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ruruha
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羽海汐遠
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第3話 本人回収確認
未来市場は、朝からにぎわっていた。
朝といっても、上方の色で決まる朝ではない。
高い屋根の下に、ゆっくり明るさが満ちる。
店先の灯りが順番に点き、通路の床がやわらかく光る。
野菜に似たもの。
果物に似たもの。
布に似たもの。
道具に似たもの。
どれも見たことがあるようで、少しずつ違っていた。
三百二十は、通路の端で立ち止まった。
人が多い。
声が多い。
匂いが多い。
未来の市場は、江戸の橋下とも、明治の港町とも違っていた。
「口を開けて見るな」
十八が横で言った。
三百二十はあわてて口を閉じた。
「すみません」
「初めてなら仕方ない」
「十八は慣れているんですか」
「慣れたふりはできる」
十八は記録筒を軽く押さえた。
「今日は回収任務じゃない。巡回だ」
「巡回」
「異物が落ちていないか確認する。市場は物が集まる。物が集まる場所には、時代違いの物も混ざる」
「つまり、何も起きないかもしれない」
「それが一番いい」
十八は歩き出した。
三百二十も続いた。
通路の左では、透明な箱の中で小さな葉が踊っていた。
右では、湯気を出す丸い菓子が並んでいる。
店員が笑顔で呼びこむ。
客が手を伸ばす。
小さな支払い板が鳴る。
その音が、遠い鈴みたいに重なった。
「緊張しているな」
「はい」
「巡回で緊張するなら、まだいい」
「まだ?」
「緊張しなくなった新人ほど危ない」
十八は通路の先を見た。
そこで、少し離れた位置に立つ男がいた。
深い茶色の上着。
灰色の手袋。
背筋がすっと伸びている。
まわりの人の流れと違う速度で立っていた。
止まっているのに、目だけが動いている。
「百七」
十八が声をかけた。
百七はゆっくり振り向いた。
「十八」
それから三百二十を見た。
「新人か」
「三百二十です」
三百二十は頭を下げた。
百七はうなずいただけだった。
そのうなずきが、判を押す音のように短かった。
「市場巡回か」
「そうだ」
「そちらは」
「別件を終えた」
「何かあったか」
「現代の折りたたみ傘が、未来衣料の見本台に刺さっていた」
「刺さっていたんですか」
「開いたまま」
「なぜ」
「持ち主が逃げた」
「なぜ逃げたんですか」
「値段を見て」
十八が軽く咳をした。
三百二十は黙った。
未来市場には、何でもある。
だが何でもあってはいけない。
それが回収員の仕事だった。
その時、通路の向こうで小さなざわめきが起きた。
店員の一人が顔を上げる。
隣の店の人も振り向く。
買い物をしていた客が、少し背伸びをする。
「来た」
誰かが言った。
三百二十は何が来たのかわからず、周囲を見た。
「今日は何を落とすかな」
「前は傘だったよね」
「その前は紙束」
「私は小銭袋に一票」
「筆じゃない?」
「いや、あの人は食べ物も危ない」
声は小さい。
でも楽しそうだった。
祭りの前みたいな、少し浮いた声だった。
百七の目が細くなった。
十八も同じ方向を見た。
人の流れの中に、茶色の上着が見えた。
布の肩掛け鞄。
スケッチ帳。
少し跳ねた髪。
のんびり歩いているのに、どこか目立つ。
三百二十の胸が鳴った。
「磁馬」
十八が言った。
百七は短く息を吐いた。
「巡回を広げる」
「だな」
十八が記録筒を開いた。
三百二十は二人を見比べた。
「まだ何も落としていませんよね」
「今はな」
百七が言った。
「でも、磁馬です」
三百二十は言いかけた言葉を飲んだ。
磁馬を見かけたら周辺を捜索しろ。
初任務の日、十八に言われた内規。
江戸の橋下で、三百二十はその意味を少し知った。
けれど、まだ全部ではない。
