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もういいかい――
――まぁだだよ
メイ子はうつつの中で子供の声をきいたような気がして、目を覚ました。ベッドにあるデジタル時計は“23時55分”を表示している。どうやら、うたた寝をしてしまったようだ。メイ子はにぶい動作で起き上がると、ベッドの端に腰掛けた。
アツ……
タンクトップに短パン姿で扇風機に当たる。額からじんわり、汗が滴り落ちてきた。くるくる回る三枚の羽根は、ひたすらぬるい風を送り続けるだけで、ちっとも涼しくならなかった。渦を巻いた蚊取り線香は残り僅かだった。
家は十階建てのマンションの最上階。西に向いたメイ子の部屋は、お昼間は容赦のない陽射しをまともに受け、夜になっても熱がこもったままだった。暑さにたまりかね、風通しを良くしようと、引いていた遮光カーテンを開けた。 シュンシュンと金属音を響かせながら隣街に向う電車が、勾配のついた線路を勢いよく駈け登るのが見えた。街灯りの背後に控える六甲の山々は、まるで影絵のようにぼんやりと浮かび上がって見えた。
そうだ、いっそのことベランダで寝てみようか?
いや、ダメだ。蚊に刺される。 メイ子の肌は極端に弱かった。一度さされると腫れが何日も続いた。最近は日光アレルギーも出るようになって、実に困ったものである。
「お日様からかくれんぼしているような生活、ああぁ……いやだ。あたし、完璧なる夜型人間だよ。喉が渇いたし、いっそ夜型人間らしく、冷たいものでも買いに出かけようかな」 メイ子は勢いよくベッドから立ち上がると、クローゼットを開けた。
「はぁ……最近のお母さんってば、あたしのこと、娘じゃなく息子だと思っているんじゃないかしら……」
近ごろ母親が買ってきた服は、どういうわけか男ものばかりだった。メイ子はしかたがなしにタンクトップの上に、鼠色のパーカーを羽織った。
玄関に置いてある青い色のビーチサンダルをひっかける。洗面所から顔にパックをつけた母親が、目だけギョロリとさせながら姿をみせた。
「母さん、あたし、コンビニにいってくるわ」
母親は返事をすることなく、そそくさと顔をひっこめる。
「愛想ワルッ。あれで母親? 真夜中に顔パックって。やっぱうちの親、変かも」 メイ子はぶつぶつと悪態をついた。
玄関から廊下に出る。寿命を迎えた蛍光灯がパチパチと点滅を繰り返す。黄色みがかった明かりに、鱗粉《りんぷん》を撒き散らす蛾が群がっていた。
メイ子は蛾に身震いしつつ、点滅する照明の真下を避けながら、エレベーターのボタンを指の先で叩くように押した。
真夜中に乗る者はいない。ベーターカゴはすぐに上昇してきた。
ゆっくりとドアが開く。正面に鏡がついていた。 なぜこんなところに鏡?
自分の顔を見るたびにそう思う。メイ子は足早に乗り込むと、鏡に背を向けた。自分を避けるかのようにフードを被った。
エレベーターはノンストップで一階に下りる。薄暗いエントランスを通り抜け、マンションの自動ドアから表通りへと出た。
半年前、周辺の街灯がようやくLED照明に切り替わったばかりだった。通りに煌々した輝きが点々と続いていた。
新しくなった強い光にも蛾は群がっていた。虫が多いのは、周辺に畑があるからだ。都市化が進み、農家が土地を切り売りして分譲マンションを建てる。したがってメイ子のマンションもネギ畑の真ん中にあった。
通りと用水路、そして私鉄の線路が東西に平行するように町を分断していた。近くのコンビニへ行くには、マンションから数十メートル先にある踏切を渡るしかなかった。
――この踏切、あまりいい印象を与えなかった。お昼間になるとカラスがカーカーとしつこく鳴き、枕木をつつきにくる。そんな時は決まって頭痛を引き起こした。
カンカンカンカンーー
警報器が鳴る。大阪方面ゆきの最終電車やってくる。遮断機が下りるまえに、メイ子は急いで踏切を渡った。電車が通過する。その風圧たるや、メイ子は背中が押されたように感じた。
コンビニをうろついたものの、結局、買いたいものがなかった。メイ子は手ぶらで店を出た。近所のコンビニは、いつも飲んでいる炭酸水を置かなくなった。
CMをしていたし、そこそこ人気の商品だったのに。店員は無愛想だし、使えないコンビニだと憤った。メイ子はため息を吐きだした。
