時、不意に近付いて来たひとりの凄く若い可愛らしい雰囲気の看護師が、黙って私の手を握った。
ーーーこれ以上ないほどの冷たい手に、思わず驚いて意識が戻った。
冷え症にしては氷のような冷たさで、とても体温とは呼べないほどだった。
他の看護師は「頑張れ」「寝たらダメだよ」などの励ましの言葉をかけて賑やかに背中を摩ってくれる中、若い看護師だけは心配そうに眉を寄せながら無言で手を握り締めて、時折頭を撫でてくれた。
激痛のあまり私の握力が最大値に達していたので、握られる彼女も相当手が痛いはずなのに、表情ひとつ変える様子もない。
俯いて、ひたすら私を見下ろしたまま誰よりも至近距離から冷たい手で終始握り締めていたが、やがて無事に出産を終えるとそっと手を離した。
分娩時間は5時間程で、冷たい手の看護師はその間ずっと最大の握力で握られっぱなしだったわけだ。
生まれたばかりの娘を胸に抱かせてくれた年配の看護師が、ふとこんな事を言った。
「途中で出血量が酷くなって、貴女危なかったのよ。よく意識を最後まで保てたねぇ。あのまま眠ってしまっていたら、母子共に危なかったの」
正直意識を保てたのは、あの若い看護師の冷たい手に驚いたからであって、自力ではない。
一言お礼を言いたくて、あの若い看護師を呼んで欲しいとお願いすると、そこに居た全員が顔を見合わせた。
「……どの看護師かな?ネームプレートに何て書いてあったか覚えてる?」
そこそこ若い看護師のその言葉に、私は気付いてしまった。
他の看護師も先生も皆、シンプルなネームプレートを付けているのに、手を握ってくれていたあの看護師だけは胸元に何も付けていなかった。
じゃあ、あれは一体誰だったのだろうと首を傾げる私。
すると、年配の看護師も口を開いた。
「あの、気を悪くしないでね。貴女の頭の側には誰も立ってなかったの。背中は摩っていたけど、手は誰も握ってなかったのよ」
【病棟】
無事に出産を終えて病棟の大部屋に入院となった私は、娘を抱いてベッドに座って授乳をしていた。
大部屋にはもうひとりの妊婦さんしかおらず、初日は体調が悪かったようで、一切関わりがなかった。
あれは16時頃だったと思う。
対面のベッドでは妊婦さんが眠っていた。消灯時刻ではないので、廊下の外はまだ騒がしい。
私は黙って授乳をしていると眠くなるので、携帯で動画でも見ようとイヤホンをつけた。
その途端、まだ動画の再生すらしていないのに、イヤホンの奥から新生児の泣き声が響いた。
驚いて耳から外すも、娘は授乳中で廊下の外からも泣き声などしない。
恐る恐るイヤホンを再度つけ直すと、まだ泣き声が聞こえる。
気味が悪くて動画を断念し、添い寝の姿勢で授乳を続けようとした。
10分くらい目を閉じていると、急に仕切っていたベッド周りのカーテンが開けられる気配がした。
普通なら看護師が一言「起きてますか〜?」などと声を掛けてくれるはずなのに、今回は一切声掛けがない。
そもそも出入り口のドアが開く気配もなかった。
不審に思って薄目を開ければ、半開きのカーテンから身を乗り出す女が居た。
草臥れた入院着に、手入れもされていなさそうなボサボサ頭。肌は土気色で、生気のない痩せ細った腕が印象的だった。
こんな人同室に居なかったぞ、とまず不審者を疑った私は真っ先にナースコールを押した。
女は俯いたまま片足を引き摺るような動きで私のベッドの傍らまで来て、ベッド脇に置いてあった私の私物を物色し始めた。
幸いそこに貴重品はなく、あるのは新生児用の着替えだった。
しかし急に他人のベッド周りを物色するなどあり得ないと思い、怖さよりも苛立ちが勝った私は、よせばいいのに「何してるんですか」と強めに声を掛けてしまった。
すると女は動きを止め、数秒停止した後、グリンと首と後ろに倒すようにして反り返った。
その動きだけでもかなり気色悪いのに、その女の眼球は抉れたように真っ黒に窪んでいて、大きく開けた口の中も空洞のように真っ黒だった。
流石にこれは生者ではないと気付いたのと、看護師がやってくるのはほぼ同時で、振り向いた時には女の姿はなかった。