今日、またその内規が動き出した。
磁馬は市場の奥へ向かっていた。
店先で立ち止まり、何かを見ては笑う。
見たことのない果物を手に取り、店員と話す。
スケッチ帳を開いて、簡単に線を引く。
周囲の人がのぞきこむ。
店員がそっと隣の店員を呼ぶ。
子どもが親の袖を引く。
「あれ、磁馬だよ」
「知ってる。落とし物の人」
「絵の人でしょ」
「どっちもだよ」
磁馬は照れたように頭を下げる。
「人気者ですね」
三百二十が小さく言った。
「どの時代でもそうなる」
十八が答えた。
「なぜですか」
「人を警戒させない」
百七が言った。
「それでいて、物を落とす」
三百二十は返事に困った。
磁馬は市場の中央広場へ出た。
そこには丸い噴水があった。
水ではない。
細かな光の粒が下から上へ流れ、上でほどけて消えていく。
磁馬はそれを見て、目を輝かせた。
すぐにスケッチ帳を開く。
その瞬間、広場の気配が少し変わった。
店員たちは仕事をしながら、ちらちらと磁馬を見る。
客たちも足を止めすぎないようにしながら、少しだけ遠巻きに見る。
まるで、名物の大道芸が始まる前みたいだった。
「今日こそ落とさないかな」
「いや、磁馬だぞ」
「でも前回は帰るまで落とさなかったらしい」
「それは調子が良すぎる」
「連続記録が切れるかもしれない」
三百二十は思わず百七を見た。
「本当に有名なんですね」
「未来市場では特に」
百七は淡々と言った。
「来訪記録が多い」
「落とし物記録もですか」
「多い」
十八が短く言った。
「集中しろ」
「はい」
磁馬は立ったまま描き始めた。
線が走る。
止まる。
また走る。
紙の上に、未来市場の光が少しずつ集まっていく。
三百二十はその手元を見たかった。
だが十八に目で止められた。
「見すぎるな」
「はい」
「仕事中だ」
「はい」
「返事は」
三百二十は口を閉じ、うなずいた。
その時、磁馬の腰で何かが揺れた。
小さな袋。
茶色の小銭袋。
紐がゆるんでいた。
磁馬は気づかない。
描くことに夢中になっている。
三百二十の目がそこへ吸い寄せられた。
袋が、また揺れる。
人がすれ違う。
市場の子どもが走る。
磁馬が一歩横へずれる。
小銭袋が、すとん、と落ちた。
床に当たり、小さく跳ねる。
ころりと転がる。
光の噴水の影に入り、広場の端へ向かった。
広場のあちこちで、小さな声が上がった。
「あ」
「落ちた」
「小銭袋だ」
「当たった」
「今回、早いな」
三百二十は一歩出た。
十八の手が肩に乗った。
「待て」
「落ちました」
「知っている」
「拾わないんですか」
「回収対象ではない」
「でも、磁馬の物です」
「だからだ」
百七が低く言った。
磁馬はまだ気づいていない。
絵を描いている。
市場の光を追っている。
小銭袋は広場の端、移動屋台の車輪の近くで止まった。
三百二十は喉が乾くのを感じた。
あれを誰かが持っていったら。
車輪に踏まれたら。
床の下へ落ちたら。
磁馬は探す。
ずっと探す。
でも、広場の人々は慌てなかった。
店員の一人が、さりげなく屋台の動きを見た。
別の店員は子どもが小銭袋へ近づかないように菓子を見せた。
誰かが拾おうとはしない。
ただ、みんな見ている。
有名人を見る目。
名物を見守る目。
でも、少しだけ真剣な目。
「本人が気づくまで待つ」
十八が言った。
「なぜですか」
「本人回収確認」
百七が答えた。
「磁馬案件では、まず本人の捜索を確認する」
「見つけられなかったら」
「その時に動く」
「でも」
百七の目が三百二十を向いた。
「磁馬は見つける」
その声には、ただの予想ではない重さがあった。
磁馬が筆を止めた。
鞄へ手を伸ばす。
何かを探る。
右のポケット。
左のポケット。
腰。
そこで手が止まった。
磁馬の顔から、すっと笑みが消えた。
「あ」
声は聞こえなかった。
でも口の形でわかった。
広場の人々が、ほんの少しだけ前のめりになる。
「あ、気づいた」
「ここからだ」
「がんばれ」
「声はかけるなよ」
「わかってる」
三百二十はその声に驚いた。
