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家に戻ると、縁側から虫の声が入り込んできた。ばあちゃんはまだ病院。
大地は一人でただいまと呟き、靴を脱ぐ。
家の中は昼間の賑やかさが嘘のように静かで、
足音がやけに響いた。
湯のみを持って座卓に腰を下ろすと、
ふいに頭の奥がじわりと痛むような感覚がした。
その瞬間、心の奥から淡い記憶が浮かび上がってくる。
――母ちゃんがいなくなった日の匂い。
雨のにおいが混じった、消毒液のような病室のにおい。
明るく笑う母の顔が、最後だけとてもやわらかくて。
それなのに、あの日から母の声は一度も夢にすら出てこない。
「母ちゃん……」
気づけば声が漏れていた。
子どものころ、母が作ったおにぎりの味。
転んだときに一緒に笑ってくれた声。
ぜんぶ、記憶の奥で光を失いかけている。
そして――父の背中。
母を失ったあと、父はしばらく何も言わず、
家の中を歩き回っては窓の外ばかり見ていた。
夕方になると必ず酒の匂いをまとい、
「アイツがいないなら、何をしても意味がない」
そうつぶやいた夜を、何度も聞いた。
あの日のことは、今も胸の奥に焼きついている。
父は黙ったまま、カバンひとつ持って玄関に立ち、
「大地……母さんに、似てきたな」
そうひとことだけ残して、雨の夜に消えた。
その背中を引き止めようとした声は、
喉の奥で凍ったままだった。
湯のみを握りしめながら、大地は天井を見上げる。
ばあちゃんが「笑ってりゃなんとかなる」と言ってくれるのは、
あの夜の沈黙を知っているからだ。
笑うことで、凍ったままの時間を少しでも溶かそうとしてきたのは、
自分だけじゃなかったのだろう。
「……俺、ちゃんと笑えてるかな」
小さな声が、静まり返った部屋に溶けていく。
そのときふと、今日の隼人の顔が思い出された。
「誰だって、いつも笑ってるわけじゃない」――
その言葉が、じんわり胸に染みていく。
大地は小さく息を吐き、
ゆっくりと縁側の障子を開けた。
夏の夜風がやさしく頬を撫で、
虫の声が、静かに心の隙間を埋めていった。