再び踏切を渡る。マンションの下まで戻ると玄関のオートロックを解除し、エレベーターに乗った。 ドアが閉まる寸前、住人の一人が乗り込んできた。大学生風の若い男だった。最近になって、何度も遭遇している。黒いスポーツバックを肩から提げ、たいてい深夜の遅い時間に帰ってきている。
若い男は目を逸らし、メイ子を無視した。
いけすかない野郎だ。
メイ子はそう警戒するのだった。したがって、こちらも遠慮なく無視することにした。エレベーターが開くと、男は先急ぐように降りてしまった。
男の辞書にレディーファーストという文字は存在しないのかとメイ子は憤る。エレベーターを降りた時にはすでに男の姿はなかった。
ふとメイ子は気が付いた。照明が点滅する廊下に、きらりと光るものがあった。
「なんだろう?」
そう思って近づいてみると、床にDVDディスクが落ちている。 家を出たときにはなかった。まさか、あいつが落としていったのだろうか? とエレベーターで遭遇した男を思い浮かべる。考えてみたら、同じ階に住んでいるはずなのに男の家を知らなかった。
いつもエレベーターで遭遇し、メイ子が降りた時には男の姿はなく、すでに自宅の中にいる。ここは九百世帯が入居する大型マンション。男が同じフロアのどこにいるのかまるで見当がつかなかった。
「管理人に届けようか……」 考えた挙句、メイ子は面倒になって持ち帰ることにした。
玄関を開けると廊下の電気は消えていて、すでに家族は寝静まっていた。
メイ子は手にしたディスクが気になった。
「もしかすると、何かいかがわしいものでも録画されていたりして」
メイ子はリビングに行く。暗がりの中で、食卓にあるノート型パソコンを開いた。後ろめたい気持ちもあったが、好奇心の方が勝った。いけないものを覗き見る心境で、こっそりDVDの再生を試みた。
画面に映しだされた映像は、なんと見覚えのある部屋だった。
「なに、これ! あたしの部屋?」
ベッドの上に座るメイ子がいた。少ししてから部屋を出入りしている姿が映っている。
日付は【2020.8.12/ 23:55】
「これ……いつのまに? いったい誰が撮ったの?」 背筋がゾゾゾっと寒くなるった。「もしかして、ストーカー?」
メイ子は椅子をガタンと音を響かせながら立ち上がる。ダッシュで駆け戻ると部屋を見回した。探しものはすぐに判明した。クローゼットの上に小型ハンディーカムが置いてあったのだ。
メイ子はハンディーカムを取る。赤い表示の“REC”は、つまりは今も録画されているということだ。録画を止めて再生ボタンを押した。 “メイ子がベッドに寝ている。しばらくして起き上がり、ベッドに座り、クローゼットから服を取り出して……” ハンディーカムにはついさっきの出来事が録画されていた。犯人は昨日のメイ子の様子をDVDに焼いていたことになる。
目的はなんだ? 怖い! どうしょう。
「お母さん!」 メイ子は廊下に飛び出した。するとほぼ同時に人影がメイ子の部屋に飛び込んできて思い切りぶつかった。
はたと目を覚ました――。 メイ子は時計を見る。デジタルの数字が11:55分を表示していた。
夢を見たのだ。それも、なんだかとってもリアルな夢だった気がする。
アツ…… この部屋、どうしてこんなに暑いのだろう。扇風機はくるくると回り続け、ぬるい風を送りつけた。真新しい渦巻型の蚊取り線香が炊かれていた。 メイ子は遮光カーテンを開ける。電車が通り過ぎ、窓の外に六甲の山々を背景にした夜景が広がっていた。窓から生ぬるい風が入ってきた。
「ああ……、とても喉が渇いた」 メイ子は鼠色のパーカーに着替えると部屋を出た。玄関で青いビーサンをひっかける。 頭にバスタオルを巻き、顔にパックを貼り付けた母親が洗面所から顔を出すものの、すぐさま引っ込んだ。顔にパックって、変な親だとメイ子は思うのだった。ついさっきも目にしたような光景にメイ子は首をかしげる。 白熱する蛍光灯に蛾が群がっていた。 エレベーターに乗り込み、気味の悪い鏡に背を向ける。マンションを出て、踏切を渡る途中で警報機が鳴った。 カンカンカンカン―-
遮断器がおりて、背後を通過する電車の風圧を感じた。
メイ子はコンビニへと入る。店員は眉をひそめた。相変わらず居心地の悪い店だと思うのだった。店内をうろつくも買いたい炭酸水はやはり売り切れていた。「あれじゃなきゃダメなのに」 店員は無愛想だし、使えないコンビニだ。ついさっき、同じ感情を抱いた気がする。