その時は適当に誤魔化してやり過ごしたが、その日の消灯時刻を過ぎた頃、再びあの女がカーテンを捲って来た。
夕方はたまたま守護達が不在だったが、深夜は基本的にこちらも人数が多い。
入って来た矢先で守護達に囲まれ、あれよという間に何処かへ連行されていった。
ほっと一息吐いたのも束の間。
突然金縛りに遭い、眼球しか動かせなくなった。
わりとこの時は冷静で、何が来るかと身構えていると、窓の外から新生児の泣き声が聞こえてきた。
最初は遠かった声が徐々に近づいて来る。
窓際のベッドだった私の場所は、窓の方のカーテンを開けたままだと外は広く見渡せる。
大きな窓の上の方。何やら塊が蠢いている。
目を凝らせばその塊は、黄疸の悪化した赤ちゃんだと分かった。
外側から窓に張り付き、這うようにして蠢いていたそれは、木霊する程の大きな泣き声を発している。
少しの間外側を這いずっていたが、私に気付いたように窓をすり抜け床を這いながらベッドに近寄ってきた。
タチの悪いモノなのは一目瞭然だったので、早く金縛りを解こうと踠いていると、不意に対面のベッドで寝ていた妊婦さんが自分のベッド周りのカーテンを開けた。
どうやら今起きたようだ。
トイレに行きたかったようで、点滴をガラガラと押しながら歩いて行く。
幸か不幸か、黄疸状態の赤ちゃんの注意が妊婦さんへと切り替わったのがはっきり分かった。
途端に金縛りは解け、妊婦さんと黄疸状態の赤ちゃんは病室内のトイレに入って行った。
その後戻って来た妊婦さんの腹に黄疸状態の赤ちゃんが嬉しそうにしがみついているのを確認して、何だか凄く寒気がした。
私は2週間程で退院したのでその後の事は分からないが、最後まで赤ちゃんは妊婦さんの腹にしがみついたままだった。
黄疸状態の赤ちゃんと気味の悪い女との繋がりは分からない。
だが、最後まで後味の悪い入院だった。
【病院のシャワー室】
無事に出産を終えて何日か経った頃。
ようやくシャワーの許可が降りたことで、私はナースステーションに娘を一時的に預けて、初めて大きな病院の共有シャワー室に向かった。
水辺は特に霊障を受けやすい。
銭湯や温泉はさておき、自宅の風呂以外にひとりで入るのはあまり好きではない。
しかもタイミングの悪い事に、その時に限って守護が揃いも揃って不在だった。
既に嫌な予感を覚えつつも、無人のシャワー室へと足を踏み入れた。
幸い覗き込んだ時には何の気配もなく、心配し過ぎたかと心の中で安堵した。
顔を洗い、髪を洗い始める。
前に使っていた人が居たわりに、室内の温度は何故かひんやりしていて、髪を洗っている間もシャワーを流しっぱなしだった。
シャワーの音が反響する。
ふと、その音に混ざって何やらバリバリ…ボリボリ…と変な音がしているのに気付く。
まるで強い力で何かを引っ掻くような不快な音に、私は手を止める。
いつもの癖で曇った鏡にシャワーを掛けた。
すると当然、鏡越に背後の浴槽が映る。
突然誰も居ないはずの浴槽に見知らぬ女の姿が浮かび上がっていて、あまりの不意打ちに驚いて振り返った。
パーマのようにクルクルとうねるびしょ濡れの長い髪が肌に張り付いていて、それだけでも不気味なのに、女は自分の腕をバリバリと掻き毟っていた。
髪の毛の隙間からこちらを睨み上げながら、一心不乱に掻き毟るその姿は異様で、私は視線を逸らして自分の周りに結界を貼り、無言で髪を洗い流し、体もササッと洗って早急にシャワー室を後にした。
女はシャワー室から出てくることはなかった。ただそこにいるだけのようだが、不意打ちだったせいで私の心臓はバクバク状態だった。
身支度を時短で済ませて病室に戻った。
あの霊が引きずり込むタイプだったら、守護不在の状態だったから、とても危なかった。
そんな話を守護にすると、皆顔を見合わせて「そういえば産後だったわ」「弱ってるじゃん」「今後は1人にしない方がいいね」などと会議していた。
それ以来用事があっても守護が1人は必ず残るようになった。