みんな知っている。
磁馬が探すことを。
自分で見つけることを。
それを邪魔しないことを。
磁馬は鞄を開けた。
閉じた。
もう一度開けた。
腰を見る。
床を見る。
周りを見る。
十八が記録筒を開いた。
「磁馬、落とし物認識」
百七が広場の右へ動く。
「広場外周、確認」
三百二十は十八を見た。
「僕は」
「左を見ろ。拾うな。触るな。動かすな」
「はい」
「ただし、誰かが持ち去ろうとしたら止めろ」
三百二十はうなずき、広場の左へ歩いた。
未来市場の人の流れは速い。
知らない靴。
知らない袋。
知らない服。
足元ばかり見ていると、自分がどの時代にいるのかわからなくなる。
小銭袋は見えている。
移動屋台の車輪の近く。
茶色の小さな袋。
誰も拾わない。
でも、誰も見失っていない。
磁馬は噴水の周りを歩き始めた。
床を見る。
店先を見る。
自分の通った道を戻る。
店員に何かをたずねる。
店員は首を振る。
けれど、その顔はどこか温かい。
「まだこっちには来てませんよ」
「さっき、噴水の方にいました」
「足元、気をつけて」
「今日は小銭袋ですか」
磁馬は少し困った顔で頭を下げた。
「はい。たぶん」
店員が小さく笑った。
「見つかりますよ」
磁馬も小さく笑う。
「見つけます」
三百二十は、そのやり取りを聞いた。
見つかりますよ。
見つけます。
まるで、未来市場ではそれが合言葉のようだった。
磁馬はしゃがみ、床をのぞいた。
別の袋を見つける。
違う。
誰かの買い物札だった。
磁馬は店員へ渡す。
店員が驚いて頭を下げる。
周りの客が少し笑う。
「自分のを探してるのに」
「先に人のを返した」
「磁馬らしいね」
三百二十は小さく息を吐いた。
自分の落とし物を探しながら、他人の落とし物を返している。
百七が近づいてきた。
「焦っているな」
「はい」
「拾いたいか」
「はい」
「なぜ」
「すぐそこにあるからです」
「それだけか」
三百二十は言葉に詰まった。
それだけではなかった。
困っている人がいる。
見つけられる場所に、自分がいる。
手を伸ばせば届く。
「助けたいです」
百七は小銭袋を見た。
「それは悪くない」
「では」
「だが、助け方はひとつじゃない」
百七は広場の向こうを見た。
磁馬はまだ探している。
額に少し汗がにじんでいた。
「磁馬は、落とした物を自分で見つける。それを大事にしている」
「どうしてですか」
「知らない」
百七は静かに言った。
「だが、何度も見た。あの人は、落とした物をただの物として拾わない。そこまでの道も一緒に拾っている」
三百二十は小銭袋を見た。
小さな茶色の袋。
中にはきっと、この時代の市場では使えない銭も混ざっている。
磁馬が旅の中で集めたもの。
誰かに払うためだけではなく、どこかの町の匂いも、道の音も、少しずつ入っているのかもしれない。
その時、移動屋台が動き出した。
車輪が小銭袋に近づく。
三百二十の体が先に動いた。
屋台の前に出る。
「すみません」
屋台の人が止まった。
「どうしたの」
「落とし物が、車輪の近くに」
「え?」
屋台の人が足元を見た。
小銭袋に気づく。
手を伸ばそうとした。
三百二十の胸が跳ねた。
触らせていいのか。
止めるべきか。
その瞬間、磁馬の声がした。
「あ、それ、たぶん私のです」
広場のあちこちで、小さな息がもれた。
「あった」
「来た」
「今回も見つけた」
「やっぱり」
磁馬が駆け寄ってきた。
息が少し上がっている。
でも顔はほっとしていた。
屋台の人は手を止めた。
「これかい」
「はい。ありがとうございます」
磁馬はしゃがみ、小銭袋を拾った。
指で軽く払う。
紐を確かめる。
袋を開け、中をのぞく。
それから大きく息を吐いた。
「あった」
その声は、江戸の橋の時と同じだった。
小さくて、深い。
落とし物が戻った音だった。
その瞬間、広場から小さな拍手が起きた。
大きなものではない。
騒ぎになるほどでもない。
でも、何人かの店員が手をたたき、客が笑い、子どもが跳ねた。