ふとメイ子は立ち止まった。 これって|既視感《デジャヴ》? マンションに引き返し、エレベーターに乗る。すると、若い男が乗り込んできた。男は視線を逸らし、メイ子を無視する。男は体調がすぐれないのか、顔は青ざめ、落ち着きのない態度だった。 最上階でドアが開くなり、男は駆け出した。 呆気に取られたメイ子は、やや遅れてエレベーターを降りた。まるでかくれんぼするみたいに男は忽然と姿を消した。 蛍光灯の真下に銀色に光るDVDディスクが落ちている。 そういえば、夢の中でも拾った気がする。メイ子はぼんやりと夢を思い返した。
ディスクを拾うとリビングへ直行する。パソコンで再生を試みた。 画像に見覚えがある。映っていたのは自分の部屋だとすぐに気がついた。
画像のメイ子はベッドに横になっている。 なんだか違和感を覚える。 何だろう。 【2020.8.13⁄23:55】に動画は始まっていた。 今日は何日だ? パソコンの画面の日付は”8.14/01:30”深夜を過ぎていた。 真夜中の零時“5分”前に撮られたものだと判った。これは、今しがたに起きた出来事なのだ。 コツンと廊下の先で物音がする。メイ子はリビングから廊下を覗いた。人らしき影がぼんやりと立っている。影はメイ子に驚いて、玄関を飛び出した。音を立ててドアが閉まる。
見知らぬ誰かが我が家に出入りしている。メイ子は混乱し、玄関まで行くと鍵をかけた。それから、自分の部屋に飛び込んだ。すると、見たことのあるハンディーカムがベッドの上に投げ出してあるではないか。
震える手で、再生ボタンを押す。 暗闇で人影がハンディーカムをいじる姿が映しだされている。人相までは判らないが、シルエットからエレベーターで遭遇する男のように感じた。
録画日時は【2020.8.14⁄01:17 】 目覚まし時計の時刻は”01:18” これは、たった1分前の出来事だ。 勝手に人の家に上がり込む男はだれだ? メイ子は恐ろしくなり体を震わせた。 警察に行かなきゃ。 警察に行かなきゃ。 警察にーー
はっとして目を覚ました。
あたし……、夢を見ていた? 扇風機は止まっている。メイ子は蚊取り線香の充満していた煙にむせ返った。クローゼットを見上げると、そこにハンディーカムが忽然と置いてあった。メイ子は息を呑み込み、さらに咳き込んだ。これは夢なんかじゃないと考えた。ハンディーカムに手を伸ばし、録画を止める。 たった今の時刻はーー【2020.8.16 /23:56】 それから、これまでの録画を見るーー ︙ 【2020.8.12⁄23:55】 【2020.8.13⁄23:55】 【2020.8.14⁄23:55】 【2020.8.15⁄23:55】 ビデオに映るメイ子は判で押したように《《午前零時まであと5分》》の23時55分に目を覚ましている。 これ…… デジャヴなんかじゃない! メイ子は混乱する頭で考えた。どうして同じ時間に目が覚めるのかは一旦おいておくことにした。
「そーだ。パターンを変えてみたらどうかしら」そう思い立つと、すぐさま行動に移した。 コンビニへは行かずに、一階の観葉植物の陰に隠れて男を待ち伏せする。 ほどなくして、エントランスにあの男が入って来た。エレベーターに乗ったところでメイ子も乗り込んだ。大きな荷物をかかえた男は、乗り込んできたメイ子に明らかに驚いていた。 十階に着くや否や、男が駆け降りる。メイ子も慌ててエレベーターを降りた。 どこへ行くつもりだろう。男はなんと、メイ子の家に駆け込んだのだ。
やはりあの男。あいつが犯人だった。持っていたカバンは、|鉈《なた》でも入りそうな大きさだ。 「お母さん!」
ストーカーが一方的な思い込みから殺人者に転じることはよくあることだ。 お母さんが|殺《や》られてしまう。メイ子の心臓はドキドキと波打った。ドアノブにしがみつきガチャガチャと回す。だが、ドアは施錠されてびくともしなかった。“そうだあたしの部屋! 窓が開いていたはず”
メイ子は咄嗟に閃いた。廊下の柵を乗り越え、西の外壁から自分の部屋に侵入を試みる。メイ子はここが十階だということを意識していなかった。普通に考えたら落ちたら助からない。だが、この時のメイ子はアドレナリンに支配され、自分の行動を正常に判断する状況になかった。西側のベランダの柵に乗り移る。それとほぼ同時に、いきなりカーテンが開いた。 驚いた男が“ギャー”と悲鳴をあげる。その強烈な叫びにメイ子が驚き、柵から足を滑らせた。
|堕《お》ちる
ゆめ!
