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そんな大阪出張から二週間が経った。
出張当日の出来事は、俺の記憶に深く刻み込まれていたけれど
幸いなことに烏羽主任がそのことに触れることは一度もなかった。
まるで何もなかったかのように、日常の業務が再開され
俺は安堵と、ほんの少しの寂しさを感じながら日々を過ごしていた。
けれど、あの夜の烏羽主任の言葉と視線が
時折、ふとした瞬間に脳裏をよぎり、俺の頬を熱くさせた。
そんな中、社内での部署合同飲み会が開催された。
いつもは控えるようにしていた酒も
今日は少しだけ羽目を外してしまおうかと、俺は珍しくグラスを重ねていた。
賑やかな会話と、アルコールの酩酊感が心地よく、日頃の緊張が解き放たれていくのを感じる。
しかし、慣れない酒量だったのか
俺の意識は早い段階から混濁し始めた。
視界がぼやけ、周囲の喧騒が遠のいていく。
ふわふわとした浮遊感に身を任せていると
目の前のテーブルが大きく揺れているように感じられた。
「…ん……」
気づけば、俺はテーブルに顔を突っ伏していた。
冷たい木の感触が、熱くなった頬にじんわりと心地よい。
まぶたが重く、開けるのも億劫だ。
意識は朦朧とし、思考は霞がかかったように曖昧だった。
頭の中では、今にも眠りに落ちてしまいそうな睡魔と
まだ飲み会は終わっていないという微かな意識がせめぎ合っている。
その時、周囲から男たちの声が聞こえてきた。
はっきりとは聞き取れないが、俺について何か話しているらしい。
「雪白、完全に潰れてんな」
低い声が、少しだけ笑いを含んで聞こえた。それに続く別の声。
「やっぱ可愛いよな雪白」
「どーする?このまま置いとくわけにもいかないだろ」
さらに別の、少しだけ興奮したような声がする。
俺は薄く目を開けようと試みたが、まぶたは鉛のように重く
結局、諦めて再び意識の淵へと沈みかけた。
「おーい、雪白、立てるか?」
突如、すぐ近くから声がしたかと思うと、俺の右肩に温かい手が触れるのを感じた。
その手が、俺の身体を少し持ち上げようとする。
しかし、重心を失った俺の身体は
その支えを失った瞬間、ふわりと前のめりになった。
そのまま、コテん、と誰かの胸に倒れ込む。
顔に触れるシャツの生地の感触と、微かに漂うタバコと酒の混じった匂い。
「コイツ…」
倒れ込んだ相手の声が、鼓膜を震わせる。
その声には、下卑た響きが混じっていた。
「みんなで回さね…?」
その言葉に、俺はわずかにぞっとした。
酔っていても、その意味するところは理解できる。
背筋に冷たいものが走る。
まさか、そんな
身体を起こそうとしたが、指先に力が入らない。
「いいじゃん」
「しかもこいつケーキらしいじゃん」
重なるように3人の男たちの声が俺の耳に届いた。
身体の奥底から、得体の知れない恐怖が這い上がってくる。
意識がはっきりしない中でも、この状況が危険だと本能的に察した。
どうしよう、と焦りが募る。
しかし、どうすることもできない。このまま眠ってしまったらやばい
けど、お酒のせいで目を見開く力もない…
そう思った、その瞬間だった
ぐいっ、と強い力で俺の身体が引き寄せられた。
先ほどまで感じていたシャツの感触とは違う
もっとしっかりとした、しなやかな布地が頬に触れる。
そして、微かに香る洗練された石鹸の匂いと
烏羽主任独特の、知的でクールな香水のような匂い。
聞き慣れた、そして今は救世主のように聞こえる
低く落ち着いた声が、すぐ頭上から響いた。
「コイツは俺が家まで送り届ける。文句は無いな」
その声は、冷酷なまでに静かで、一切の感情を読み取れない。
周りの男たちのひそひそ声がぴたりと止むのが感じられた。
数秒の静寂のあと
「は、はい…」「もちろんです…烏羽主任」
不承不承といった様子で彼らの肯定の返事が聞こえた。
その声を聞いて、俺は安堵の息を漏らした。
そのまま、烏羽主任の腕の中にすっぽりと収まった状態で、意識を手放した。
次に俺が意識を取り戻したのは、身体を揺らす微かな振動を感じた時だった。
ゆったりとした揺れと、窓の外を流れる街の光。
薄く目を開けると、視界の隅に烏羽主任の横顔が見えた。
夜の闇に浮かび上がる彼の輪郭は、いつもよりずっと優しく、それでいて頼もしく感じられた。
しかし、睡魔に襲われた俺はそこで意識を手放した。
次、目が覚めると
どこか見覚えのある天井と
使い慣れたシーツの感触に、俺の意識が急速に覚醒していく。
「…ん……?」
ぼんやりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、見慣れた俺の部屋の天井だった。
身体を起こそうとすると、頭の芯にズキリとした痛みが走る。
しかし、それよりも衝撃的な光景が、俺の視界に飛び込んできた。
視線の先には、ベッドサイドに立つ烏羽主任の姿があった。
彼は腕を組み、静かに俺を見下ろしている。
