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第2話 言葉を拾う子
天灯共同医療福祉院、人型化準備区域。
あの日から、小型霊獣の翻訳訓練が始まった。
最初に教えられたのは、生活に必要な短い言葉だ。水。食べる。休む。痛い。嫌だ。離れろ。来てくれ。
まだ長い文章を組み立てることは難しい。だからまず、自分の状態や意思を短い言葉で相手へ伝えるところから始める。
「これは?」
常駐職員が水の入った杯を指した。
「水」
「では、これは?」
休息用の札を示す。
「休む」
「そうです。よくできました」
小型霊獣の橙色の耳が、わずかに立つ。
ここまでは順調だった。問題は、その後だ。
「今日はここまでにしましょう」
職員が訓練札を片づけ始めると、小型霊獣がその手元を見て言った。
「……もう少し」
職員の手が止まる。
「もう少し、続けたいんですか?」
「ああ。もう少し続ける」
「…………」
記録板を見る。その言葉は、まだ教えていない。
「誰から覚えました?」
小型霊獣は少し考えてから、廊下を指した。
「あの大型」
「大型霊獣ですか?」
「ああ」
昨日、大型霊獣は訓練室の外で小型霊獣を待っていた。通行の邪魔になるため職員が移動を促したところ、『もう少し、ここにいる』とだけ答えていた。それだけだ。ほんの数秒、廊下ですれ違っただけの言葉を、この子は拾っている。
「一度聞いただけですか?」
「一度だけだ」
近くにいた別の職員が顔を上げる。
「またですか?」
「……またですね」
これで今日だけでも三度目だった。教えていない言葉を、いつの間にか使っている。しかも、聞いた言葉をそのまま繰り返しているわけではない。
「これは?」
食事を示す札を見せる。
「食べる」
「今、食べたいですか?」
「今はいらない」
職員たちが顔を見合わせた。
「『今』は、どこで覚えました?」
「職員が使っている」
「……なるほど」
どうやら職員同士の日常会話まで聞いているらしい。単に音を覚えているのではなく、使われている状況から意味を拾い、自分の言葉として使っている。まだ耳が幼いはずのこの個体が、大人たちの会話の隙間を、静かに拾い集めていた。
「栖梧さんを呼んできます」
「そうですね」
「栖梧が来るのか?」
「はい。少し待っていてください」
「分かった」
立ち上がりかけた職員が、ふと止まる。
「……『分かった』は?」
小型霊獣は首を傾げた。
「知らない」
「『知らない』も教えていません」
「だから、知らないと言っている」
「そうではなくて……」
隣の職員が、思わず口元を押さえた。
「この子、私たちの会話から勝手に覚えてません?」
*
「単語を覚えるのが早い、というだけではなさそうですね」
呼ばれてきた栖梧は、これまでの記録に目を通していた。小型霊獣は訓練卓の向こうに座り、じっとその様子を見ている。
「聞いた言葉と、その時の状況を結びつけています。単純な模倣ではありません」
「やはり、かなり早いですか?」
「早いとは思います。ただ、それを理由に訓練段階を前倒しする必要はありません」
栖梧は記録板へ視線を落とした。
「言葉を理解できることと、身体や感情の適応が進んでいることは別ですから」
「はい」
「それより――」
栖梧が小型霊獣を見る。
「今の話も聞いていますね?」
「聞いている」
「そうでしょうね」
職員が苦笑した。
「この個体の前では、迂闊なことを言えませんね」
「迂闊?」
室内が、一瞬静かになる。誰も、その言葉の意味までは説明しなかった。
「……今の言葉は、まだ覚えなくていいですよ」
「覚えておく」
栖梧の筆が止まった。
「それも、教えていませんね」
記録板に、一行が追加された。
《周囲の会話から、自発的に語彙・用法を取得する傾向あり》
さらに、その下へ。
《単純模倣ではなく、文脈から意味を推定し、別状況へ転用している可能性が高い》
栖梧は少し考えてから、周囲の職員へ言った。
「しばらく、この個体の前では職員同士の会話にも注意してください」
「聞けば、覚えられる」
「……そういうところです」
職員たちの間に、小さな笑いが起きた。教えられるより、自分で拾う方が早い。どうやらこの個体、そういう質らしい。
コメント
1件
おおっ、第16話読んだわ!この小型霊獣、めっちゃ賢いな…!教えてない言葉を職員の会話から拾って、しかも文脈で意味を理解してるって、ガチで頭いいやつやん。まだ幼い個体なのに「覚えておく」とか言い返すのもクスッときた。栖梧の「そういうところです」ってツッコミも含めて好き。この子の成長、めっちゃ気になる‼️
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