メイ子は飛び起きた。 滝の汗をかきながら、今度もベッドで寝ていた。
時刻は11:55。もうすぐ真夜中の零時なろうとしていた。
ベッドの上で目が覚めるたびに同じ時刻なのだから、もう訳が分からなかった。たった今、起こった出来事なのか、はたまた夢の中なのか、さっぱり自信が持てない。繰り返される真夜中の目覚めに、明日は永遠に来ないとさえ思えた。
ベッドの上にDVDディスクが一枚落ちていた。あいつを捕まえて、いったいどういうことなのか問い詰めなきゃ!
メイ子は男をマンションの外で待ち伏せすることにした。
鼠色のパーカーを羽織る。顔パックをする母親を無視した。青いサンダルを履き、エレベーターに乗り込んだメイ子は、鏡に背を向けながら考えた。
“あたし、きのうのも、おとついも、昼間は何をしていた?” お昼間の記憶がまるでない。 いや、まったくないわけではない。断片的な記憶は枕木に付着した破片を、数羽のカラスが啄《ついば》み、そのおこぼれをスズメがつついている光景だ。それをメイ子はぼんやりと眺めている。そんな光景だった。 「あたし、それをどこから眺めていたの?」
カンカンカンカン 踏切が鳴る。 あの男が踏切の前でうろついているのを見つけた。
「ちょっと! 聞きたいことがあるんだけど」思わず言葉に出したメイ子は男に近づいた。
仁王立ちした男は、お札のようなものを振りかざした。 迫りくる電車。“うわぁあああああああ”と、男が叫ぶ。
これは夢なのか現実なのか。
「夢なら覚めろ!」と、メイ子は叫んだ。
強烈な光。 男が叫ぶ。
「長谷川メイ子! お願いだ、いい加減、成仏してくれ!」 メイ子が目を開けたと同時に悲痛な声が聴こえてきた。
眩しい……
あっと、記憶を思い出す。
電車が異様な警笛をあげ、メイ子に迫りくる。 風圧で横倒し。 そうだった。 あの日、あの夜、踏切であそぶ子供たちを見かけて、真夜中に浴衣を着た子供って、変だなって思いながら、でも踏切は危ないから、注意しようとして……
そうだ、あたし、電車に轢かれたんだった――
――※――
「竜人先生ありがとうございました」 若い男が深々と頭を下げた。
「先生、あれから、メイ子の霊は現れていません」「あっ、そう。その年若い女の子の幽霊は、やっと自分が死んだと気がついたんだ。そら、ようござんした」
鳥居滝人という初老の霊媒師は、梅田のとあるビルの一室で除霊のための札や壺を売っていた。
「先生にお見立ていただいた通りでした。近所の住人に話を聞いたところ、僕らが引っ越す前に住んでいた家族に、踏切事故にあった女子高生がいたことが判りました。相場より安く売っていたのは、そういう理由からだったと……。DVDとエレベーターの鏡の裏に貼ったお札、それから、最後にいただいた|と《・》|ど《・》|め《・》のお札が功を奏しました」
「その子、自分が踏切事故で死んだって、気がついていなかったと思うのね。人が突然死ぬと念の一部がそこに残るの。毎夜、現われたのはそういった理由からでしょう」「それって、残留思念ってやつですか?」「まぁ、流行りの言葉を借りればそういうことね」
あの西の角部屋は、母親が亡くなった父親の保険金を使って、半ば不動産屋の口車にのせられて購入した物件だった。まさかの事故物件。見え隠れする少女の幽霊、廊下の走る子供たちの足音などに悩まされ、親子で疲弊していた。鬱になった母親は親戚の家に身を寄せた。青年は人づてに霊媒師である竜人のもとを訪ねたのである。 札を買い、メイ子の霊を追い出したものの、若い男は除霊の真似事など二度と御免だと思った。
「先生のおかげで、母親も安心して家に帰れます」「きみ、安心するにはまだ早いわよ」 霊媒師は咎めるように言った。「と、いうと?」「そもそも、あの踏切に悪霊が取り憑いていて、その女の子も引き摺り込まれたわけでしょう。それに、もう一体、隠れているのを、君なら気づいているわよね?」
