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第六章 満ちゆく月
第五話 揺れる心、近づく距離
宿場町へ辿り着いた頃には、空はすっかり赤く染まっていた。
高い石壁に囲まれた街。
街道には、ソレイユ帝国へ向かう商人や旅人の馬車が列を作っている。
門の前では兵士達が慌ただしく周囲を見張っていた。
「思ったより人多いなぁ」
サフィアンが周囲を見回しながら呟く。
荷馬車。
旅人。
商人。
武装した傭兵らしき姿。
帝国直前の街というだけあって様々な人間が集まっていた。
けれど、
「……なんか、空気重い」
ジオがぽつりと言う。
サフィアンが振り返った。
「そうか?」
「……分からないけど」
胸の奥が、ずっとざわついている。
門を潜った瞬間、ジオは小さく眉を寄せた。
空気の中に、微かな違和感。
瘴気。
ほんの僅かに、けれど確かに感じる。
「……ジオ?」
サフィアンが顔を覗き込む。
「顔色悪いぞ」
「……平気」
反射的に答える。
けれど最近は、以前より感じ取れるものが増えていた。
瘴気の気配。
人々の中にある不安。
言葉にならない恐怖。
視界の端を、黒い影が掠めた気がした。
「……っ!」
足を止める。
けれど振り返っても、そこには普通の街並みしかない。
「どうした?」
「……なんでもない」
サフィアンは心配そうに見ていたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに
「とりあえず宿探そ」
そう言って、軽くジオの肩を押す。
夕暮れの街は賑わっていた。
露店から漂う香ばしい匂い。
酒場から聞こえる笑い声。
旅人達の話し声。
平和な街に見える。
けれど、
「――だから最近増えてんだって」
「満月前後は特に危ねぇらしいぞ」
「昨日も東門の外で……」
通り過ぎた男達の会話が、耳へ残る。
満月前後。
その言葉だけで、胸の奥がざわついた。
あと三日。
近づくほど、身体の奥にある“何か”が強くなる。
宿を取り、部屋へ入った頃には外はすっかり夜になっていた。
窓の外。
大きくなり始めた月が浮かんでいる。
ジオは窓辺へ立ったまま、じっと月を見つめていた。
「……また見てる」
後ろからサフィアンの声。
ジオは振り返らない。
「…………」
「最近ずっと月見てるよな」
「そう?」
「そう」
サフィアンはベッドへ腰掛ける。
ここ数日、ジオの様子は明らかにおかしかった。
眠れていない。
食事も少ない。
時々、何かを聞いているように黙り込む。
なのに、力だけは強くなっている。
瘴気への反応。
闇を感じ取る力。
そして、それを受け止める力。
二年前とは違う。
だからこそ、サフィアンは不安だった。
「……ジオ」
「なに」
「ほんとに大丈夫か?」
静かな声。
ジオは少し黙る。
月明かりが、黒髪を淡く照らしていた。
「……分からない」
弱い声。
「前より、変なんだ」
サフィアンが息を呑む。
「満月が近づくと、頭の中がうるさい」
「……」
「瘴気の気配も、前より分かる」
「……」
「時々、人の中にある不安とか恐怖まで拾う」
ジオはゆっくり振り返った。
黒曜石の瞳。
そこには、隠しきれない不安があった。
「オレ、何か変わってきてる」
その言葉に、サフィアンはゆっくり立ち上がる。
そして、迷いなくジオの前へ立つ。
「……変わってない」
優しい声。
そっと、大きな手がジオの頭へ触れる。
黒い髪を優しく撫でる。
「少なくとも、オレにはそう見える」
ジオは目を瞬く。
振り払おうと思えば、できた。
けれど、できなかった。
「お前はジオだ」
真っ直ぐな声。
「何があっても」
月明かりの中、ジオは静かに目を閉じた。
その温もりを、確かめるように。
しばらく、二人は喋らなかった。
窓の外では、夜風が静かに街を吹き抜けている。
遠くの酒場から、微かな笑い声が聞こえた。
街の灯り。
穏やかな夜の音。
けれど、この部屋だけ、別の空間みたいに静かだった。
ジオは目を閉じたまま、頭に乗せられたサフィアンの手へ、そっと触れる。
温かい。
その温もりに触れていると、胸の奥で暴れていた不安が、少しだけ遠のいていく気がした。
「……なんで」
小さな声が落ちる。
サフィアンが首を傾げた。
