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「いえ、足は本当に大したことないので。ご親切に付き合っていただいて、ありがとうございます」
男性の柔らかな笑みにつられて微笑み返し、頭を下げた。
「いえいえ。あの姿で帰すわけにはいかないですから。大したことないなら良かった」
男性は笑みを浮かべたまま煙草の火を消すと、
「あ、そうだ。これで足りるかな」
ポケットから取り出した五千円札を二つ折りにし、私へ差し出した。
「え……?」
「絆創膏とか着替えとかの……もし失礼でなければ受け取ってください」
男性はそう言って目尻を下げた。
「えっ。そ、それは駄目です。いただけませんっ」
私は両手を振りながら、慌てて首を横に振った。
「そうですか……。でも、こっちなら受け取ってくれるでしょう?」
男性は諦めたように手を引っ込めると、代わりに缶コーヒーを差し出した。
「珈琲、飲めるかな?」
「……あ、はい。好きです。ありがとうございます」
一拍置いて、小さく会釈をしコーヒーを受け取った。
「温かい……」
掌の中で温もりが広がる。
「夜風が少し肌寒いですからね。良かったら隣、いかがですか?」
男性は自分の横を手のひらで示し、「どうぞ」と穏やかに促した。
「はい。お邪魔します」
私は缶珈琲を両手で包んだまま、遠慮がちに近づいた。
「あ、ちょっと待って。えっと……」
男性は探るようにジャケットのポケットを軽く叩いたあと、コンビニの袋からもう一本コーヒーを取り出した。
そして、空になったビニール袋を自身の横へそっと敷いた。
「すみません。敷けるものが何もないので、これでいいですか?」
「はい、ありがとうございます」
私は笑みをこぼし、男性が敷いてくれたビニール袋の上に腰を下ろす。
お尻の下で、くしゃりとビニールの潰れる音がした。
「座り心地は悪いけど、汚れるよりはいい……よね?」
男性は少し照れたような顔をして私を見つめる。
その紳士的な心遣いが嬉しかった。
「思ったより座り心地がいいですよ」
男性を見上げ、ふっと口元を綻ばせた。
二人の間に静かな夜風が吹き抜ける。
「……明日は雨ですかね。湿った風に混じって土の香りがする。懐かしいな……」
男性は空を眺めながら、独り言のように呟いた。
「え……?」
思いがけない言葉に驚き、私はコーヒーから口を離して男性の横顔に目をやった。
「土の香り、草の香り、樹皮の香り、風の香り……。田畑の近くでは蛙の匂いまで感じていたのに、今はもう駄目ですね。
こんなアスファルトとコンクリートに囲まれた土地では、それも感じられなくなってしまった」
男性は夜空に視線を置いたまま、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「……感じられなくなったんじゃないか。大人になり、慌ただしい日々を送るうちに空さえ眺めなくなってしまった。きっと、感じ取ろうとする心のゆとりさえ失ってしまったんだな……」
「……」
言葉を返せないまま、吸い寄せられるように同じ空を見上げた。
「――あっ。突然すみません。『いきなり何を訳の分からないことを言ってるんだ』って思いましたよね。僕、子供の頃はど田舎に住んでいたものですから」
男性は、月も星も見えない薄雲に覆われた夜空から私へ視線を移し、自嘲気味に笑った。
私は目元を和らげ、その言葉を受け取るように口を開く。
「……流れる水の香り。私はオタマジャクシやドジョウ、ザリガニの匂いを辿って田んぼの中を走り回っていました。ふと足を見ると黒い蛭が付いていて、慌てて取ったりもしました」
「蛭が足に……? そんな経験をされた方には見えませんね。……意外です」
「一度や二度じゃありませんよ。お転婆娘でしたから。……どれも懐かしい思い出です。あなたが話してくれた景色が自然と目に浮かびました。実は私も田舎者なんです」
男性と視線が重なる。
仄かな懐かしさが胸に灯り、自然と笑みがこぼれた。
コメント
1件
缶珈琲とビニール袋の敷き方、一つひとつの仕草に男性の優しさが滲んでいて、そこだけ切り取ってもほっこりしました。お互いに田舎の思い出を語る場面、特に「蛭が足に」エピソードが意外で微笑ましく、二人の距離がぐっと縮まった瞬間が描かれていて好きです。続きが気になります🌷
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