若い男は|あ《・》|あ《・》と声を出した。たまに出てくる顔パックの女のことだ。 「では、今度は先生に直接出向いていただいて」
「きみ、バカ言ってんじゃないわよ」 霊媒師はダイヤをキラキラさせながらダメだと手を振った。「最初に言ったわよね、あそこだけは、関わりたくないって。あの物件はね、とにかく一筋縄じゃいかないのよ。今回はね、君に霊が見えるから、|た《・》|ま《・》|た《・》|ま《・》うまくいっただけ。本格的に除霊するには私では無理ね。だって、あなた、あそこの踏切は事故つづきなのよ」
そうだ、先月も三人家族が乗る車が立ち往生して下り電車に巻き込まれたばかり。母親と若夫婦が犠牲になったのは記憶に新しい。
「では、どなたか除霊できる先生を紹介して頂くわけには?」
「そうくると思って、私も知り合いをかたっぱしからあたってみたわ。“戸口の踏切”っていう地名出したら、全員が断ってきたの。相当修行詰んだ僧侶も無理だって。そもそも水子塚をずらしてマンション建てちゃったんだから無理よ」
「それなら、今話題の事故物件として、動画配信者にでも貸し出しますか?」 ハハハっと青年はヤケになって言った。
「それも、有りちゃ、有りだけどさぁ、ただし、これからも死人は出ますよ。君は運が悪かったと思って、早いとこ引っ越すことです。さもないと、あのメイ子と同じ運命を辿ることになりますよ」
――※――
異様な警笛音。レールと車輪が発する金切り声に驚き、メイ子は飛び起きた。すぐさま窓にはりついた。眼下に見えるのは、緩やかな傾斜の途中で十ニ両編成の電車が停車していた。車両は空気圧をシュッと逃しながら微かに揺れている。「まただ」メイ子はすぐに人身事故だと察した。慣れっこなる自分が怖かった。床にぺたりと座り込む。傍に壊れた目覚まし時計が転がっていた。 いつのまにかデジタル時計は時を刻まなくなっていた。まるで時間が丸ごと止まってしまったかのようだった。しかし部屋のあるのは壊れた時計だけ。メイ子の部屋は文字通り、もぬけの殻になっていた。ベッドも扇風機も、いや、家にあった家電も、着るものもなくなっている。 「いくらなんでも断捨離しすぎだよ」 顔にパックの母親は相変わらずの変人ぶりだ。若い夫婦と老女がある日、三人がやってきてメイ子の家に居着いたのになんのリアクションもない。メイ子が何度も出ていくよう言っても無視され続けた。
“カンカンカンカン”踏切は鳴りっぱなしだった。けたたましい音はメイ子を落ち着かなくさせる。そわそわとした胸騒ぎに、いてもたってもいられずに、一階まで様子を見に行くことにした。
エレベーターは節電のために使用禁止の張り紙が貼ってあった。仕方がなしに階段を使う。ひたひたとビーチサンダルを響かせ、階数を降りる。
もういいかい――
――もういいよ
深夜近くにもかかわらず、パタパタと草履を履いた子供の足音が響いた。
一階はジメジメと湿った空気が漂い、カビ臭さが鼻をついた。床面も壁面も青々とした苔が生えていて、茶色くすすけた蛍光灯にかかる蜘蛛の巣に、翅のちぎれた蛾が絡まっていた。メイ子は気持ちの悪さに身震いする。 エントランスから電源の落ちたエレベーターを横切る。ドアを推し開け、外に出すぐの目の前に、大きな車輪が目に入った。その圧倒的な重量感にメイ子は思わずのけぞった。踏切の前では運悪く立ち往生する乗用車の周辺に、近所の野次馬たちが集まっていた。 「また、事故だ」「今度はお爺さんだってよ」「いったい、今年だけで何度目だ?」 ちらほらと話し声が聞こえてくる。 駅員が線路伝いに走ってきてきた。降りてきた車掌と合流し、車両の下を覗き込む。 やがて遠くから、複数のサイレンが聴こえてきた。 人だかりの中からすっと抜け出した老人が、おぼつかない足取りで、メイ子のいるマンションに向かってゆくのが見えた。 ( 了 )
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