「ん?」
ジオは視線を伏せたまま、ぽつりと続ける。
「なんで……そんなふうに言えるの」
何があっても、変わらない。
そう言い切れる理由が、ジオには分からなかった。
自分の中には、確かに“何か”がある。
満月が近づくたび、それは大きくなる。
闇を呼ぶ感覚。
胸の奥のざわめき。
時々、自分が自分ではなくなるような恐怖。
なのにサフィアンだけは、怖がらない。
「……普通」
ジオの声が少し震える。
「気味悪いって思うだろ。」
「……俺だって」
一度言葉を止める。
「自分が何なのか分かんないのに」
すると、サフィアンは少し困ったように笑った。
「そんなの、今さらだろ」
「……は?」
あまりにも即答で。
ジオは思わず顔を上げた。
サフィアンは肩をすくめる。
「お前、昔っから変だったし」
「……」
「初対面で知らない子供に警戒丸出しだったし」
「……」
「薬草採りに行ったら、一人で危ない場所入るし」
「……」
「すぐ無茶するし」
「……悪口?」
ジオが眉を寄せる。
サフィアンはけらっと笑った。
「事実だ」
「……最悪」
そう言いながらも。
その声には、少しだけ力が抜けていた。
サフィアンはそんなジオを見て、ふっと表情を柔らかくする。
「でも」
静かな声。
「それ込みでジオだろ」
その言葉が、あまりにも自然で。
ジオは一瞬、何も言えなくなった。
「黒髪とか黒い目とか」
サフィアンは指を折る。
「変な力とか」
「無愛想だし」
「すぐ一人で抱え込むし」
「……」
「自分のこと大事にしないし」
「……悪口増えてない?」
「増えたな」
「認めるんだ」
思わず呆れた声が出る。
サフィアンは笑ったあと、まっすぐジオを見た。
「でも」
青い瞳が、静かに揺れる。
「オレは、ずっとお前見てきた」
低い声。
真っ直ぐな声。
「怖い時、どんな顔するかも」
「苦しい時、絶対誰にも言わずに耐えることも」
「誰かが傷付いたら、自分が傷付いたみたいな顔することも」
サフィアンはゆっくり手を下ろす。
そして今度はそっと、ジオの手を握った。
「そんな奴が」
少しだけ笑う。
「化け物なわけないだろ」
胸がぎゅっと締め付けられる。
ジオは思わず視線を逸らした。
こんなふうに、疑わずに、怖がらずに、自分を見てくれる人なんて、今までいなかった。
「……ずるい」
小さな声。
「ん?」
「そういうこと」
ジオは俯いたまま言う。
「簡単に言う」
サフィアンは少し目を丸くして。
それから、照れ臭そうに笑った。
「思ったこと言ってるだけだし」
「……」
「それに」
サフィアンの声が少しだけ優しくなる。
「お前が苦しそうなのは、見てらない」
その言葉に、ジオは何も返せなかった。
ただ、握られた手へほんの少し力を返す。
無意識だった。
けれど、サフィアンは気付いていた。
いつもなら、
「大丈夫」
そう言って笑って終わらせる。
でも今だけは、この小さな力を離したくないと思った。
理由は分からない。
ただ、二年前。
初めて野宿した夜。
眠ることすら怖がって、ずっと隣を警戒していた幼馴染が、今は、自分の手を握り返している。
それだけで、十分だった。
外では、満ちかけた月が静かに街を照らしている。
その白い光を見つめながら、ジオは胸の奥でぼんやりと思った。
――もし。
もし本当に、自分が恐ろしい“何か”だったとしても
この温もりがある限り、まだ、壊れずにいられるのかもしれない。
静かな夜だった。
二人の間にある距離だけが、いつの間にか、昔より少し近くなっていた。
#恋愛
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須古星 れい
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コメント
1件
うわあ、この回、すごく良かった……。ジオが自分の異変に怯えながらも、サフィアンに「変わってない」って真っ向から言ってもらえるシーン、胸がぎゅっとなりました。あの「ずるい」って返しも、素直になれないジオらしくて。手を握り返す無意識の動作に、距離が確かに縮まってるのが感じられて、すごく温かい気持ちになりました。満月前夜の不安な空気も、逆に二人の絆を際立たせてたなあ。次が気になる!