その表情には、いつものような冷徹さはなく
しかし微かな不機嫌さが窺えた。
俺は驚いて、勢いよく起き上がった。
その拍子に、また頭がガンガンと痛む。
「な、なんで烏羽主任が?!…ってか、ここ……俺の、家?」
声は掠れていて、まるで別人のようだった。
状況が全く理解できない。
なぜ、烏羽主任が俺の部屋にいるのか。
そして、なぜ俺がベッドに寝かされているのか。
「お前が酔い潰れたから送ってやったんだ、日頃から何事も適量を考えろと言っているだろ」
烏羽主任の声は、普段の冷静さを保ちつつも
どこか呆れたような響きがあった。
その言葉で、昨夜の飲み会の記憶が断片的に蘇る。
同僚たちの声、そして烏羽主任に助けられたこと。
「す、すみません…っ」
反射的に謝罪の言葉が口から出た。
顔が熱くなる
また、主任に迷惑をかけてしまった。
情けない
日頃から完璧を求める烏羽主任に、こんな無様な姿を見せてしまったことが
ひどく恥ずかしく、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
そこで急に俺は視界がにじみ、涙目になっていくのがわかった。
とめどなく、眼から熱いものが溢れそうになる。
それは、単なる羞恥や罪悪感だけではなかった。
今まで積み重ねてきた努力
主任に認められたい一心で頑張ってきた日々が、このたった一度の失敗で
全て無駄になってしまったような絶望感が俺の心を覆い尽くした。
「俺…また烏羽主任に迷惑かけちゃって…情けないです」
震える声で、絞り出すように言う。
言葉の端々に抑えきれない悔しさと自己嫌悪が滲み出ていた。
なぜ、こんなにも情けないのだろう。
烏羽主任は、そんな俺の様子にわずかに眉をひそめた。
「急に、どうした」
彼の声には、困惑と
そして微かな心配の色が混じっているように聞こえた。
その声を聞いて、俺の涙腺はさらに緩んだ。
「俺…っ、最初のころ、本当にミスばっかでしたけど、最近頑張ってミス減らせるようになったつもりなんです…っ」
視界が涙でぼやけ、烏羽主任の顔が歪んで見える。
入社当初の俺は、本当に何もできなくて、烏羽主任から何度叱責されたかわからない。
それでも、彼の期待に応えたい一心で、必死に食らいついてきた。
努力して、努力して、ようやく少しは役に立てるようになったと思っていたのに。
「まあ、それは見てればわかる。だいぶ減ってきただろ」
意外にも、烏羽主任の口から出たのは、肯定の言葉だった。
主任は、ちゃんと見ていてくれた。
俺の努力を、認めてくれていた。
その事実に、胸が熱くなる。
「おれ…主任のこと尊敬してるし、凄く好きで……っ、主任に褒めてもらえると凄くモチベになるし嬉しくて、もっと役に立ちたいっていつも思ってるん、です…」
嗚咽が喉の奥でせり上がり、声が震える。
情けないほど震える声だった。
自分でも何を言っているのか、支離滅裂になっているような気がした。
それでも、この胸の内に押し込めていた本心を
今、この瞬間に吐き出さなければ、もう二度と機会は訪れないと
そんな焦燥にも似た感情に突き動かされていた。
「だから…迷惑かけないようにしようって思ってたのに、また主任の手を煩わせて……情け、なくて……っ」
ぽたぽたと、目からこぼれ落ちる雫が頬を伝う。
熱い涙が、冷たい肌の上を滑り落ちていく感覚が妙に鮮明だった。
鼻の奥がツンとして、息をするのも苦しい。
憧れの、尊敬する烏羽主任の前で
こんなにも醜態を晒している自分が、どうしようもなく情けなかった。
尊敬、好き
その言葉が、烏羽主任の耳にどう届いたのかはわからない。
彼の表情は、相変わらず冷静で、何を考えているのか読み取ることができなかった。
しかし、この感情は嘘偽りない俺の本心だった。
彼に認められたい。
彼のために役に立ちたい。
その一心で、俺はこれまでがむしゃらに頑張ってきたのだ。
どんな困難な仕事も、烏羽主任に褒められるところを想像したら乗り越えられると信じて
必死に食らいついてきた。
なのに、その主任にまたしても迷惑をかけてしまった。
自分の不甲斐なさで、彼の時間を奪い
彼の気遣いを引き出してしまった。
そのことが、たまらなく情けなくて、悔しくて
俺は深く俯いた。
視線を上げることができない。
地面に吸い込まれてしまいそうなほど、身体が重かった。
すると、不意に、ひんやりとした指先が頬に触れた。
熱を持った俺の頬に触れた指は、僅かに震えているように感じた。
そっと、涙の跡を拭うように撫でられる。
その優しい感触に、さらに胸が締め付けられる。
しばらくの沈黙が、部屋を満たした。
しんとした空気の中で、自分の荒い呼吸だけがやけに響く。
この沈黙は、彼が俺の言葉をどう受け止めているのか、考えるための時間なのだろうか。
それとも、ただ呆れているだけなのだろうか。
様々な思いが交錯し、心臓が不安と期待で大きく波打った。
その空気を破ったのは
「……お前、俺のこと好きなのか」
烏羽主任の、いつもと変わらない低くて静かな声だった。