「連続記録、継続だ」
「さすが磁馬」
「今日は早かったね」
「小銭袋は危なかった」
「屋台に踏まれなくてよかった」
磁馬は驚いたように周囲を見た。
それから、照れたように頭を下げた。
「お騒がせしました」
店員の一人が言った。
「いつものことです」
磁馬はさらに困った顔になった。
でも、少し笑っていた。
十八が少し離れたところで記録筒を開いた。
百七が短く言った。
「本人回収確認」
三百二十はその言葉を、今度は近くで聞いた。
磁馬は屋台の人に何度も頭を下げた。
それから、三百二十の方を見た。
目が合った。
三百二十は動けなくなった。
磁馬はにこりと笑った。
「止めてくれて助かりました」
「あ、いえ」
「大事な袋なので」
磁馬は小銭袋を腰に結び直した。
今度はしっかり結んでいる。
「よく落とすんです」
三百二十は返事に迷った。
知っています。
とは言えない。
「見つかってよかったです」
やっと、それだけ言った。
磁馬はうなずいた。
「落とした物は、見つけるまで落ち着かないので」
「どうして、そこまで探すんですか」
聞いてから、三百二十はしまったと思った。
回収員としては近づきすぎた質問だった。
けれど磁馬は怒らなかった。
少し考え、広場の光の噴水を見た。
「物は、勝手に旅をしたくて落ちるわけじゃないと思うんです」
磁馬は小銭袋に手を当てた。
「持ち主の手から離れたら、きっと不安になる。だから迎えに行きます」
三百二十は何も言えなかった。
磁馬は続けた。
「それに、探している間に、見ていなかった景色を見ることもあります」
広場。
屋台。
足元。
人の手。
店の声。
「落としたせいで見えるものもあるので」
磁馬は少し照れたように笑った。
「だから、落とさない方がいいんですけどね」
三百二十は思わず笑いそうになった。
でも回収員なので、少しだけこらえた。
十八が近づいてきた。
「見つかりましたか」
何も知らない通行人のような声だった。
磁馬は十八を見た。
一瞬だけ、目の奥がわずかに動いた。
気づいている。
三百二十にはそう見えた。
「はい。無事に」
「それはよかった」
十八は淡々と言った。
百七も少し離れて立っている。
磁馬は三人を順に見た。
それから、いつものように軽く頭を下げた。
「では、私は絵の続きを」
磁馬は噴水の方へ戻っていった。
今度は腰の小銭袋を何度も確かめながら。
三百二十はその背中を見送った。
茶色の上着。
布の肩掛け鞄。
スケッチ帳。
小銭袋。
少し頼りなくて、でもまっすぐな背中だった。
周囲の店員たちも、その背中を見ていた。
有名な画家を見る目。
名物の人を見る目。
けれど、ただ眺めているだけではなかった。
誰もが、磁馬が自分で見つけるところまで見届けたかったのだ。
「三百二十」
十八が呼んだ。
「はい」
「報告」
三百二十は背筋を伸ばした。
「磁馬、未来市場中央広場にて小銭袋を落とす。本人、落とし物を認識。周辺捜索を実施。屋台車輪付近で対象確認。持ち去り、破損の可能性があったため屋台を停止。本人が到着し、対象を回収」
十八がうなずく。
百七が言った。
「最後」
三百二十は少し息を吸った。
「本人回収確認」
百七の目が少しだけやわらいだ。
「よし」
三百二十は、胸の奥に小さな熱が灯るのを感じた。
回収はしていない。
記憶処理もしていない。
異物も封印していない。
けれど今日の仕事は、たしかに仕事だった。
市場の上で、光の粒が舞い上がる。
磁馬はその前で絵を描いている。
小銭袋は腰にある。
それだけで、広場の気配が少し落ち着いたように見えた。
十八は記録筒に書いた。
未来市場。
磁馬案件。
小銭袋。
本人回収確認。
それから少しだけ考え、もう一行足した。
市場関係者、磁馬の捜索を見守る傾向あり。
三百二十はその文字を横から見た。
たったそれだけ。
でも、その中には長い時間が入っていた。
落ちた瞬間。
探す足音。
屋台の車輪。
市場の小さな拍手。
磁馬の「あった」という声。
袋を結び直す手。
記録は短い。
