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――夜 。カーテンの隙間から街灯の橙色が、畳の目に細い縞を描いている。
大地は布団を敷いたまま、明かりを点けずに机の前へ座った。
時計の針の音が、ひとつひとつやけに大きく響く。
母が亡くなった日の空気を、まだ匂いとして覚えている。
病院の白。機械の電子音。あのとき父は泣かなかった。
手を握ったまま、何かを押し殺したみたいに、ただ真っ直ぐ母の顔を見ていた。
大地は声をあげたが、父は一度もこちらを見なかった。
葬式のあとの家は、家具の位置まで同じなのに、まるで空洞だった。
父はいつものように仕事に出て、帰っても何も言わない。
食卓は沈黙だけで埋まり、テレビの音が唯一の会話だった。
母の椅子は空いたまま、毎晩そこに目が行くたび、胸の奥がざわめいた。
ある日、父が古びた鞄を持って玄関に立っていた。
「仕事が長引く」とだけ言って、視線を合わせなかった。
ドアが閉まる音がやけに乾いていた。
翌日も、その次の日も、帰ってこなかった。
電話も手紙もないまま、父の気配は時間とともに薄れた。
ばあちゃんが迎えに来た日のことを、今でもはっきり思い出せる。
小さな背中なのに、不思議と揺るがない足取りだった。
「大地、うちへ来い」と言った声は柔らかくて、それだけで泣きそうになった。
今、そのばあちゃんの寝息が隣の部屋にある。
穏やかな呼吸が、遠い海の波のように部屋を満たしている。
あの頃の穴は埋まってはいない。
それでも、大地はゆっくり息を吸った。
――もう、誰もいないわけじゃない。
外で小雨が降り出した。
軒を叩く音が、胸の奥で長く反響していた。