けれど現場は短くない。
百七が歩き出した。
「巡回を続ける」
「まだですか」
三百二十が思わず言った。
十八が横目で見る。
三百二十は口を閉じた。
百七は少しだけ振り向いた。
「磁馬がまだ市場にいる」
その一言で、三百二十は理解した。
まだ終わっていない。
磁馬は絵を描き終えたらしい。
店員に見せている。
周りの人が集まっている。
誰かが拍手をした。
磁馬は困ったように笑う。
そして、鞄を開ける。
閉じる。
歩き出す。
三百二十は反射的に足元を見た。
十八も見た。
百七も見た。
周囲の店員たちも見た。
何も落ちていない。
三人と市場の人々は、少しだけ沈黙した。
それから十八が言った。
「今日は調子がいい」
百七がうなずいた。
「そうだな」
近くの店員も小さく言った。
「今日は調子がいいね」
三百二十は、こらえきれずに少し笑った。
未来市場の巡回は続いた。
小さな時代違いの品が二つ見つかった。
ひとつは古い時代の木札。
もうひとつは、まだ発売前の調味料容器。
どちらも大きな騒ぎにはならず、回収鞄に収まった。
だが三百二十の心に残ったのは、小銭袋だった。
回収対象ではない小さな袋。
拾うべきか、見守るべきか迷った数分。
周囲の人たちが、磁馬を少し楽しみにしながら見ていた数分。
その数分が、妙に長く残った。
局へ戻るころ、未来市場の灯りは夕方の色に変わっていた。
夕方といっても、やはり上方で決まるわけではない。
店の灯りが少し落ち、通路の床がやわらかい茶色を帯びる。
人の声も、少しだけ丸くなる。
磁馬はまだ市場にいた。
別の店先で、何かを食べていた。
小銭袋は腰にある。
スケッチ帳もある。
鞄のふたも閉じている。
三百二十はそれを確認してから、扉へ向かった。
時代整理局へ戻ると、通路はいつもの静けさだった。
未来市場のざわめきが、背中から少しずつ離れていく。
報告室で、三百二十は机に座った。
筆を取る。
今日の報告を書く。
未来市場巡回。
時代異物二件、回収完了。
磁馬案件一件。
小銭袋落下。
本人捜索確認。
屋台移動による破損可能性あり。
介入最小限。
本人回収確認。
そこまで書いて、三百二十は筆を止めた。
最後に、少し迷ってから書き足した。
未来市場では、磁馬の落とし物捜索を見守る文化がある。
見守ることは、何もしないことではない。
書いてから、これは報告書にふさわしくないかもしれないと思った。
消そうとした時、十八が後ろからのぞいた。
「残せ」
「いいんですか」
「新人の報告には、新人の目がいる」
十八は記録筒で机を軽く叩いた。
こん、と音がした。
百七も入口に立っていた。
「悪くない」
それだけ言って、去っていった。
三百二十は報告書を見つめた。
悪くない。
百七にそう言われると、なぜか今日の巡回がきちんと終わった気がした。
夜ではない。
朝でもない。
時代整理局には、いつもの時間が流れている。
どこかの時代で、また何かが落ちる。
誰かが拾う。
誰かが見つける。
誰かが見守る。
三百二十は筆を置いた。
手を見た。
今日、自分は小銭袋を拾わなかった。
けれど、見失わなかった。
持ち主が迎えに来るまで、そこにあることを守った。
未来市場の人々も同じだった。
少しわくわくしながら。
少し笑いながら。
でも、誰も持ち主の時間を奪わなかった。
それも回収員の仕事なのだと、少しだけわかった。
報告書の最後の行に、三百二十は丁寧に書いた。
本人回収確認。
その文字は短かった。
けれど、未来市場の光よりも長く、三百二十の中に残った。
コメント
1件
わあ…「本人回収確認」、このエピソードすごく好きでした。 磁馬が落とした小銭袋を、みんなが知ってて見守ってる感じが温かくて。拾わずに「本人が見つけるまで待つ」っていう回収員のルール、最初はもどかしかったけど、最後にはすごく意味があることなんだって伝わってきました。 三百二十が「守った」って思えた瞬間、私も一緒にほっとした。 「記録は短くても現場は短くない」、この一文が染みました…。